6 僕は見世物じゃない
週明けの昼休み、私が中庭のベンチに行くと、ジョシュア様が先に来て座っていた。
私は彼の隣に座りつつ、金曜日のことを思い出した。
「先日はありがとうございました。皆様にとてもよくしていただいて」
「こちらこそ、来ていただいてありがとうございました」
ジョシュア様の言っていたことは正しくて、マクニール侯爵邸に到着すると、先に帰宅なさっていた侯爵とヴィンセント様も宮廷服で私を迎えてくださり、そのまま晩餐となった。
緊張のあまり忘れかけていたのだが、マクニール家にはあとお二人、ヴィンセント様のご夫人ダイアナ様ともうすぐ二歳になるご子息のリオン君がいた。
ダイアナ様はヴィンセント様とは学園のクラスメイトだったので、私も以前から交流があり、お顔を見て少しホッとした。
そして、マクニール侯爵夫人は確かに夜会でお見かけした印象とは少し違っていた。
失礼を承知で言うならば、とても可愛いらしい方だった。
侯爵夫人とダイアナ様は姑と嫁というより親友同士のように仲が良く、その二人のやりとりを侯爵とヴィンセント様が微笑ましそうに見守っている光景は何ともほのぼのとしていた。
かと言って、私が疎外感を覚えることもなく、侯爵夫人が中心となってあれこれ話しかけてくださった。
侯爵夫人は私の仕事についても興味があるらしく、色々と尋ねられた。
女性が官吏として働くことに否定的な方も多いが、侯爵夫人はどうやら好意的なようだ。
そんな中、ジョシュア様だけが淡々と食事をしているなと思ったら、侯爵夫人が「ジョシュアはウィレミナ嬢がいるといつもと違うのね」と笑い、侯爵に「そういうことは黙っておくものだよ」とやんわり嗜められていた。
隣に視線を向ければ、頬を染めたジョシュア様が顔を顰めていた。その表情は宮廷にいる時よりも少し子どもっぽく見えた。
食事の後には様々なお菓子まで用意されていたが、すでにお腹いっぱいの私はほとんど食べられなかった。
すると、侯爵夫人は家へのお土産として私に持たせてくださった。
この週末は家族でそのお菓子を大いに味わった。
「初めて伺ったとは思えないほど和んでしまって、気づかぬうちに失礼なことをしていなかったでしょうか?」
「まさか。母と義姉がまたいつでも来てほしいと言っていましたよ」
それならよかった、と考えかけて首を傾げた。果たして、これで本当によいのだろうか?
結局、恋人になって一週間がたってもジョシュア様が私に対して恨みをぶつけてくることはなかった。
ただこの関係だけが互いの家族、さらには宮廷中へと知れ渡り、仕事中に誰かに会うたび「おめでとう」と言われる。
もちろん、中には「君にマクニール侯爵子息を誑かす手腕があったとは驚きだ」とか、「今度こそ早く宮廷を辞して結婚しないと、また逃げられるぞ」なんて嫌味を付け足す方もいたけれど、適当に躱しておいた。
ともかく、これでは婚約者になったのと変わらない。
いや、ロドニーと口約束の婚約をしていた時には親同士が決めたものだという逃げ口上が使えた。
でも、結婚前提の恋人だと言い訳できない。誰からも自分自身で決めたことだと思われる。
そのうえ両家公認なのだから、もはや口約束の婚約者より強いのでは。
予想していたとおり、私の心の平穏は脅かされているけれど、ジョシュア様が隣にいても本は読めるのだから我ながら図太い。
というか、昼休みの読書は以前より集中できるようになった。
宮廷の中庭に接する回廊は各部署の部屋から食堂に向かう通り道の一つなので、昼休みには多くの方々が行き来する。
そのため、今までは知人に声をかけられることも多かった。
学園と違って鐘が鳴らないので、仕事に戻る時間だと教えてもらえるのは助かっていたけれど、ただ読書を中断されるだけのことも少なくなかった。
しかし、ジョシュア様が一緒だと皆遠慮するのか、他の方から声をかけられることがまったくなくなった。
彼が私の読書中に話しかけてくるのも、昼休みの終了を告げる時だけだ。
ジョシュア様だって本を読んでいるのに、彼ばかりに時計を気にさせて申し訳なくなるけれど、彼に不満そうな様子はない。
それどころか、「私は自分で望んでここに座っているのですから、ウィレミナ様は何も気にせず本を読んでください」と言ってくれる。
あるいは、ジョシュア様が失恋の恨みを晴らしたくて求婚したというのは私の勘違いで、彼が傷を癒やすために求めていたのは誰にも邪魔されずに本を読める昼休みだったのかもしれない。
少なくとも私が学園にいた頃の彼は、たくさんの生徒がいる学食ではなく、誰もいない裏庭で昼食をとりながら読書をしていたのだから。
私が本を読むことが好きなのは両親の影響だ。
二人はともに読書家だが、屋敷にそれほど蔵書があるわけではなく、毎週のように家族で王立図書館に通っていた。
だから、屋敷で読書をしている時は、急ぎの用事でもなければ家族や使用人から声をかけられることもなかった。
唯一の例外が本を読む習慣のないロドニーで、興味もないのに何を読んでいるのかと訊いてきたり、私の手から乱暴に本を奪ったりするので鬱陶しかったものだ。
学園に入学した私が一番喜んだのも、校舎の最上階に図書室があることだった。
もちろん蔵書数では王立図書館にはるかに及ばないけれど、学園に通う日は毎日利用できるから。
学園の校舎は何度も改修や増築をされてきたせいで、少し複雑な構造をしていた。
図書室も同じで、入口からは最奥にあると見えた本棚まで行ってみて初めて、さらに先に空間があることがわかったりする。
生徒のほとんどがそんな場所にも机が置かれていることを知らずに卒業していくであろうそこが、私のお気に入りの席になった。
狭いが大きな窓があるので圧迫感はなく、明るいのもよかった。
官吏を目指す以上、勉強も疎かにするわけにはいかなかった私は、昼休みを読書の時間にすると決めた。
しかし、本を読みながら食事をすることはあまりお行儀が良くないので、学食では憚られた。
図書室ならもちろん落ち着いて本が読めるけれど飲食は禁止されている。
教室で読書をしていると、やはり昼休みを教室で過ごしているクラスメイトたちに話しかけられる。お喋りが嫌いなわけではないが、読書の時間がなくなってしまう。
この学園のどこかに、昼食をとりながら本を読めるところはないだろうか。
教室で急いで食事を済ませてから図書室のいつもの席に座ってそう考えた私は、見るともなしに見ていた窓の外に、校舎と塀に四方を囲まれた狭い裏庭があることに気がついた。
おそらく校舎の増築を重ねるうちに取り残される形になったのだろう。
校舎と塀の間の細い通り道を進んでたどり着いた裏庭は、他の校庭のように手入れがされておらず、雑草も落ち葉もそのままになっていた。
隅に置かれていたベンチも、誰にも使われずに忘れ去られていたような代物だった。
私は翌日から数日かけてベンチを磨きあげ、木陰まで引きずって移動させ、その周囲だけ雑草を抜き、落ち葉を片付けた。
満足のいく環境を整えてから、ベンチに座ってぐるりと四方を見回してみた。
この裏庭に向かって窓が空いているのは一階の廊下と図書室だが、廊下のほうは茂り放題の木々がちょうど目隠しになっていて、校舎から見つかる心配はなさそうだった。
そうして、雨の日や冬の気温の低い日を除いてほぼ毎日、私は昼休みをこの裏庭で過ごした。
誰の目を気にすることもなく、サンドウィッチ片手に本を読んだ。
そんな気ままな日々が突如終わったのは、三年生になってしばらくした頃だった。
昼休みにいつものように裏庭に向かうと、ベンチに一人の男子生徒が座っていたのだ。
私は校舎の陰に身を隠し、その先客の様子を窺った。
彼の顔は目を瞠るほど美しくて、彼がクラスメイトたちが噂していた新入生だと確信した。
だけど、彼のその美しい顔は疲労の色が濃かった。
声をかけるべきか迷っていると、彼の呟きが聞こえた。
「僕は見世物じゃない。放っといてくれ」
それが私に向けられた言葉でないことはすぐにわかった。
私のクラスメイトでさえ騒いでいたのだから、下級生からはさらに注目を浴びているであろうことは想像に難くない。
裏庭を本当に必要としているのは彼なのだと思い、私はそっとその場を後にした。
翌日から、私は昼休みに裏庭へ行くことをやめ、また教室で急いで昼食をとってから図書室で過ごすようになった。
図書室の最奥の席に座わって窓から下を覗き、彼の姿を一目確認したらすぐに本を開いた。
初めはただベンチに座っているだけだった彼も、数日後にはそこで食事をとるようになり、さらには本を読むようになった。
あの裏庭で彼が昼休みだけでも心置きなく過ごせているのだと思うと、嬉しかった。
宮廷に入ってから、私はやはり昼休みに食事と読書を同時にできる最適な場所を探した。
しかし、学園の裏庭のように都合のいい場所は見つからなかった。
王宮で下手な場所に入り込んで罰せられたり、あまり遠くまで行って午後の仕事に遅刻したりしても困る。
そして結局、他にも本を読んでいる方のいた中庭のベンチに落ち着いた。
天気の悪い日だけは食堂で他の女性官吏方と昼食をとり、お喋りに興じている。
そのことを考えると、今のジョシュア様にとっての私の隣の席は、あの頃の学園の裏庭に近い場所なのだろうか。
そんな形で彼の役に立っているなら、私としても本望なのだけれど。