17 その気になればこんなに早く
翌日も昼休みになると、私は中庭のベンチにジョシュアと並んで座った。
「婚約って、その気になればこんなに早くできるものなのですね」
私はしみじみ呟いた。
「そうですね」
ジョシュアは声を聞いただけで機嫌の良さが窺えた。
彼の手には一枚の書類。国王陛下がジョシュアと私の婚約を認めてくださった証である直筆の書状だ。
私はいくら早くと言っても宮廷に婚約届を提出するのは週明けだと思っていた。
ところが昨夜、ジョシュアと一緒に応接間に戻ると婚約に必要な書類はすっかり揃っていて、ジョシュアと私がそれらにサインをすると、宮廷に届け出るのは今週中だと言われた。ちなみに、その時点ですでに木曜の夜。
しかも、提出は戸籍担当ではないが内務官のマクニール侯爵やヴィンセント様が代わりになさってくださるわけではなく、陛下に直接お渡しに行くようにと。
それも、秘書官という立場上、毎日陛下にお会いしているジョシュアとともに、せっかく宮廷にいるのだからと私も伺うことになってしまったのだ。
もちろん、官吏として働いているのだから私も何度か陛下のお姿を拝見したことはあった。
だけど、まさか子爵の娘である私が婚約届を直接陛下にお渡しすることになるなんて、夢にも思っていなかった。
そうして、あまりよく眠れずに迎えてしまった今朝、私は宮廷に上がるとまず法務官室に寄って「所用により業務につくのが少し遅れます」と宣言してから、秘書官室の前でジョシュアと落ち合った。
二人で向かう先は、秘書官室の隣にある陛下の執務室だ。
「こんな早くに伺って大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。陛下はいつもこの時間には執務室にいらっしゃいますし、強力な助っ人に先触れを頼んでおきましたので」
ジョシュアは胸を張ったけれど、私は「強力な助っ人」という言葉でさらに緊張感を高めてしまった。
私たちがこれからお会いするのは陛下で、マクニール侯爵が私たちに付き添ってくださらないことははっきりしているのだから、ジョシュアがそう呼ぶのはあの方しかいないのでは……。
執務室の扉の前には近衛隊の騎士が立っていたが、ジョシュアの顔を見るとすぐに部屋の中に声をかけ、扉を開けてくれた。
その中で、執務机に向かわれていた陛下がにこやかに私たちを迎えてくださった。
「おはよう。ノアに聞いて待っていたよ、ジョシュア。それから、ハウエル家のウィレミナだね」
「ノア」というのは、陛下の執務机の前で常に増して不機嫌そうなお顔をこちらに向けられたコーウェン公爵のことだ。
ああ、やっぱり。
というか、あの表情、私を甥の婚約者として認めていらっしゃらないのでは……?
「おはようございます、陛下」
ジョシュアに続いて、私も陛下にご挨拶した。
「なるほど、将来が楽しみな顔だ」
陛下のその呟きはおそらく私に向けられたものだろうけれど、この場ではどう解釈したらいいのかさえわからなかった。
「本当はゆっくりお茶でも飲みながら二人の話を聞きたいところだが、今はあまり時間がない。さっさと済ませよう」
そう仰って、陛下が片手を差し出された。ジョシュアが一礼してからお渡ししたのは、彼と私の婚約届だ。
陛下はその書面を確認なさると、おもむろにペンを取り、サインをなさった。
さらに続けて、机の上に積まれていた真っ新な用紙を二枚お手元に引き寄せ、しばらくペンを走らせた後、ジョシュアに手渡された。
婚約を認めるという書状だ。マクニール家とハウエル家に一通ずつ。
「婚約おめでとう」
「ありがとうございます」
ジョシュアとともに私も深く頭を下げてから、コーウェン公爵に促されて陛下の御前を辞した。
聞いていた話では、内務官室に婚約届を出してから陛下の書状が届くまで概ね一週間ということだったのに、私たちの所要時間はわずか数分。
それに、通常はどなたかが書かれた文書に陛下はサインをなさるだけだ。
執務室を出たことで緊張が緩んで呆然とするばかりで、何だかいまいち実感が湧かなかった。
「叔父上、突然の頼みにも関わらず引き受けてくださってありがとうございました」
ジョシュアの言葉で緊張を解くのは早かったことを思い出し、私も慌ててコーウェン公爵に頭を下げた。
おそらく公爵の先触れがあったからこその所要時間数分だったに違いない。
「気にするな。こういうことは早いに越したことはない」
公爵のお顔は、執務室にいた時より不機嫌度が下がっているように見えた。
「すでにご存知でしょうが、改めて……」
ジョシュアが私をコーウェン公爵に紹介しようとしたが、公爵は「それはまだいい」と遮った。
「可愛い孫が婚約者を私だけに先に紹介したなんて知ったら、きっと父上が面ど……、機嫌を損ねるからな」
今まで外務官室で視線を感じることはあっても声をかけられなかったのは、そういう理由だったのか。
コーウェン公爵が気を遣うなんて、ジョシュアのお祖父様はよほど恐ろしい方なのだろうか。
だけど、ジョシュアは可笑しそうにフッと笑った。
「わかりました。近いうちにウィレミナとご挨拶に伺います」
ご子息には厳しくとも孫には甘いのかもしれない。孫の婚約者にも後者だといいのだけど。
その後は昼休みまでいつもどおりに仕事をしていた。
法務官室に戻ってからも所用の内容は口にしなかったので、まだ私がジョシュアと婚約したことは部屋の誰にも気づかれていないはず。
もっとも、いくら陛下に直接お渡ししようと、サインをいただいた婚約届は秘書官室を経て内務官室に届けられ、そこで保管されることになるのだから、宮廷中に知られるのも時間の問題だった。
いや、その前に法務官室の先輩方にはまたジョシュアが話してしまうか。
「ところで、ウィレミナ、少しだけ秘密の部屋に行きませんか?」
私はチラリとジョシュアの顔を見つめた。頬が赤くなっている。
「行きません」
「どうしてですか?」
「逆にお尋ねしますが、なぜ今あの部屋に行く必要があるのです?」
「そこは、その……、察してください」
「察しているから、行きません」
昨夜、二人で居間を出る時にジョシュアが「できなかった」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。
ジョシュアは彼の肩から私が顔を上げなかったためにできなかったことを今から秘密の部屋でしたいのだろうけど、そうはいかない。
先日はジョシュアが無防備に目を閉じたりするからつい私からしてしまったが、冷静になって考えれば、いくら昼休みだったとはいえ職場であんなことをするべきではなかった。
もう二度としない。「色恋は宮廷の外で」だ。
とはいえ、隣でジョシュアにショボンとされてしまうと、私が悪いような気になってくる。
そんな顔するくらいなら、昨日、無理矢理してくれてよかったのに。
「ジョシュア、明日は何か予定がありますか?」
「ありません」
「では、一緒にどこかへ出掛けませんか?」
私は本当は王立図書館に行くつもりだったけれど、別に明日でなくても構わない。ここはジョシュアを優先する。
それに、正式な婚約者になってしまったことだし、そろそろきちんとしたデートをしておくべきだろう。いや、したい。
ジョシュアの顔が明るくなった。
「でしたら、図書館に行きたいです」
「……また図書館でいいのですか?」
「ウィレミナの休日の過ごし方も見てみたかったので」
「わかりました。ただし、条件が二つあります」
「何でしょう?」
「一つ、ジョシュアも今回は本を借りること。二つ、次はジョシュアの好きな場所に連れて行くこと」
「二回目のデートが明日なのに、もう三回目の約束までしてくれるのですね。じっくり考えておきます」
「お願いします」
そう応えてから、私は本を開いた。
予定どおりに明日、図書館に行くのなら、今日中に読み終えてしまわないと。
隣からジョシュアに見られているかもなんて、気にしてはいけない。




