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第6回 覆面お題小説  作者: 読メオフ会 小説班
10/26

永遠の密室

犯人は、わかってる。


 車窓から外の景色を眺める。そこには丸顔で小さな肩幅の男子映っている。ただ室内灯を背景に硝子に映る自分の顔が反射しているだけだった。窓の向こうの風景は暗闇に溶けて見られない。

 夜の帳が下りた中、バケツをひっくり返したかのような雨が絶え間なく吹き付けていて、攻められているような音が鼓膜を叩き続ける。

 リクライニングはせず、背筋を伸ばしている。そわそわしている自覚はある。乗り慣れていない新幹線に緊張しているのもある。なによりも早く目的地について欲しいという気持ちが抑えられない。

 執事は常に冷静であれ。執事長に七歳から言われた言葉が今の自分の核を作っている。

 今だって表面上はそれを装っている。

 しかし心の中は車窓の外のように嵐が吹き上げている。

 周囲に建物のない高架の上を、雨を切り裂きながら新幹線は進んでいく。いくら気持ちがはやっていたとしても、到着の時間は変わらないのだから、ただ落ち着くしかない。

 気持ちを少しでも落ち着けるために、前方の座席についているテーブルを出した。

 手帳型ケースで固定したスマホを乗せた。耳に無線イアホンを詰め、準備完了。映画を見始める。 「百と百花の雲隠れ」という映画だ。僕が生まれる前に公開されたアニメ映画だけれど、ついこの前まで日本の観客動員数歴代一位を誇っていて、繰り返しテレビでも放映されている。

 今日は本当なら非番だったから、自室で寝転がりおやつでも食べながら、大きなテレビで見ているはずだったのだ。

 それが突然の「出張」となってしまった。

 おかげで揺れる車内、お酒とお弁当の匂いの中、スマホの小さな画面において動画配信サイトで見ることになってしまった。

 この映画の主人公は十歳の少女で名前を百花という。百花は不思議な国に迷い込み、そこで名前を取り上げられ「百」と名乗り、神様の来るお風呂屋さんで働くことになる。

 何度もこの映画を見てしまうのは、もしかしたら自分を重ねているのかもしれない。


 僕は孤児だった。

 物心ついたときには施設にいて、両親の痕跡なんて僕の身体のなかになにひとつ残っていなかった。

 施設は冷たかった。経費削減のためか電気は最低限して点いておらず、常に薄暗く、闇が濃い。

 指導と称した体罰も日常的に行われていて、子どもたちには生傷が耐えなかった。

 冷暖房も禁止だったので、特に冬は薄い毛布にくるまり、震えながら朝を待った。

 僕を含め、子どもたちは楽しいことや笑うことを知らなかった。


 来年より小学生になるというとき、転機が訪れた。

 ある日、ひとりの男性が施設を訪ねてきた。

 捨てられた子どもたちに会いに来る大人は珍しい。

 まれに会いに来たとしても、事情がある人が多かったから、余裕がない人が多かった。

 でもその男性は違った。すらっとした長身で細身のスーツに身を包み、立ち振る舞いに気品があった。

 幼いながら、纏う空気がはっきと異なり、空間に異物が入ってきたことを肌で感じた。

 その男性は後ろに別の男性を従え、施設長となにかを話した後、僕の元にやってきた。

 男性は僕の前で膝を曲げ、目線を合わせる。香水の匂いが鼻孔をくすぐる。色の薄い瞳はとんでもなく美しかったけれど、値踏みするような視線は肉食動物のようで恐ろしかった。

「……まあいいだろう。この子にします」

 立ち上がった男性は施設長にそう言うと、僕の手をひきそのまま施設を出て自分の車に乗せた。

 遅れて同行していた男性が運転席に乗り込み、車を発進させた。 僕がその後、あの閉じた世界に戻ることはなかった。


 その男性が、僕の育ての親である四角(よすみ)(たかし)様だ。


 四角家。

 明治時代より続く四角財閥の本家。四角財閥は日本五大財閥のひとつであり、戦後占領軍により解体されたものの、現在も多くのグループ企業を抱え、日本の経済界に大きな地位を占めている。

 七歳の僕はその四角家の執事見習いとして勤めることになった。


 僕にはもうひとつ、重大な仕事があった。

 それは四角家の長女、(りん)様のお付きだ。


 施設から四角家の屋敷に入る。すぐにシャワーを浴びて、服を着替えさせられ、髪を梳かされた。

 垢を洗い流され着飾った自分の姿を鏡で見たとき、僕は最初自分だと認識できなかったぐらいだ。

 そのまま崇様に凛様の自室へ連れて行かれた。

 凛様の部屋に入ったとき、僕は現実感を失った。部屋の大きさは僕がいた孤児院の食堂より広かった。家具と家具の距離があまりに離れていて、空白に落ち着かなかった。

 はじめてあった凛様は、少しウェーブのかかった、烏の濡れ羽色の髪を青いリボンで結んでいた。胸元に赤色のスカーフ地のリボンをつけた、光沢のない黒い生地のワンピースに身を包み、部屋の真ん中で崇様、そして僕を出迎えた。

 凛様は僕を一瞥し、そのまま氷のような冷たい視線で僕を見据えきた。

 その薄い瞳はやはり美しく、崇様そっくりで、恐ろしかった。

 自分だけが完璧に違うものであることを本能的に理解した。

「凛。この男子をお前にやる。お前の好きなように使うといい」

 崇様はそれだけ言うと、もう僕のことなど一瞥もせずに部屋を出て行ったしまった。

 部屋に残された僕はただただ緊張した。窓から差し込む夕日に染まる感情のない凛様の顔。現実感の欠如。高まる緊張。狭い世界で生きてきた人間の処理能力をとうに越えていた。

「ふーん。あなたがわたしのおつきなのね」

 無表情の凛様の顔にはじめて感情がが宿った。余裕の表情だった。

 凛様が近づいてくる。僕は顔を逸らした。気後れして、見ていられなかった。

「こら。ちゃんとこっちを見なさい。自分がつかえる主を見ない人がありますか。今までのあなたは死にました。これからは新しい生きかたをするのです」

 僕より少しだけ背の高い女の子が、まるで大人のような大それた言い回しで、

「あなたの名前はとおる。屋久島やくしまとおる。私は凛。四角凛。これからよろしくね。わたしの弟くん」

 僕と同じくらいの年相応の少女のように、破顔一笑した。

 凛様は僕の手を握った。その手はとても温かった。


 僕の恩人である崇様。凛様。

 お二人を護り、四角に尽くすことが僕の人生だ。

 それなのに、今日の夕方、執事長から齎された情報は、僕の人生の方向をまるごと変えてしまうような内容だった。


「今日、崇様が亡くなったそうだ。別荘の自室で胸を刺された、と。そして、刺したのは……凛様のようだ」


 僕は急いで荷物を纏め、執事服の上にサマーコートを羽織り、屋敷を出発し新幹線に乗り込んだ。

 執事の代表として現地に行く役目に僕が選ばれたからだ。

 凛様のお付きであることも関係しているだろう。

 崇様と凛様は今日の朝から軽井沢の別荘に行っていた。

 見送りの際、お二人になにか問題があったようには見えなかった。

 本当に、凛様が崇様を刺したのだろうか。

 ふと横を見ると、隣に座っていた男の子が僕のスマホを覗き込んでいた。画面にアニメが映っていたので興味を惹かれたのだろう。

「すいません。行儀が悪くって」 通路側の席にいたお母さんが謝り、身を乗り出していた子どもの身体を自分の方へ引き戻した。

「いえいえ。どうぞ気にせず」

 無線イヤホンを片方とって、男の子の耳に入れてあげた。そしてスマホの角度を通路側に傾ける。男の子がまた身を乗り出して画面に集中しはじめた。

「すみません。お気遣いいただきまして……『百と百花の雲隠れ』。とても面白いですよね」

「ええ。とても好きな映画なんです。お母様もお好きですか?」

「はい。学生時代からこのアニメスタジオの作品では一番好きです」

 お母様の年齢は三十代前半ぐらいだろう。そうすると、この物語はきっと親子二代に渡って愛されていくのかもしれない。

「そういえば、今度舞台になるそうなんですよ」

「そうですか。主演は声優さんと同じように、子役のこが?」

「違うんですよ。大人の女優さんです。たしか……」

 心は逸るばかり。しかしほんのつかの間、これからはじまる修羅場への緊張を和らげることが出来た。


 軽井沢の駅で親子と別れ、タクシーに乗って四角家の別荘へ向かう。西に移動してきたが雨の勢いは衰えておらず、ワイパーがガラを掻く音が鼓動を高鳴らせ、ノイズに苛々させられる。

 高台に位置する別荘に辿り着いた。タクシーを帰し洋館のドアの前に立つ。

 インターホンを鳴らし管理人を呼び出す。少し待っていると重そうなドアがゆっくりと開き、中年の男性が顔を出した。

「お疲れ様です。本家執事会より参りました屋久島透です」

「管理人の仲里(なかざと)兼広(かねひろ)です。お待ちしておりました」

 兼広氏は私を屋敷に入れてくれた。

 まず凛様に会わせて欲しいと申し出た。

 兼広氏は受付ロビーの階段を上り二階の客間に案内をしてくれた。

 ノックをして部屋に入った。客間は十二畳の和室だった。

 その部屋の真ん中に、不釣り合いな洋風の椅子がぽつんとひとつ置かれていた。

 凛様は椅子に座っていた。

 その姿を見たとき、僕は情報の誤りを疑ってしまった。

 凛様は膝上のスカート姿なのにはしたなく足を広げ、背もたれに身体を預けていた。自慢の髪も艶は相変わらず見事だったが、振り乱されてくしゃくしゃだ。

 全身から力が抜けていて、口元も微かに開いている。顔面は病的に蒼白で、目の焦点が合っていない。

「……凛様。なんておいたわしいお姿に」

 僕は近づき、生気の感じられない凛様の身体を抱きしめた。

 その際に目に入ってしまった。

 凛様の来ている生成りの白いブラウスに、鮮やかな赤色、血痕が付着していることに。


 執事長に状況を報告した。

「今回の一件は、四角家より執事会に一任された。そして我々は君に今回の処遇を一任する。四角家の最善のために尽くすよう」


 平々凡々のだめ執事に手に負えるような話じゃない気もするけれど、

まあ、たまにはがらにもなく、やってみましょうか。



 別荘は軽井沢の旧軽井沢地区の奥まった場所にある。

 元々は大正時代に海外の建築家により東京に建てられた四角家の別邸で、戦後に現在の場所に移築している。

 賓客を迎える一階は洋風建築で、屋敷を縦断するように玄関ホールがある。二階に行く階段もホールの端に位置している。

 そのホールから東側には北から応接間、書斎、ビリヤード室がある。また西側には会食を行う大食堂と食事を調理する厨房がある。

 二階は主寝室のみ絨毯敷きの洋間で、三つある客間は外見に反して和風に作られている。

 東京時代は賓客接待の場として使用されていたが、軽井沢に移ってからは、四角本家の所有するそれにしては小ぶりであり、本家の親族が静養をするために使用されている。

 六月十七日、別荘にいたのは五人だけだった。

 崇様と凛様を除くと、崇様が代表取締役を務める四角商事の専務である羽田はた敏明としあき氏。

 先ほど僕を案内してくれた、管理人であり主に厨房で働く仲里兼広氏と、その妻で別荘全体のメンテナンスを行う仲里弘子(なかざとひろこ)女史の三人だけだった。


 十七日の朝、崇様と凛様は東京の本邸より車で軽井沢の別荘に向かった。

 昼時に別荘に到着すると、仲里夫妻が出迎えた。すぐに羽田氏も合流した。

 すぐに一階の本食堂で昼食となった。客人である羽田氏だけではなく、仲里夫妻も同じテーブルで食事をとることを許された。

 崇様はお酒を飲んだ。未成年である凛様はもちろん羽田氏や仲里夫妻はお酒を控えていたそうだが、場は和やかに盛り上がったそうだ。崇様はかなり上機嫌だったという。

 昼食が終わり、崇様は二階の主賓室に、凛様は二階の客間のひとつに向かった。

 羽田氏は一階の書斎で読書をしていたそうだ。

 兼広氏は昼食の片付けと夕食の仕込み、弘子氏は干していた洗濯物片付けや掃除などをしていたらしい。

 午後二時半を回った頃、凛様は崇様から部屋に呼ばれたという。


 そこから、凛様の記憶は混濁しているらしく、はっきりと覚えていないという。


 午後四時頃、凛様の悲鳴が主賓室より聞こえた。

 その時点で自室、二階の客間のひとつに戻っていた羽田氏が慌てて廊下に出た。主寝室の崇様のもと向かった。

 ノックをしても応答がないため、中に入ろうとするが鍵がかかっている。

 ドアノブを繰り返し捻っているとそこに仲里夫妻が駆けつけた。

 鍵がかかっていることを羽田氏は告げ、弘子さんに合鍵を持ってくるように言いつけた。

 その場に残った羽田氏と兼広氏はその後もノックを続けたが応答はなかった。

 やがて弘子さんが合鍵を持ってきた。それを受け取り鍵を開けた。

部屋の中に入った彼らが目撃したのは、凄惨な光景であった。

 バスローブ姿の崇様はベッドの上で、胸を刺されて絶命していた。目は驚きに見開き、胸にはナイフが刺ささったままだったという。

 そのベッドの脇、床の上に気を失った凛様が倒れていた。

 羽田氏が脈を確認する。崇様は既に息を引き取っていた。

 凛様もまさか……と思い確認しようとしたが、気を失っているだけで呼吸の動作があることを確認し、安心したそうだ。

 そこで階下より大きな音が発生した。羽田氏は仲里夫妻に様子を見てくるように頼んだ。

 階下で大きな音がしたのは厨房の皿が床に落ちて割れたからだった。兼広氏は落下するような位置に皿を置いたか疑問だったというが、事実そうなっていた。

 仲里夫妻は主寝室に戻る。部屋では羽田氏が崇様のまぶたを下ろし、白いシーツを被せていた。

 合流した三人部屋の確認を行った。

 一カ所しかない出入り口のドアの鍵は間違いなく閉まっていた。

 鍵はクローゼットにかけられた崇様のジャケットのポケットから出てきたそうだ。

 他に外に出るには窓しかないが、割られた形跡はなく、すべて内側から鍵がかかっていた。

 この部屋にも暖炉があるが、すでにお飾りになっていて、実際に煙突は塞がれている。

 本邸でないこともあり、有事の際に利用する隠し通路などもない。 

よって犯行は、崇様と同じ部屋にいた人物にしか行えないと考えるのが自然だ。

 つまり……。


「殺してない!」

 夢遊病者のように頼りなく、おそるおそる説明してくれとた聞かせてくれた凛様が、突然身を乗り出し僕の胸ぐらを掴んで叫んだ。

「わたし……お父様を殺したりしてない……おねがい、信じて……」

 凛様はしゃくりあげながらそう訴えてくる。

 主従を越えたところからも、凛様が嘘をついているようには思えなかった。

 凛様のために、四角家のために、誰が崇様を殺したのか、僕は考えなければならない。


 僕は書斎に彼を呼び出した。


「こんばんは。確か屋久島くんといったね。宜しくお願いするよ」

 羽田敏明氏は部屋に入ってくるなり握手を求められるので応じ、ソファーに座るように促した。

「ふぅ。まだ雨も止まないし。まったく大変な一日になってしまったな」

 一面の窓に雨が流れていく様子を見ながら、羽田氏は顰め面でゆっくりため息を吐いた。

「お疲れのところ、申し訳ございません。今回の件で、是非お話を聞かせていただきたく」

「ああ。構わないよ。本部より君に協力するように言われている。私も当事者として今回の件の真実を知りたい」

 両手を顔の前で組み、口の端を持ち上げつつ真剣な双眸で僕を見据えてくる。

 書斎の照明は古く橙色の光が彼の土気色の顔の渋さを増し、三十七歳には思えない貫禄に威圧を覚える。

「それにしても、改めて思うよ。四角というのはひとつの国家に近しいのだと。この件は未だ警察の介入もなく、もちろんメディアへ漏洩もしていない。今日一日の延命ではなく、やろうと思えば崇社長を火葬したあとでも半永久的な隠蔽は可能だろう。私はとんでもないところに来てしまったのかもなあ」

 一見悪口にも思える軽口。僕がそのとんでもないところにどっぷり浸かっていることはわかった上で言っているのだ。

「私は吹けば飛ぶような田舎の個人商店の親元で育ったので、こういうところを見てしまうと歴史を積み重ね得た組織の恐ろしさを思い知らされる」

 知っている。羽田敏明は両親に恵まれず母方の祖父の家で育った。地元の公立高校から東京大学の経済学部に進学している。東大生には出身により様々なヒエラルキーがあるとは聞く。彼はそれを嫌というほど思い知らされたのかもしれない。

 彼自身の才能か反骨精神の賜物か。学力は高く主席で卒業している。その後は米国の大学に留学し、帰国後大手広告代理店に入社。四角地所や四角商事の広報に関わり崇様の絶大な信頼を受けヘッドハンティングを受けた。

 現在は崇様の右腕と呼ばれる存在として最年少で四角商事の専務になっている。

「驚きですか。僕のような若輩者に協力するよう言われて」

「驚きではあるが、不思議ではない。四角の執事会のことは聞いているからね。それに君には是非会ってみたかった。次期執事長間違いなしの、若きエースを」

「またまたご冗談を。僕なんかただの居候みたいなものです。たまたま凛様のお付きをしているから、そう言われているだけですよ」

 間延びした口調で笑い飛ばしてみた。彼もそれがわかっているのか、表情は変えずしかし雰囲気で牽制しているのが伝わった。

「……秒単位で動く商社マンとして、成果にも繋がらない腹の探り合いで時間を浪費したくない。君は僕が崇様を殺したと思っているのか」

「そうならいいなと思っています」

「それは、四角家の総意か」

「いえ。僕の個人的な意見です。しかしこの一件は執事長より僕に一任されていますので、僕の意見が四角の総意に繋がるわけでもありますね」

 少しの沈黙。口の端の笑みは消えた。動揺があるのかは窺えない。彼も修羅場をくぐり抜けて来ているはずで、黒い瞳の奥の心理が読めない。

「なにか心当たりがあるのか」

「さあ。凛様が崇様を殺したなんて思いたくない。ただそれだけです」

 しばらくの間、僕と羽田氏はお互いを冷静に見据えていた。

 雨が窓を叩く音は煩かったが、僕らの耳には入らない。

 彼がソファーに沈んだお尻を上げ、座り直した。表情はくだけた笑顔になっていた。

「私は、君に会ってみたかったと言っただろう。それは次期執事長だからというのもあるが、凛さんのこともあるのだ」

「凛様のことですか」

「崇様は、凛さんの婚約者に私を選んだのだ。知っていたかな」

「いえ。初耳です」

 動揺を悟られないように務める。しかし彼は見抜いてしまうだろう。

「でも凛様はまだ十八歳ですよ。いくらなんでもまだ早すぎますよね。本当に話なんですか」

「まあ書面などはないから証拠はないよ。ただ四角グループの身内しか泊まれない、君ですら同行していないこの別荘に、私が招待されているのは事実だ」

 今回の静養は崇様のお休みの関係だと思っていた。わざわざ金曜日に学校を休ませて凛様を別荘に連れていくことを疑問に思わなかったわけじゃない。

「……私は、崇様を殺す理由なんてなかったのだよ。君にはそれをわかって欲しい。それともうひとつ君に会いたかった理由があるんだ」

「……なんでしょうか」

「君は孤児出身だと聞いている。勝手なことだが、シンパシーを感じていたのかもな」

 彼はソファーから立ち上がると、「それでは。よく考えて決めてくれ。名探偵君」と手を上げて書斎を出て行った。

 僕は動かない。考える。

 窓をねっとりと雨が伝う。今日はずっと雨だ。雨の音は時計の針のようでもあり、否が応でも時間を意識させてくる。

 さて、明け方までには決めなくては。

 羽田氏の言葉をどう扱おうか。



 雨が上がり、すべてが終わった後の別荘はしんと静まり返っている。時計の針の音すら存在を許されないようで、そばにいる凛様の息づかいが微かに大気を震わせるのを感じる。

 先ほどまでは多くの人間が詰めかけていた。そのてんやもんやはすさまじいものだったが、用を終えた彼らは撤収し、今この別荘に残っているのは僕と凛様だけだ。 主寝室のベッドに凛様は腰掛けている。無感情に、真っ白なシーツを繰り返し撫でている。

 自らの無実を訴えたあと、彼女は糸が切れたように眠ってしまった。だから、今朝から昼にかけて別荘で起きていたことに関してはなにも知らない。

「ねえ、透。誰がお父様を殺したの」

 僕は立ったまま凛様を見下ろしている。彼女は僕の方を向かず、シーツを撫でる手を見つめたままだ。

「崇様を殺したのは、羽田敏明氏です」

「……そう」

 凛様は小さく呟いた。その顔には怒りや悔しさも、悲しみすら感じさせず、すべてを受け入れていた。

「……部屋は密室だったのでしょう。彼はどうやってお父様を手にかけたの」

「……いわゆる、早業殺人というやつです」

「はやわざ……」

「凛様が崇様のご遺体を見て悲鳴を上げたとき、崇様はまだ亡くなってはいなかったのですよ。おそらく凛様を驚かせようと持ちかけたのでしょう。血糊と刀身が引っ込むナイフを使った、悪戯だったんです」

 鍵は内側から崇様が掛けた。羽田氏と仲里夫妻が合鍵を使い部屋に突入する。崇様の脈を確認したのは羽田氏なので事切れていると嘘をつく。

 予め一階の厨房で氷と糸を使った時限式の器具を作動させておく。

 大きな音を離れた場所で出し、仲里夫妻に下を見てくるように促し部屋から退場させる。

 うまくいきましたねと崇様を起き上がらせ口を塞ぎ、改めて刺し殺す……。

 戻ってきたふたりはもう崇様は死んでいると思っているので、不審な点は気にとめなかったのだ。

「……警察は、それで納得をされたんですか。私が殺したと考える方が、自然でしょうに」

「……納得されたみたいですよ。羽田氏が自供してますから」

 証拠の王様と言われる被疑者からの自白がとれたのだ。よほどの不可能要素が出てこない限り、捜査方針は覆らないだろう。

 広がる沈黙。年代物の洋館の時が止まっていた。

 凛様は僕と目を合わさない。僕もまばたきひとつせず、彼女を見つめていた。

「……すべて、終わったのですね」

 ようやく出てきた言葉は、どこか諦めたかのような口調であった。「凛様。崇様が亡くなられたことはまさしく痛恨の極みでございます。しかし、我々執事会一同は今後も凛様を全面的に応援していく所存ですので、ご安心下さい」

 今再びの沈黙が落ちる。

「透。私を見て」

 凛様に呼ばれ、僕は彼女の前に片膝をついて腰を下ろした。

 凛様の細い腕が伸ばされ、僕の顔を指でなぞる。

「私は、あなたを信じていいのね」

「はい。凛様」 

 一切の躊躇も澱みもなく、僕は応えた。

「凛様。少し目を閉じていただけますか」

 凛様は目を閉じた。

「まだお疲れでしょう。もうここには誰もいません。頭の中を軽くしましょう。心を軽くしましょう。だんだん現実と夢の境界が曖昧になっていきます。身体が宙に浮いているような感覚を思い出して下さい」

 僕の誘導に従い、やがて凛様はベッドに倒れ込んだ。少し不安をのぞかせる表情のまま、眠りについている。

「さて。(おう)。お話をしたいので、出てきてくれますか」


 僕がそう呼びかけると、寝ていたはずの凛様の目が突然見開いた。すぐに上半身を起こすと、不敵な笑みで僕を見据えてくる。

「随分と久しぶりだな。まさかお前の方から話しかけてくるなんて思わなかったよ」

 凛様の華が咲いたようなソプラノボイスはこの世から消え失せた。

 皇はこの世を見下ろすようなゆっくりとした口調の低い声で話しかけてくる。

「僕だって出来れば君になんて会いたくなった。もう二度と。でも、確認しておかなきゃならないことがあるから」

「確認しておかなきゃいけないこと。一体なんだ」

「崇様を殺したのは、君だね」

「違う。殺したのは凛だよ」

「違う。殺したのは君だよ」

「違う。殺したのは凛だよ」

「君だ」

「凛だ」

「君だ」

「凛だ」

 お互いの見解の相違は埋まらない。

「外にいるお前にはわからないだろうから、俺が説明してやる」

「それには及ばないよ。だいたい、なにが起きたかはわかっているから」

 羽田氏は自分が凛様の婚約者になるといった。それは嘘ではなかった。

 崇様は羽田氏を後継者として選んだのだ。

 この旅行も凛様と羽田氏を引き合わせるものだった。

 凛様の想いは、関係がない。

 主寝室にいた崇様と凛様の間に、どんな会話の応酬があったのかは想像に難くない。

 追い込まれた凛様は崇様を、いや、違う。殺したのは……。

「追い込まれた凛のやつはいつものように俺を前に出して自分は隠れやがる。俺はガキの頃から散々やられていたからその報いをと思い、ナイフであいつの胸を刺した……お前の想像だとそんなところだろう」

 皇は小気味よく笑いながら言う。

「だが違うぜ。凛が俺に変わったのは間違いなくアイツを刺した後だよ。本当にいい性格しているぜ」


 凛様は本来双子で生まれてくるはずだった。だが生まれてきた小さな命は、数日持たず息を引き取った。

 その子に付けられるはずの名前が皇だった。

 生まれるはずのない弟。

 しかし彼は姉を護るために姉の中に生まれ直した。

 だがそれは愛に溢れた物語ではない。

 崇様の教育(・・)は苛烈で小さき凛様の精神は耐えきれず人格の破綻を起こさせた。

 崇様からの教育を引き受ける役割として皇という人格を生み出した。

 以降皇は崇様からの教育を引き受け続けた。

 拒否することは出来ない。凛様の方が上位人格なのだから。

「アイツは、俺があの糞野郎を殺す機会でさえ、奪っていったんだぜ」

 彼の顔には怒りはなく、心底くだらないジョークを聞いてしまったかのような表情だった。

「最後まで、俺に気づかず、被害者のつもりでこれからも生きていくんだろなあ」

「四角の正当後継者である凛様が余計な罪の意識を背負う必要はありません。崇様を殺したあなたは罰を受け地獄に落ちるべきです」

「おいおい。罪を犯して罰を受けるのは羽田のやつだろ」

「そうですね。世間ではそうなります」

 羽田氏は凛様の罪を引き受けた。それは刑期を終えたあとの保証を求めてのことだ。

 社会的な死とともに四角最大のスキャンダルを握った彼の野心は膨れ上がる。さらなる人生の飛躍を望むことは想像に難くない。

 四角の中核に特権を翳して這入り込もうと、警察に連行されている今ですら算段していることだろう。

「やつと組んで四角をひっくり返すのかい」

「まさか。彼はもう二度と娑婆には出てきませんよ」

 彼は勝手にシンパシーを感じていたようだけれど、僕は思うところなど一切ないのだ。

 彼は留置場で自殺することになっている。

「お前も本当にいい性格してるよな」

「当然です。私は四角のために、凛様のために尽くす執事なのですから」

 皇は鼻を鳴らした。彼には理解できないようだ。

「崇様がこの世からいなくなったのなら、あなたも消えるのでしょう」

「たぶんそうなるだろうな。俺が消えてなくなれば、今回のことを知っているのはお前だけになるのか」

「そうですね。すべてまるく収まるわけです」

「そうか。それじゃあ、オレはこのへんで失礼する。お前に天罰が下ることを地獄で祈ってるぜ」

「私にならばどうぞ。しかし凛様になにかしたら、地獄まで排除しに行きますから、そのつもりで」

「どこまでも徹底して、いる、な……。それじゃあ、またな。……凛を、頼んだ……ぞ」

 皇、いや凛様の身体から力が抜け、ゆっくりとベッドに倒れ込んだ。糸を切られたマリオネットのようで、命の終わりを感じさせた。

 もう彼に会うことはないのだろう。それがわかってしまった。

 安堵が得られるかと思ったが、どこか気持ちの一部が欠けてしまったかのような喪失感が大きく残った。

 思えば、僕にとって昔から知っている知人の数少ないひとりであった。


 僕は凛様の身体を客室に運び、予め敷いておいた布団の上に横たえた。

 主寝室に戻り、預かっていた鍵でドアの鍵を閉めた。

 こうして扉は閉じられた。


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