1-1:罵声の先に立つ偶像
じめじめとした雨が止み、曇り空の切れ間からわずかばかりの光が差し込み始めている。
「お、やっと雨が止んだか」
開けた窓から差し込む湿気の多い香りはいつになっても好きになれない。
自慢の赤髪も湿気にやられて少し萎れているのがさらに、少女の気持ちからやる気を奪っていく。
だが、雨の中に出かけるのはさらに輪を掛けて嫌いなので、出かけるなら今しかない。
赤髪の少女が住んでいるのは、線路が近く電車が通る度に振動するボロ屋。
かつて暮らしていた豪華絢爛な移住空間とは天と地の差があるが、地球での身分証もない少女が借りれる部屋があっただけでも僥倖だったと考えるべきだろう。
玄関に立て付けの鏡で自分の姿を確認する。
すらりとした手足は長く、引き締まり無駄のない肉付きはまるでアスリートのようである。
凛としたシャープな顔つきに、けして汚れることのない深紅の瞳が彼女の強さを物語っている。
しかし、彼女の中でもっとも目を見張るのは、生まれついての燃えるような赤髪である。
地球人では到底ありえない髪色であるが、しかしこの星の人間の一部には、自らの髪を染める不思議な習慣がある。
そのため、彼女の深紅色の髪は珍しくはあるが、地球外生命体であることを証明することにはならない。
雨の湿気で自慢の髪のセットが決まっていないのは、やっぱりしゃくに障るが、今日も髪は滴る血のような良い赤さをしていることを確認し、少女は外へ出た。
侵略民族:イルノリアが地球進撃を始めたのがおよそ2年前。
世界の救世主、魔法戦士アーススター・エースが出現し、イルノリアを地球から退けたのは約1年前だ。
地球は一時的とはいえ侵略民族・イルノリアにそのほぼ全てを掌握されていたが、わずかづつであるが日常が戻り始めている。
イルノリアに侵略されていた頃は、人が通ることすらなかったこの商店街の通りも人々達の談笑と笑顔が戻ってきている。
「この星の住民は、意外とたくましいな」
変わっていく……いや、元に戻っていく世界を眺めながら赤髪の少女は町を歩いて行く。 宿敵とも言える彼女が指定した場所は残念ながら歩いていける距離では無かった。
電車に乗り継ぎながら、赤髪の少女は時計を見る。
雨のせいで出発時間が遅くなってしまったが、指定された時間には間に合いそうだ。
電車の窓に流れる景色はやはり、イルノリアと魔法戦士アーススター・エースとの戦いの傷跡が残る世界。
倒壊したまま再建の進んでいないビルに、大型バスがすっぽりと入るほどの穴が穿ったままの道路、この電車だって破壊された線路が完全復旧していたいため、終点までたどり着くことなく折り返し運転を行っている状況だ。
そんな世界を癒やして、疲弊した人々に笑顔と元気を与えるよう未だに戦い続けている少女がいる。
「オレ達と戦いあった自分が一番休まなくてはいけないだろうに、本当に物好きな奴だ」
悪態をつく赤髪の少女であるが、しかし、窓ガラスに映り込む自分の顔が小さく笑っている事には気づいていない。
あらかじめ渡されていたチケットを見せると赤髪の少女は、特別招待枠の入り口へ案内された。
ここは侵略民族:イルノリアと魔法戦士アーススター・エースとの戦いの被害も少なく早々に営業復帰することが出来たライブハウスだ。
チケットは既に完売。楽屋裏に案内される途中に見た観客席は満員御礼であり、ステージの幕が上がるその瞬間を今か今かと待ち続けている。
期待に満ちた観客席を別世界を見るかのような遠い目で見ていた赤髪の少女は、受付嬢に案内され、彼女が待つはずの楽屋裏へとやってきた。
だが、そこは観客席の期待とは裏腹に騒然とした空気に飲み込まれていた。
「急に動かしたら、駄目だ。ゆっくり、顔を上に向けるんだ! 後、誰か急いで氷と水を、急いで!!」
スタッフとおぼしき者が慌ただしく楽屋の中を動き回っている。
その一方で、数人の男達が集まり、一歩離れた場所に集まった別のスタッフ達が焦燥とした顔で見つめている区画があった。
静止する受付嬢を振り切りながら、男達が集まっている場所に赤髪の少女は割り込んだ。
突然の乱入者にマネージャーとおぼしき人間が何かを言っているが、聞く耳を持たない。
赤髪の少女が見ているのは、絢爛なステージ衣装に身を包みながら、うつぶせ状態で床に倒れこんでしまっている彼女の姿だった。
今日のステージにおいて主役であるはずの彼女であったが、日本人形を思わせる流麗な彼女の黒髪が、今はこぼれ落ちた血のように床に拡がっている。
いつもなら柔和な笑顔を絶やさないその顔も、まるで別人であるかのように憔悴しきっており、陶器のように白い肌は生気を失い、うっすらと青黒く変色し、いつも未来を照らしてたはずの瞳からも輝きが失われている。
床に倒れ伏せている彼女はゆっくりとではあるが、赤髪の少女を認識しており、かろうじて意識はあるようだ。
「何をしているんだ、お前は?」
「ごめんなさい…。折角来て……くださったのに、こんなみっともない、わたた…しの姿、見せちゃって………」
床に倒れたまま起き上がれない彼女が、途切れ途切れに謝罪の言葉を述べている。だが、赤髪の少女が聞きたいのはそんな弱々しい台詞ではない。
無茶をするのは2年前に出会ったことから何も変わっていない。
こいつは誰かのためにもいつも笑顔で無理をする。
誰かを想う心が時として奇跡を生み、限界を超えることがあるのは赤髪の少女も身をもって経験しているが、いつも起きていたらそれは奇跡ではない。
無理をすれば、その分身体に負荷が返ってくるのは、至極当然の結果だ。
「何も言うな。お前はまずは休め」
赤髪の少女はもう一度、楽屋を見渡した。
戦いに勝利するためのセオリーとして、指揮官を潰し指揮系統を壊す事がある。
そんな世界に身を置いてきたためか、その場における指揮官を瞬時に判断するのは朝飯前の作業だ。
スタッフの中から素早く現場監督を捕まえた赤髪の少女は、「この公演、オレが潰す」とだけつぶやき、出演アイドルが昏倒し騒然とする楽屋を出て行くのだった。
静止するスタッフの声など赤髪の少女が聞くはずもない。
力尽くで止めようと別のスタッフが少女の腕を掴むが、次の瞬間にはスタッフは冷たい床に倒れ込み暗い天井を見ているのだった。
合気道の一つだろうか、スタッフ達は自分が投げ飛ばされた感覚さえなく、気がついたときには床に倒れ込んでいたのだ。
誰も赤髪の少女の進撃を止めることは出来ない。
それはそうだろう、こんなところで止められるような存在なら、かつて宇宙に轟き恐怖に陥れた少女の存在価値が廃れてしまう。
舞台袖に設置されていたマイクを握り、満員の観客が待つステージに上がった。
舞台の幕が上がる前の薄暗いステージにあっても、少女の血のように深紅に染まった髪は際立っていた。
ライブハウスに集まったおよそ、700人の観客の視線を一同に集めても、何一つ物怖じせず、光の当たらないステージに堂々と立っている。
迷いのないその姿に見る者は少しずつ心を奪われていくが、その口から紡がれるのは希望のない現実であった。
「お前ら、静かによく聞け。この公演は中止だ。悔しいだろうが、今のあいつはステージに立てる状況ではない。だから、おとなしく帰れ」
見知らぬ女性に突然、楽しみにしていた公演の中止を前触れもなく告げられて、はいそうですかと簡単に納得できるわけがない。
満員の観客達は薄暗いステージに立つ赤髪の女性に向かって、一同に怒声を上げた。
怒号などこれまでの人生で数えられないほど浴びてきた。それに比べたら、こんな声など取るに足りない。
顔の周りを飛ぶ虫の羽音よりも心地よい位にしか感じない。
だから、赤髪の少女はずっとステージに立っていられる。
観客達の怒りが収まるその時まで、怒りの矛先となる偶像としてスポットライトの当たらないステージに孤独に立ち続けるが出来る。