一章 魅藤凛の日常 ~Best Friend~
四月の中旬を迎えた街並みは、少しまだ慌ただしさと初々しさが漂っていた。
黄色い帽子を被り、ピカピカのランドセルを背負った小学生とそれを年上として誘導していく小学生の集団登校や、慌てて駅の方向へと走っていくネクタイの曲がったスーツ姿の青年など、新しい年度を迎えたからこそ見える人間模様が、春であることをより一層と感じさせてくれる。
桜の花びらがひらひらと舞う美しい光景に、どこからか漂ってくるクチナシの甘い香りが鼻腔をくすぐる。近所の庭先で咲いているリューココリーネやネモフィラがとても可愛らしく、心を和ましてくれる。
新しい通学路は新鮮で、六年間通い慣れた小学校とは違う道に、未だに頭が追いつかず不思議な感覚から一瞬、通学路を間違えたような錯覚を覚えてしまう。
その上、ランドセルとは違う手に持っているスクールバック重みが、違和感として肌身に伝わってくるが、自分自身が一つ大きく成長したことを自覚させてくれる。
何より、自分の身を包む制服が大人への第一歩を実感させてくれる。
黒色のセーラー服の衿と袖には赤色の線が三本入っていて、スカーフの色は学年ごとに決められており、魅藤凛がつけているのは赤色だ。ちなみに五つ離れた姉のスカーフの色は緑であったため、残念ながらお下がりで使うことは出来なかった。
「凛ちゃんおはよ~」
すると突然、後ろから鈴を転がしたような可愛らしい声が聞こえてきた。
その春の陽気を思わせる声音に、魅藤凛は足を止め、口の端を緩ませながらそちらへ振り向く。
カツカツとローファーを響かせながらスカートをはためかせ、にこにこと笑顔を浮かべて手を振り近づいてきたのは、親友の片霧陽鞠であった。
普段、体育くらいでしか運動のしない彼女は、辿り着いた途端に膝に手をついて肩で息をする。
彼女、片霧陽鞠は、保育園の頃から一緒で、よくおままごとをして遊んだり絵本を二人で見たりして、小学校に上がっても遊びに出かけたり家で遊んだりとずっと傍にいてくれる良き理解者だ。
「おはよう陽鞠ちゃん。朝から元気だね」
魅藤凛も笑顔で応える。
ウェーブ混じりの薄い茶色髪に眼鏡が印象的な彼女は、その見た目通りの文学少女なのだが、行動の端々でお茶目をするとても可愛らしい子だ。姉とも仲が良かったこともあり、亡くなった際には凛以上に泣きじゃくった、今まで出会ってきた人間の中で誰よりも心の優しい女の子だ。
しばらくして、息が整いつつあった片霧陽鞠は、胸に手を当てて大きく一つ深呼吸をしてから口を開いた。
「だって、凛ちゃんの後ろ姿見たら凛ちゃんだ! って、思って急いで走ってきたんだよ」
そんな可愛らしい彼女の行動や言動は心を和ませてくれると共に、天然な一面を目の当たりにすると自然と笑みがこぼれてしまう。
「それだったら、声だけ掛けてくれたら今みたいに止まって待ってたのに」
なるほどその手があったか、というように手を叩く少女。結構な距離を走ってきたのか、彼女の額にはわずかに汗が滲んでいた。
「まだ肌寒いんだから風邪引いちゃうよ。はい」
そう言って、魅藤凛はハンカチを取り出して、彼女に差し出した。
「ありがとお~」
何とも気の抜けた調子で片霧陽鞠はハンカチを受け取ると、ポンポンと額の汗を拭う。冬服用のセーラー服は保温性が高い分、あまり通気性が良くないため、少し激しい動きをしただけですぐに汗が出てしまうのが欠点ではあるものの、プリーツスカートに関しては膝より上からはそれなりに暖かさを保ってくれるのが利点である。とはいえ、膝下はいかんせん冷えやすいので、タイツは必需品である。
「それじゃあゆっくり行こっか」
そうして、ゆっくりと歩き出す二人。他愛のない会話をしながら通学路を進んでいく。
通学路には様々な住宅が建ち並んでおり、古民家から現代的な大きな住居、いかにもお金持ちが住んでいそうな屋敷まであらゆる建造物がある一方で、大きな公園やコンビニエンスストア、業務用スーパー、ファーストフード店、洋服店まである。
今までは学区という制約があって行動範囲も限られていたこともあり、近場とはいえ親の用事以外ではなかなか来ることもなかった場所を実際に自分の足で歩いて見てみると、その一つ一つが新鮮に感じられ、そんな些細な発見ながらも自分の知っている世界がどれだけ小さいのかを思い知らされる。
世界なんて言ってしまえば大仰だが、たった一人の人間なんてどれだけ小さいことか。
でも、その小さな人間一人一人が集まって出来たのが社会であり、その社会を動かすためには一人という歯車が無くては回っていかないし、その反面、無くなってしまったり噛み合わせが悪くなってしまったらその代わりに別の歯車が用意されるのが人間社会とも言える。
人間は悪い意味で他人に興味を持ち、良い意味で無関心な生き物だ。
一緒であることに安堵し、違うことに不安を覚え、また異物を淘汰しようとするのが本性であり本能だ。協調性は大切である。でも、個性を殺してまで生きることに価値はあるのだろうか。
違和感を違和感として受け入れて妥協することは集団の中で生きていくには必須だろうが、僕はそれが出来なかった。
学ランに袖を通し、鏡越しに自分を見た瞬間、形容しがたい違和感が全身を這いずり回った。その姿を見て、母が少し嬉しそうな表情を浮かべたのを今でも忘れられない。でも、その直後に様子を察してくれてセーラー服を勧めてくれたのは、とても嬉しかった。
別に、男性服や趣味、趣向が全て嫌いな訳ではない。運動だって好きだし対戦ゲームも好きだ。でも、可愛いもの買ったり身につけたり、恋愛小説を読むのだって好きだ。
だから、そんな矛盾だらけの自分が嫌いだ。
白でもなければ黒でもない。言うなれば灰色だ。全てが中途半端で曖昧な自分という存在が、一体どこへ向かっているのかも分らなくなってしまう。
正解のない問題に葛藤するのも人間という生き物の性なのだろな、と魅藤凛はこれが思考の最終地点だと思っていつも気持ちを切り替えるようにしている。
ふと、隣にいる片霧陽鞠がこちらを上目遣いで見ていることに気付いた。
何か会話に噛み合わないことがあったのかと、ドキッとしてしまう。
「どうしたの?」
恐る恐る訊ねてみると、きょとんとした顔で少女はこう切り返す。
「前から思ってたんだけど、凛ちゃんって睫毛長いよね。エクステでも付けてるの?」
思わず何だそんなことかと安堵してしまう。姉から色々と化粧のことや美容の事などは見聞きしてはいたが実際に試したことはない。精々やっていること言えば肌と髪の手入れくらいだ。
「睫毛は自前だよ。そういえば、前に陽鞠ちゃんに教えてもらった化粧水と保湿クリームとっても良かったよ。今まで使ってたのとは比べものにならないくらい肌質が良い感じ」
そう言いながら自分の肌を触って魅藤は答える。
「ほんと? 良かったぁ。私も好きで使ってるんだけど、レビュー見ると賛否両論だったから凛ちゃんに合うかな~って正直心配だったんだよ」
片霧は、嬉しそうな彼の横顔を見て安堵しつつ、そのまま見入ってしまう。
自分より少し背の高い、細い体躯に肩まで伸びた黒髪がとても似合う彼。その端正な顔立ちと容姿だけでは男性だと気付く人はいないだろう。声音にしてもまだ声変わりをしていないから余計に判別は難しい。その一方、中学生になったことも相俟って少し大人びたように感じられ、同年代とは思えない色っぽさも垣間見える。
実際、この春休みに一緒に遊びへ出掛けた時には、彼を目当てに声を掛けてくる男性が多く、本人が男だと暴露してもなお煙に巻くための冗談だと思い、最後まで女性だと勘違いしていた人の方が多かったくらいだ。それ故に心配になってしまうが、魅藤の方がしっかりとしているため、どちらがお世話になっているのかは言うまでもない。内面と外見共に綺麗な親友は、性別など関係なくとても魅力的で、声に出して言えないけど『大好き』な存在だ。
「ん? 僕の顔に何かついてる?」
あまりにもじっと見つめてくるものだから、さすがに向けられた視線に気付いた魅藤凛は、不思議そうな表情を浮かべながら訊ねる。
「あ、うん、何でもないよ。ただ肌白くて良いなぁ~って思って・・・」
慌てて視線を逸らし、しどろもどろする片霧陽鞠は、話題を変えようと視界に入ったチューリップの方へと歩み寄る。
「凛ちゃん見てみて。紫色のチューリップだよ。珍しいよね」
一軒家の庭先の園芸用区画と思われる場所に数輪のチューリップが咲いている。道行く人に鑑賞してもらうためか、歩道沿いに面したところに植えられており、滅多に見かけない鮮やかな紫色ということも相俟って通る者の目を惹く。
「ほんとだ。紫色は珍しいね。家にあるのは赤色にしか咲かないから、どうやったらこんな風に綺麗に色づくんだろうね」
しゃがんで花を見据える少女の隣で、魅藤も膝に手を突いてその鮮やかさに心を奪われる。
植物は不思議だ。赤や白、青、黄、緑、ピンク、紫色といったように、自然の力で、自分の力で、ありのまま咲き誇る。その様は、審美的かつ神秘的で、宝石でも言えることだが、色彩は神様が創り上げた芸術の一つと言っても過言ではない。
「そういえば、チョコレートの匂いする花ってチューリップだったっけ?」
唐突にそんな質問が投げかけられる。突拍子もない不意打ちに声を出して笑ってしまう。
「違うよ。チョコレートの匂いがするのはコスモスだって。確か東京の方にある植物園で見られるって聞いたからいつか見に行きたいね」
などと、現を抜かしていると・・・。
バサッ!
突然、冷気と共に後ろから勢い良くスカートがめくり上がる感覚が伝わってくる。当然ながら風の悪戯ではない。
咄嗟に後ろへ振り向くと駆け抜けていく影が見えた。
「よう、魅藤! 今日は水色かよ!!」
正体は、クラスメイトの西木野真一であった。
このセクハラ男は同じ小学校出身かつ同じクラスで、昔から人の不意を突いてはスカートをめくり上げたり、身体に触れてきたりするデリカシーのない男だ。てか、やってることが昭和時代の悪戯なんだけど、今は令和ってこと知ってる? と思わず叫びたくなる。
それはともかく、どうやら中腰に前のめりという体勢の所為で、黒色のタイツとはいえ引き伸ばされて下着が透けてしまったらしい。しかも、朝は肌寒いとはいえ、日中は暖かくなると携帯端末の天気予報で表示されていたから、体育のことも踏まえて汗で蒸れないように薄めのものを選んでいたのだ。そして何より、中学生になってまさかスカートめくりなんてしてこないだろうという油断と、そんな防御力の低い中で目立つような明るい色の下着を履いていたことが、この不測の事態を招いてしまった。
そもそも、誰かに見られる前提で下着を履いている人間なんて特殊な性癖の人間以外いないだろう。
とはいえ、何故こんなに狼狽しているのかというと、履いている下着が女性用だからである。身体は男性とはいえ、外見は女性そのものであり、やはり根幹はどちらでもあってどちらでもない魅藤凛にとって、下着や身体、感性、趣向という見えない部分はとても繊細な問題なのだ。それを知っていようが知らなかろうが、土足で踏み込まれることは許すことは出来ないし、公共の場で醜態を晒されること自体、誰だって怒るのは当然ではないだろうか。
普段は冷静沈着な魅藤でも顔を赤くしながら、
「バーカ!!!」
と、やり場のない悔しい気持ちを全て込めて大声を上げる。
ヒットアンドアウェイを上手く決めた西木野は、いい気になって悪戯な笑みを浮かべるとそのまま学校へと向かって走り去っていく。
全力で追いかければ捕まえられるとは思うが、今は片霧陽鞠もいるため、置いていく訳にはいかない。どちらにせよ、教室で会うことになるので、そこで鉄槌を下せば良い。
「凛ちゃん、大丈夫?」
呆然とチューリップを見ていた片霧だったが、友人の慌てふためく姿に驚いて心配そうに見つめる。
そんな彼女を心配させないように、魅藤は笑顔で応えるがやはり気に掛かっている所為か、少し苦みが出てしまっている。
「大丈夫だよ。久しぶりに西木野の奴がセクハラしてきただけだから。あとで教室で会ったら制裁するから問題ないよ」
それはそれで問題になっちゃうよ? と、思わず口から出そうになったところで片霧は喉元で留めておく。それよりも自分がここに留まってしまったのが原因だと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんね、凛ちゃん。私の所為で・・・」
「陽鞠ちゃんの所為じゃないよ。僕が無防備だったのがいけないんだよ」
顔を曇らせる彼女を心配させまいと必死に宥めながら大げさに手を振って全く気にしていないよと魅藤は申告する。しかし、わざとらしいのが悪かったのか、彼女は俯いてしまった。段々とその双眸が潤んでいく。
(落ち着け僕! 普段通り平常心、平常心・・・)
胸に手を当て一息置く。それから心の秩序を取り戻した魅藤は、彼女の小さく震えた手を握る。
「本当に大丈夫だから、心配しないで。これくらいなら平気だよ。それよりも、陽鞠ちゃんが悲しんでる方が、僕はつらいかな」
もっと良い言葉選びはあったかもしれない。でも、これが今できる等身大の自分の表現であった。自分の所為で誰かが傷ついて泣くくらいなら自分自身が犠牲になった方がマシだ。
すると、気持ちは伝わったようで、片霧は顔を上げる。
お互い目を合わせると、魅藤は屈託のない笑みを見せる。
「悲しいこともあれば嬉しいことだっていっぱいあるんだから。だから、これからも僕と一緒にいっぱい楽しい思い出を作ってくれると嬉しいな」
その瞬間、眼鏡越しの双眸が大きく開く。彼の少し儚くも太陽のような明るい笑顔に、心がぽかぽかと温かくなる。目の端からこぼれ落ちそうになる涙を見られないように、視線を逸らしつつ寸前のところで指で拭う。
「凛ちゃん、ありがとう。ごめんね、嫌な思いしたの凛ちゃんなのに」
中学生になっても涙もろく、他人の為に泣いてくれる心の優しい少女。そんな大切な親友をそっと抱き寄せる。
「もう僕のために泣かないで。お姉ちゃんの時に一生分の涙はもらったから」
宥めるつもりがこれじゃ逆効果だよね、と自身の思考に呆れながら視線を上げる。
眼前に広がるのは心が洗われるような青い空。その中を舞う桜の花びら。
世界の一部を見据えながら自分の言葉を反芻する。
『悲しいこともあれば嬉しいことだっていっぱいあるんだから』
その言葉は、亡くなった姉のものだ。
嫌な事や苦しい事に直面し、悩んでいる時に、姉はいつだって相談に乗ってくれた。前向きに、真剣に一緒に考えてくれた。
そんな姉に憧れ、尊敬していた。だからこそ、今度は自分が姉のような存在でありたい。
利己も打算も一切なく誰かの気持ちに寄り添えるそんな人間になりたい、と。
ふと、水を啜るような物音が聞こえて魅藤凛は、慌ててそちらの方へと視線を向ける。
すると、家屋の軒下にある縁側に、老婦が一人が座っていることに気付いた。
いつの間に座っていたのか分からないほど幽けき存在感の老婦は、朗らかな笑みを浮かべてこちらを見ている。まるで、若さって良いわよねぇ、と言わんばかりの笑顔で再び手に持っているお茶を啜る。
冷静になる。今、自分たちがいるのは人様の家の前だ。むしろ、迷惑をかけているのはこちらで、逆に言えば朝から何を見せられているだと言われても文句の言えない状況だ。
思考が追いついてきた瞬間、メーターを振り切って羞恥心が爆発する。これが漫画だったら顔面紅潮と共に頭から煙が噴き出していることだろう。
「そろそろ行かないと遅刻しちゃう!」
そう言って、魅藤凛は半ば強引に親友の手を引っ張ってその場を後にする。
片霧陽鞠も咄嗟のことで戸惑いながらも一緒に走り出す。
真新しいスカートを翻しながら、二人は元気良く学校へと向かっていった。




