悲劇の人形師
時計の短針がその日二回目の九を示すころ、街は月の光だけを頼りに輪郭をぼんやりと曖昧にする。人々は部屋の明かりを消して、一斉に息をひそめ眠りへ落ちる。まるで、見えないものが見えてしまいそうになるのを覆い隠すように。
森に近い家で暮らすアッシュは、街の灯が消えていくのを窓から眺めた後、枕元に置いてある小さなキャンドルの火をそっと吹き消し、ベッドへ潜り込んだ。
森の奥から、動物の泣き声が聞こえる。
翌朝、アッシュは着慣れないネイビーの正装で鏡の前に立っていた。首元が締まるのが嫌で、何度もネクタイを緩めてみたが、窮屈なのは変わらず、眉を下げて浅い溜息を吐く。
表彰式が行われる噴水広場へ到着すると、すでに集まっていた人々がアッシュを振り返り歓声を送った。
毎年六月、その年いちばんの人形が町民の投票によって「花嫁」に選ばれる。選ばれた人形は街のオークションに出され、最高金額を提示した者の手へ渡る。
今年の花嫁は、五十数年ぶりの最高値を記録したという。花嫁に選ばれた人形を創り出したアッシュは、重たい灰色の癖毛を撫で付け、照れくさそうにはにかみながら、噴水の前に用意された小さな赤い祭壇へ昇った。
「こんなに美しい人形を嫁に出してしまうのは、寂しくないかね」
アッシュが目前に立つと、たっぷりとした白い髭をたくわえた町長がよく響く声で尋ねた。
「全くそうではないと言えば嘘になりますが、祖父のなしたことを受け継ぐことができたというのに誇りを感じています」
前回の最高額を叩き出したのは、アッシュの祖父、グレゴリーが創り出した人形だった。黒曜石のように美しく艷やかな黒髪を持つその人形は、持ち主を亡くした後、街の文化館に飾られている。
アッシュが町長を真っ直ぐに見つめて答えた言葉に、表彰式を訪れていた町民の何人かは薄っすらと涙を浮かべた。
アッシュが二度家族を失ったのは、いずれも六月の梅雨の時期だった。
この街では、幼い子どもが居る家庭の両親が殺されるという事件が、三十年ほど前から多発していた。いずれも殺された者は街近くにある森で分解された状態で見つかる。
親を亡くした子どもたちを引き取っているのが、今回アッシュの人形を花嫁へ迎え入れたモーガン夫妻だった。
六歳のときに両親を失ったアッシュは、幸いにも祖父が健在だったため施設で過ごすことはなかった。
アッシュがとうとう孤独になったのは、二十歳の六月のことだ。その日、アッシュはグレゴリーと些細な喧嘩をしてしまったことをひどく後悔していると語っていた。
また、当時アッシュが二十歳であったため親殺しのターゲットからは外れること、グレゴリーの死体はアトリエに残っていたことから、事件との関連は無いものと見られている。
ただし、アッシュの父は左手、母は右手を、祖父は両耳を失っていたということから、模倣犯の可能性も考えられていた。
「悲劇の人形師」。街の人は、アッシュをそう呼んでいた。
祖父を失ってから七年間、毎日ひたすらに人形を創っていた。生前の祖父に人形師としての腕を認めてもらうことはできなかったが、ようやく一歩近づくことができた。
アッシュは、式でもらった表彰状と、街の人々にもらったたくさんの食糧を両腕に抱えて帰宅すると、まずは果物を切り分けて、両親の写真の前へ置いた。
写真の中の二人は、手をつないで笑っている。その隣で、小さなアッシュがクマのぬいぐるみを抱きしめ、照れくさそうに不器用な笑顔をつくっていた。
*
花嫁に選ばれた人形と、惜しくも選ばれなかった人形の上位三体までが、噴水広場近くの展示場に飾られる。
表彰式の翌朝、アッシュが自分の人形を見ようと広場へやって来た時、そこには既に大きな人だかりができていた。アッシュがその一番後ろでなんとか自分の人形を見ようと背を伸ばしていると、それに気がついた一人の男が声を張り上げた。
「おい、花嫁の主がいらしたぞ! みんな道を開けてやれ!」
男がアッシュの背を強く叩くと、ショーウィンドウに釘付けだった人々が一斉に振り返り、アッシュへ称賛の拍手と賛辞を向けた。
アッシュが気まずそうに灰色のくせ毛を撫で付けながらショーウィンドウの前までやって来ると、先に居た二人が彼を見た。
「主役は遅れて登場ってやつか。余裕だな」
明るく透き通るような柔らかい金髪をひとつに束ね、長い前髪を大きく掻き上げるフロンを見て、アッシュは首をかしげた。
「いつもの取り巻きは一緒じゃないのか」
普段、通行を妨げるほどの女性を連れて歩くフロンが、殊に自身の祝の場に一人で来ていることが不思議だった。
「友人たちのことか。もちろん、一緒さ。でも、今日の主役は僕じゃないからね。少し離れたところで見守ってくれているんだ。健気だろう」
フロンが自身の背後を顎で示したのでそちらを見やると、彼女たちは分かりやすくアッシュを睨めつけた。自分たちの親愛なるフロンが”二番”であることに納得がいかないのだろう。
続けてフロンが彼女たちを振り返ると、くるりと表情を変えて愛嬌を纏うのを見て、アッシュは怪訝そうに顔をしかめた。
「一位と二位は仲が良くて何よりだな」
背後からの声にアッシュが体を向けると、夜に溶けてしまいそうなほど黒い髪で目元を隠したモリスが、前髪の隙間から白の広い目を覗かせてじとりと二人を睨んだ。
「気にするな、モリス。特別なのは花嫁を創り上げたアッシュだけ。他はみんな脇役なんだから」
フロンが親しげにモリスの左肩へ腕を回して励ますと、モリスはひどく嫌そうにその手を払いのけようとした。フロンは構わずモリスの背後へ回り込み、もう一方の手で右肩を掴んで体をショーウィンドウの方へ向ける。それにつられるように、アッシュも体をひねる。
向かって右側で、モリスの人形がアイアンチェアに腰掛けている。顎の下で切りそろえられた黒のボブヘアはさらりと軽そうで、それを覆うように白いバードケージヴェールを載せている。その隙間から見える唇は、血のように赤いルージュが引かれている。黒のケープを閉じる大きなシルクの赤いリボンからは、白い首筋がのぞく。纏う黒のドレスの裾にはたっぷりとしたパニエが仕込まれており、伸びる脚はすらりと細い。
向かって左側には、フロンの人形が同じアイアンチェアに腰掛けている。腰まである桃色の髪は細やかなカールが施され、小さな耳の後ろあたりで2つに結われている。ふっくらとした輪郭の頬は淡い桜色。厚い睫毛の先には小粒のスワロフスキーが涙の欠片のように添えられている。大きめのフリルがあしらわれた白いワンピースは膝よりやや短く、そこから覗くふくらはぎも細すぎずやわらかな印象を与える。膝の上で組まれた指の先の小さな爪は、髪と同じ桃の色で染められていた。
二体の人形が挟むように中央で凛と立っているのが、アッシュの人形、この年の「花嫁」だった。
背中の中央まであるプラチナの髪はずしりと重いのに一本ずつの毛髪は軽く柔らかで、質の良さがわかる。化粧気が無いのに、整った顔立ちと桜色の唇が見るたびに異なる表情を浮かべているようで、人々はつい振り返ってしまう。高過ぎない鼻と小さくて柔らかそうな唇が、作り物ではなく生きた人間を思わせる。真紅のワンピースは襟や袖に黒のレースがあしらわれ、そのくっきりとした色味が透き通る肌の白さを際立たせている。
モリスの人形が灰色の瞳、フロンの人形が濃紺の瞳を見せているのに対して、アッシュの人形はまるで眠っているかのように瞼を伏せていた。花嫁の瞳は、持ち主の元へ行く時に初めて開かれる。
「僕はそろそろ帰るよ。明日の予約が入ってるんだ。今日は最終メンテナンスをしないと」
アッシュは二人に言うと、再び町民達の群れを縫ってその場を離れた。
「素っ気ないな。晴れ舞台だってのに」
「アイツは昔からそういう奴だっただろう。創る人形のほうがよほど人間味がある」
モリスがアッシュの後ろ姿に向かって言うと、フロンが声を立てて笑った。
噴水広場は、連日展示場のカーテンが閉じられる時間まで賑わっていた。
*
表彰式から三日経ち、アッシュの人形が嫁ぐ前の日の晩、満ちる間際の幾望の月は、雨を降らせる黒く重い雲に覆われていた。
展示場のカーテンもまた、その奥の悲劇を隠すように重く揺れている。
ガラス窓の奥で静かに座る二体の人形は、あらぬ方向へ手足を曲げ、瞼の裏にある球体にできた瞳の空席をさらける花嫁をじっと見つめていた。
雨の音に紛れて森から届く動物の泣き声さえ、寝静まった町民たちは知りえなかった。
*
「人形をいただけないというのは、どういうことですか」
翌朝、花嫁を受け取るはずだったモーガン夫妻は、招かれた町長室で、大きく目を開いて驚きを顕にした。
町長は立ち上がって深く頭を下げ、アッシュは灰色の髪で顔を隠すようにうつむいていた。
「申し訳ありません。このような事態になってしまったのは、防犯の徹底不足で」
「原因や起きてしまったことを重ねなくて結構。……いや、失礼。我々も理解しているのです。あなた方が全面的に悪いわけではないことも」
妻は、夫がそう言ってうなだれソファへ腰を落とすのを見て、太い眉を下げながら、慰めるように背を撫でた。
「本当に、せっかく人形を気に入ってくださったのに」
黙り込んでいたアッシュがぼそりと呟くように言うと、部屋に居る三人が一斉に振り返った。
「君はむしろ被害者だ。怒り嘆くことはあっても、罪を感じる必要は無いのだよ」
「ああ、そうだとも。修復することは適わないだろうが、ぜひ今度、君の店で人形を購入させてほしい」
「ええ、ええ。施設の子ども達も、きっと喜びますよ」
町長と夫の言葉に妻が続いたとき、部屋はしんと静まった。
「……あ、ありがとうございます。なんだか、ようやく気持ちが落ち着いたような気がします」
皆の鬼気迫る様子に呆気にとられていたアッシュが表情をやわらげるのを見て、三人がほっと胸をなでおろした。
「そうさ。悪いのはすべて、人形を壊した犯人なのだから」
夫がそう言って額を覆うのを見て、アッシュはガラスのように透き通る青の瞳を壁へ向けた。
「さほど広い街じゃありません。皆にも話を聞いてみます。もちろん、それで人形が戻ってくるわけではないので、ただの自己満足ですが……」
アッシュが決意を固めて強い口調で言う様子を見て、夫妻は首を振った。
「私達だって、迎え入れようとしていた娘があんな姿になってしまった理由を知りたいわ。何かお手伝いできることがあったら教えてちょうだいね」
妻がそう言ってアッシュの右手を両手で持ち上げ強く握りしめるのを見て、夫は深くうなずいた。
その日の昼、広場の近くにあるカフェでランチをしていたアッシュのもとへ、フロンがやってきた。
「やぁ、悲劇の人形師。本当によく災難を呼び込む奴だな」
フロンは白く細い指をひらひらと動かして挨拶すると、アッシュの正面の椅子へ腰掛け、やって来たウェイトレスへカフェオレを注文した。
「今日もお仲間は離れたところに居るのか」
アッシュがフレンチトーストを切り分けながら尋ねると、フロンが前のめりになってアッシュの顔を覗き込んだ。
「なんだ、思っていたより悲しそうじゃないな。気丈に振る舞っているだけなのか、それとも」
フロンが質問に答えないままいうと、アッシュが視線だけを向けて、ナイフを動かす手を止めた。
「変なことを言って悪かったよ。彼女たちは今日は留守番だ。犯人探し、するんだろ。手伝うよ」
体を起こして両手のひらを見せながら、フロンが軽い口調で告げる。アッシュがその真意を分かりかねて怪訝そうに眉を寄せるのを見て、フロンは声を立てて笑った。
「一応、僕も容疑者のひとりだからね。犯人が見つかれば疑いは晴れる。あとは、単純な興味さ」
アッシュが断る理由を特に見つけられないままランチセットを食べ終えると、二人はテーブルに開いたアッシュの手帳を挟んで見つめ合った。
「何でも聞いてくれ」
仰々しく両腕を広げるフロンの姿をみて、アッシュは眉を寄せ溜息を吐いた。それから万年筆を左手に、持ち手の先で軽く頭を掻いた後、キャップを開いた。
「僕が最後に人形を見たのは、事件の当日の十五時頃。そこから二十時までは、ショーウィンドウのカーテンは開いていたはず。つまり、犯行はそれ以降に行われていて」
質問をする前に簡単な状況をまとめようとするアッシュの姿を見ながら、フロンは笑みを浮かべている。
「つまり、二十時以降のアリバイを証明することができれば、僕の疑いは晴れるというわけかな」
「……そうなるだろうね」
アッシュは普段と変わらない飄々としたフロンのペースに巻き込まれながら、答えを聞こうと顔を上げた。
「十八時頃から、友人たちと食事をしていたよ。二十時には切り上げて僕の自宅へ。ちなみに、帰りに噴水広場を通ったけれど、特に妙な様子は無かったな。帰宅してからまた少しワインを楽しんで、二十一時には就寝さ。食事をしたのはサリー、アザレア、リリーと」
つらつらと語られる言葉を追いかけて必死にペンを走らせていたアッシュは、フロンの口から女性の名前が連なり始めた時、慌てて手のひらをその口元へかざして静止させた。
「いい、いいよ。君にアリバイがあるのはもう分かったから」
アッシュの言葉に、フロンは数回目を瞬かせてから、ふっと口元を緩めて椅子の背に寄りかかった。
「アッシュ、僕は自分の潔白さを誰より理解しているから問題ない。だけど、本当に裏の分からない奴にもそんな調子じゃ、真相が見えなくなっちまうぞ」
フロンの言葉にアッシュが黙り込んでしまうと、フロンは立ち上がり体を思い切り伸ばした。
「まあ、良いさ。フォローは僕がしよう。まずは町長の所だ」
アッシュは急いで荷物をまとめ、町長の家へ向かうフロンの背中を早足で追いかけた。
*
今朝は花嫁損壊事件のせいで慌しい様子だった町長の家も、昼過ぎに訪れるとすっかりいつもの様子に戻っていた。
「お忙しいのに、何度も来てしまってすみません」
「いや、いや。構わんのだよ。事件について話を聞きたいと言われた時には驚いたが、私も疑われるべき一人であることは間違いないからね」
町長は小さなアタッシュケースを机に載せ、来客用のソファへ腰掛けるアッシュ達の対面へ腰を下ろした。
「モーガン夫妻へ頭を下げてくださった町長にお話を聞くというのは、失礼だとは思ったのですが……」
アッシュが気まずそうにフロンへ視線を送ると、ただ楽しげな笑顔が返ってきたので、再び町長の方を向き直した。
「君が気にすることじゃあない。さて、私が最も怪しい点については、この鍵のことだろう」
開かれたアタッシュケースの中はベルベッド素材で、中央には四本の鍵が固定してしまわれている。一本は展示されている建物へ入る鍵、残り三本はそれぞれの人形が飾られている個室へ入る鍵だ。
「ご覧の通り、鍵は四本。このケースがしまわれた金庫が荒らされている様子もないから、鍵がここから盗まれたということは考えにくいだろうね。私自身の行動についてだが、残念ながら、昨晩は妻とともに自宅で過ごしていたよ。身内の証言が信用に足らないことは承知しているが、こればかりは信じてくれとしか言いようがない」
アッシュが必死にメモを取っている横で、フロンは真剣な表情で町長の話を聞いていた。
「えっと、ありがとうございます。他には……」
「いえ。僕たちとしても、街の人々のことを第一に考えてくれている町長のことを疑いたくはなかったんですよ。ケースまで見せていただいて、ありがとうございました」
アッシュが続きに困って見ると、フロンは人好きのする笑顔を浮かべてソファから立ち上がった。それに続くようにアッシュが立ち上がり、二人は町長宅を後にした。
「あっさりしてたけど、良かったのか」
「君が言うかな、それを。まあ、いい。町長に確認したかったのはひとつだけ。鍵の所在だ。街の大きな財産である花嫁を壊す理由、彼には無いからな。オークションで手に入るはずだった分け前がなくなるどころか、夫妻へのお詫び金でマイナス。展示場の防犯を見直すのにも費用がかさむだろうし、あらゆる方面への謝罪に追われる時間と労力。それらを思えば、町長が花嫁を壊すメリットなんて無いんだよ」
淀みなく出てくるフロンの言葉に呆気にとられていたアッシュは、一呼吸置いてその意味を理解すると、不愉快そうに眉を寄せた。
「それなら最初からそう伝えておけば良かったんだ。疑っているようなことをしなくたって」
「それとこれとは話が別さ。人間、誰しもが理解できないことをやる時だってある。話を聞いてこちらの損になることはないからね。まぁ、彼は嘘をついている様子はなかったよ」
フロンがそう言って肩をほぐすように腕を回すのを見ながら、なんて強かな奴なのだろう、とアッシュは身震いした。
「ところで、あまりに初歩的なことだから確認していなかったけど、君は鍵をちゃんと持っているんだろうね」
フロンが振り返って見ると、アッシュは一瞬驚いたような顔をしてからズボンのポケットへ手を差し入れた。
「あぁ、大丈夫だ。鍵は……」
アッシュが取り出した錫のキーホルダーに鍵がついているのを見て安堵したのも束の間、二人は顔を見合わせてある人物の元へと急いだ。
住宅街の一角、連なる家々とは少し離れた所にある小さな戸建て。アッシュがその戸を叩くと、起きたばかりらしい不機嫌そうな表情のモリスが現れた。ただでさえ白くて不健康そうな体が、よりいっそう弱々しく映る。
「なんだ、君たちか。騒ぎはもうおさまったのか」
がりがりと髪をかき乱し、モリスが大きなあくびを浮かべるのを見てから、アッシュとフロンは頷きあった。
「ずいぶん眠そうじゃないか、モリス。夜ふかしはこの街じゃ目立つぞ」
フロンが意味ありげにいうと、モリスははっと目を開いて扉を閉めようとした。アッシュがそれを止めようとして、扉の隙間へ足を差し込む。
「違う! 俺じゃない。俺はただ物音がしたから中へ入っただけだ。その時にはすでに人形は壊されていた! そうだ、中に入った時、誰かが俺にぶつかったんだ。きっとそいつが犯人で」
モリスが言い終える間際、アッシュは差し込んだ足と手を使って無理やりに扉を開き、その勢いで倒れ込んでしまったモリスに視線ひとつやらないまま部屋の奥へ進んだ。
物の散乱したリビングを見回して、モリスが普段着ているチョッキを認めると、床に落ちている物を踏んでしまうのも気に留めず、それの掛かっている椅子へ歩みを進めた。
「違う、壊したのは俺じゃない。それは」
チョッキのポケットが膨らんでいるのを見て、アッシュは迷いなく利き手を差し入れる。フロンに動きを封じられたモリスが、どうにかそれを止めようとするが適わない。
アッシュは、指の先に冷たく丸い感触をおぼえると、つうと口の端を吊り上げさせた。
右手に持った鍵を二人へ掲げて見せると、フロンは強く頷き、モリスは困惑した表情でアッシュを見つめた。
*
結局、その年の花嫁譲渡式は行われず、街では今回の事件に関する話がもちきりだった。
「モリスの創る人形も悪くないのにねえ」
「この先何を創ったって、花嫁殺しの名前がついてちゃ売れやしないさ」
「でもまあ、あの夫婦のところに行かなかったのも幸せかもしれないけどねえ」
「アンタ、森の泣き声の話を信じてるのかい」
「森の孤児院から泣き声が聞こえるっていう? 嫌だよ、やめとくれよ」
噂話を聞き流しながら、両腕いっぱいに食糧を買い込んだアッシュは自身の工房へ急いだ。
*
アッシュは店の離れにある工房へ入ると、一番奥の部屋へ向かいパチンと固い音を立てて電気のスイッチを押した。
打ちっぱなしの冷たい天井に、蛍光灯が三本。部屋の中央には、一体の人形が椅子に座っている。近づいてみると、頭から脚まで、様々なパーツが継ぎ接ぎに繋ぎ合わされているのがわかる。
男の左手と女の右手、男の両耳は人間のそれが縫い付けられ、他は布で創られている。
大きなぬいぐるみのようなソレの目は、瞳だけが暗く深い闇を思わせる空洞だった。
アッシュがポケットから丸められた白いハンカチを取り出す。ゆっくりと広げて二つの宝石を取り出すと、人形の空洞へ埋め込んだ。
「あげるのが遅くなってごめんよ。警察に話を聞かれたり、街の人に捕まったりして忙しかったんだ」
アッシュは人形の頬に手を滑らせ、恍惚とした表情を浮かべた。
「やっぱり、きれいだなあ。こんなにきれいなのに、どうして誰かに渡そうとしたんだろう。これは君にこそふさわしい。それに、あんな汚い大人達の手に渡るくらいなら、人形だって壊された方がマシさ、そう思うだろう」
両目に埋め込まれたルビーは、よく近づかなければ分からない細やかなカットが施されていて、見る角度によって光の差し込み方が異なるようになっていた。
あの日、モリスのポケットから見つけたのはこの瞳だった。探していた、片割れ。
アッシュは、自分の人形がモーガン夫妻の手元へ渡ると知った時から、人形を壊すことを決めていた。夫妻が施設の子ども達にどんな仕打ちをしているのか分かっていたからだ。
自分の人形を壊すことに抵抗も後悔も無かった。アッシュにとって、この工房にある一体だけが【本物】だったから。しかし、瞳に嵌め込んだ石のことだけは忘れることができなかった。これだけは、失われるべきではない。そう思って宝石だけ持ち帰ろうとしたのに、誰かが入ってきたせいでひとつ取り逃がした。そのうえ翌朝見たときには、そこにあるはずの宝石が無かった。
アッシュにとっての犯人探しはそこから始まった。
瞳がきらきらと輝くのを見つめながら、人工の髪をそっと撫でる。きっとこの子には、美しい金色の髪こそふさわしい。
アッシュの脳裏に、犯人探しの時に行動を共にしていた、美しい金髪を持つ女性の姿が浮かんだ。
■ ■ ■ ■
アッシュの両親は、彼が六歳になったばかりの六月の雨の日、彼の目の前で殺された。
切られた首から赤い飛沫をあげる二人の姿を呆然と眺める彼に、名前の分からない男は可笑しそうに口元を歪めた。
「お前は泣いたりしないんだなあ。気絶もしないし」
白いシャツを赤く染めた男は、床へ座り込んでいるアッシュの前にしゃがみ、持っていたナイフの先をアッシュの顎元へあてがった。
「アイツらの所へ持っていくのはもったいないなあ。……お前、たしか爺さんが居たな」
男がナイフの先をゆっくり動かしながら尋ねるが、頷くことのできないアッシュが困惑して瞳を泳がせるのを見て、げらげらと汚い笑い声を上げた。
「悪い、悪い。まぁ、爺さんは残しておいてやるから、そっちに行きな。親の体はもらっていくがな」
男が立ち上がりアッシュの父の体を担ぎ上げたとき、アッシュが口を開いた。
「全部、持っていっちゃうの」
絞り出すような声に驚いて男が振り返ると、アッシュが寂しそうな目で男を見上げた。
「全部、って……どっか欲しいモンでもあるのか」
担ぎ上げた体をアッシュの目前へ下ろすと、アッシュは父の左手と母の右手を、小さく細い指で引っ張り上げた。
「これと、これ。いつも一緒だったから」
アッシュの脳裏に、両親が仲睦まじく手をつないで歩く後ろ姿が浮かんだ。少し離れたところで、彼の右手は、ぼろぼろになったクマのぬいぐるみを握りしめていた。
「お前は、俺とおんなじだなあ」
少し離れた場所にある物へ向かって独り言を呟くように、男はそうささやいた。
「明後日の昼、森にある湖に来な。プレゼントだ」
アッシュは男の言葉にうなずいてから、足元で両親の血を吸い込んだクマのぬいぐるみを持ち上げて抱きしめた。
*
それは十七歳の六月のことだった。窓の外ではしとしとと雨が降り続いて、周りの音を吸い込むので、工房で作業する音がいつも以上に強く響いていた。
「お前は、すぐれた人形師にはなれない」
両親の命日に、グレゴリーは呟くように言った。自分の子どもが亡くなったのと同じような雨の日だったから、思い出していたのかもしれない。
「お前が求めているのは、目に見える美しさだけだ」
グレゴリーはそう言うと、つんと先の尖った特徴的な耳を怒りに赤く染めて震わせた。
欲しい。アッシュの頭にその言葉が浮かんだ時、グレゴリーが静かに彼を振り返る。
「工房の奥の部屋で、未完成の人形を見つけた。あれは……あの、手は」
怒りか、悲しみか、そのどちらもかは分からないが、混濁した感情に声を震わせるグレゴリーの前に立ち上がったアッシュは、深い溜息を吐いた。
この家に迎え入れられた日、祖父の大きな体に言いようのない安心感をおぼえ、声を出して泣いてしまったのを、アッシュは思い返していた。
いま見下ろしている祖父の体は小さく、細い。あまりに頼りないその姿に、アッシュの心が冷えていく。
新しい人形の椅子を作るのに木を削っていたナイフを持ったまま、グレゴリーの左耳に右手を添える。
「お前は、欲を違えた化物だ」
全てを覚悟しても消えることの無い恐怖に肩を震わせるグレゴリーが強い声音で言うのを聞いてから、アッシュは迷いなく左手を振り下ろした。
■ ■ ■ ■
アッシュの人形が壊された翌年、花嫁に選ばれたのはフロンの人形だった。彼女のファン達はそれを自分のことのように喜び、花嫁譲渡式の日にはフロン以上に涙を溢れさせていた。
多くの愛を受け、それに応えてきた彼女の金色の髪は、いつもきつく束ねられていた。
「こんなにやわらかくて美しいのに、もったいないよなあ」
工房の中央で、アッシュは人形の艶やかな金髪をやさしく撫でながら呟いた。
森の奥から、動物の泣き声が聞こえる。
END.