表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

序章

 そこはマックラヤミの空間。

百パーセントの異世界で、ボクは完全な孤独だった。

どこなのかはわからない。

長い夢から覚めた時、ここにいたのだ。


 夢の中のボクには二人の友人がいたはずだったが、

その二人ともが奇妙な姿の宇宙人だった。


 マックラヤミの空間では、時間の流れは急速で、

ナニモワカラナイまま、ボクの身体は急速に老いていくようだった。


 日に当たることのなかった、ボクの真っ白な指先から

無数の皺が刻まれていく。

気が付けば喉がカラカラで、そのすべてがどうでもよくなっていた。


 光がホシイ。


ただそれだけがボクの願いだった。

マックラヤミの一瞬はボクの一生分に値した。

ボクは一瞬であたたかい光が恋しくなった。


皺だらけの腕を伸ばして必死に目の前のヤミを掻いた。


ほどなくボクの指先は硬いものに触れた。

老いた触覚の向こうにマックラヤミの裂け目を感じ取る。


両腕で思い切り引き裂いた。

それは窓だった。


 開け放たれた窓からは、いつもの見慣れた朝が舞い込んだ。

静かで暖かな光が枕元に差し込んでくれる。

二階にあるこの部屋へ、朝日に添えて長閑な風景が姿を現していた。


 窓のすぐ近くには薄い葉を支えるポプラの枝枝。

少し先には車も走る道路がある。

このポプラの木はその道路脇に並ぶポプラ並木から外れて芽を出してしまったものらしい。


 芽を出してしまったのはボクが産まれるずっと昔の話で、

今では二階建て赤煉瓦作りの我が家よりも、背高く聳え立って屋根に緑の影を落としている。

ポプラの葉の隙間からのぞく教会の十字架の向こうには、町を走る市バスの姿が見えた。


 ボクはベッドの上に横たわる、哀れな少年だった。

マックラヤミを引き裂いたはずだった両腕は、

むなしく天井に向かって伸びていた。


目の前の腕は真っ白で折れそうなほどに細かった。

もうすぐ骨になってしまう腕だった。


ボクは病気で、多分もうすぐ死んでしまう。


 ボクが目を覚ました気配に気づいて、ベッド脇の影が動いた。

父だった。

父はいつもボクのそばにいてくれる。

寝心地の悪い床で、父は今日もまた一晩過ごしたらしい。


固く強張って、自力で降ろすことのできないボクの両腕を、

暖かく、肉付きのいい大きな手が覆った。

ゆっくりと、ボクの両腕は本来あるべき位置に戻っていく。


「おはよう。痛いところはないかい?」


優しく低い声。

ボクはできるだけはっきりと唇を動かす


ナ イ


痛いのかどうかももうわからないから、

せめて父がこれ以上心配しなくていいように、そう告げる。


そうか、そうかと、微笑む父の顔が見えた。

父の痩せた顔に長く睫の影が落ちる。

父の瞬き。

つられるようにボクは目を瞑る。


 しばらくすると湯差しがボクの口に差し込まれ、

暖かいお茶が、一晩で乾ききったナイゾウに浸透していく。


薄く目をあけると、母が食事を載せた盆を抱えて部屋に入ってきたところだった。

ボクの寝ているベッドと父が使っている薄い毛布が一枚。

端に避けられた木製の机は随分と使っていないものの、埃もつもらず綺麗に整っている。

本当に必要最低限のものしかない、地味だけども清潔な部屋、

ボクの寝室は母の手により、いつもそういう風に整えられていた。


 ただ一箇所、人目を引くところがあるとすれば、

今しがた母の入ってきた扉の横に飾ってある二枚の絵だろう。

それはボクの描いた絵だった。


まだボクが病に囚われない自由な身体だったころ、

元気なボクの手が描いたのは、両親の顔だった。

好きな色をたくさん使って、一番好きな人たちを描いた。

二枚の画用紙にはボクの好きの気持ちが詰まりすぎて、

果たしてこれが両親の顔に見えるかと聞かれれば、全く別だった。


緑の皮膚に赤い瞳の異形。

黄色い髪にまんまるな紫色の顔をしたナニカ。


それがボクの大好きな姿だった。


「さあ、朝ごはんにしましょうね。」

母がそっとボクの額を撫でてくれる。

父が抱きこむようにしてボクの上半身を起こしてくれた。

母の右手に持たれた銀の匙から、野菜を煮込んだ甘いにおいが漂う。

ボクが薄く唇を持ち上げると、母はいつもどおり、ほどよい温度のスープを流し込んでくれた。

それをゆっくりと咀嚼する。

ボクに必要なエイヨウの大半がボクを素通りしてしまう。

ボクの身体にはもう、キュウシュウする力はない。

それはもうわかっているのだ。

ボクも母も父も

目の前にいる人が生きていること、

愛し、愛されていることを確かめたくて、

毎日少しだけこの時間に付き合っている。


 目の前に差し出された三匙目にボクはゆっくり首を振った。

母は残念そうに、たっぷりとスープに満たされた皿の中に匙を戻す。

母の左手がボクのこけた頬を覆った。

本当ならば、母に似ているといわれた顔だ。

綺麗な綺麗なボクのオカアサン。


母の左手の小指が名残惜しそうにボクの頬を一撫でして離れた。


「本でも読んであげましょうか?」


母の穏やかな声。ボクは頷いた。

本当は少し外に出てみたかった。

ボクが今よりもまだ自由だったころ、

お医者様や母の言うことも聞かず、

よく、父と二人でこの寝室を抜け出したものだった。

その頃には両足を失ってしまっていたボクを背負うと

父はこの寝室の窓から下げた縄梯子を伝って

ボクとダッソウしてくれた。


 ボクの弱い両腕よりも、ボクの背中を包み込んでいる毛布と、

その上から父の身体に固定するために回された麻紐が命綱だった。

ボクはおんぶされた赤ん坊のような体勢で、離れていく寝室の窓を見上げた。


仰いだ僕の顔に影を落とす、ポプラの葉のきらびやかさに驚いた。

太陽はあらゆる宝石の王様のように輝いていて、空はそれだけで奇跡のように青かった。


 クライスラーの黄色い自動車が目の前で通り抜けたあと、

ボクたちは車道を横切って、教会へ向かった。

十字架の飾りの付いたアーチを潜ると、

父は修道女から車椅子を一台借りてくれた。

幾人かの修道女が、そのふっくらした手でボクの手を握ってくれた。

幾人かの修道女は、その様子を遠巻きに見ていた。


ウツる病気ではないんだよ。


お医者様はそう言ってくれたのだけども、

それを知らない人はまだまだ多い。

遠巻きな視線は少し寂しいけれど、

それは仕方がないことだとリカイできる。

だって、ボクにも不安なんだ。


神様どうかどうか、ボクの病気を皆にウツさないでください。

 身体が溶けてしまうボクの病気。

骨から肉を剥がそうとする奇病。


生まれ持った栗色の巻き毛はもうすっかり抜け落ちてしまった。

今のボクは、人体骨格模型のガイコツによく似ている。

そしていずれは、骨も残せなくなるのだろう。


オトウサン、

ボクはもう決して、愛しいあなたの息子の姿ではないけれど。


路上に散らばる砂粒のリズムで振動する

群青色の車椅子の上で、ボクは思う。


ボクが父を想うように、

まだ父もボクのことを想ってくれていたら嬉しい。


車椅子を押す父の藍い瞳を見上げた。

父が笑ってくれてとても幸せなキモチになった。


 父は道の先に見える建物を指差した。

ボクが通うことになっている学校の校舎だった。

初等部と中等部に分けられた二つの建物。

その間には産毛のように柔らかそうな緑の芝が生え揃った

素敵な中庭がある。


ボクがまだ元気だったころ、ボクはよくそこでウトウトしていた。

何人かの学友とランチタイムを過ごしたこともある。


ボクはそれらを思い出してニコニコしてしまった。

初等部の学生であろう三人の子供たちがボクの姿を見て駆け寄ってきた。

ものめずらしそうに尋ねてくる。


「なんで車椅子なの?」

足がないからだよ。と父が応える。

「なんで足がないの?」

病気なんだよ。と父が応える。


「じゃあ早くよくなってね。」

無邪気な笑顔でそう言ってくれた、僕よりも少し幼い女の子。

ありがとうとボクが言うと、

子供たちはボクのために十字を切って見送ってくれた。

子供たちに背を向けて、ボクと父はまた二人きり。

今度は来た道を辿るように進み続けた。


あのこたちと、いつかまた会えるかな。会いたいな。


子供たちの姿が見えなくなったころ、

ボクはそう言ってみたくなって父を見上げた。


父が泣いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ