一章 魅藤凛の日常 ~Not Identity~
朝、目を覚ますことが怖い。
意識が外界に向くことで、曖昧だった輪郭が徐々に明確になっていくのが判るからだ。
現と夢の狭間の心地良い感覚が次第に薄れいき、ぼやけた視界も定まってくる。
布団の温もりと共に四月の肌寒さが同時に押し寄せてきて、胸元に埋もれていたタヌキのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。大人の猫より少し大きなぬいぐるみは肌触りが良く、その気持ち良さから再び夢の中へと意識を引きずり込もうとしてくる。
タンタラランタラタラララ~、と。
夢心地から無理矢理に引っ張り上げるような目覚ましの軽快な音が部屋の中に響き渡る。
「うぅ…」
思わずうなり声を上げてしまう。
身体を動かしたくても肌寒さと微睡みが邪魔をして言うことを聞いてくれない。
とはいえ、寝坊をする訳にもいかないため、気持ちを奮い立たせてベッドから起き上がる。
布団の中に溜まっていた温もりが少しずつ薄らいでいく。冷たい空気が衣服の熱を奪い、半ば強引に覚醒へと誘っていく。
気持ちを切り替えるために、抱いていたぬいぐるみを再びぎゅっと抱きしめる。ゆるキャラのようなタヌキの顔が押し潰されて不細工になる。一〇の間を経て、ぬいぐるみを枕元に置いて、魅藤凛はベッドから降りる。
それから、カーテンの方へと視線を移しす。わずかな隙間から差し込んでくる太陽の光が、一日の始まりを伝えてくる。まだ気持ちの切り替わっていない身体を起こすべく、カーテンへと歩み寄ると両手で緩やかに開ける。
ピカッと。一瞬、強い光に視界がぼやけるがすぐに焦点が戻り、外の景色が眼前に現れる。
天気は気持ちが良いほどの晴天。ベランダの向こう側は住宅街が広がり、近くの小学校にある桜の花びらが空を舞っている。
そんな長閑な雰囲気と陽気を全身で感じて、反射的に声を上げながら背伸びをしてしまう。
とはいえ、学校へ行く時間があるため、あまりのんびりとはしていられない。
陽射しをたくさん浴びて身体もようやく目を覚ました。さあ、朝の準備を始めよう。
部屋の中は簡素なもので、絨毯やカーテン、ベッドは青色で統一されており、家具も必要最低限に留めて無駄に小物は置かないようにしている。掃除をするのが面倒というよりかは、小さいものをぐちゃぐちゃと置くと視覚情報が増えて落ち着かないからだ。
しかし、この部屋には不要なものが一点ある。
それは、壁に掛けかけてある中学校の制服だ。
制服は男子使用と女子使用の二着ある。
魅藤凛は並べられた制服の前に、じっと両方を見つめる。
学ランとセーラー服の二着。
真新しい制服はどちらも魅藤凛のものである。
この光景は何度見ても心をぎゅっとさせられてしまう。
胸に手を当て、一呼吸する。それから、わずかに目を細めると、親の期待を裏切った方を選んで手に取った。
寝間着から制服に着替えた魅藤凛は、二階の自室から出て一階の洗面所へと向かう。
一階からは朝食の良い匂いと、とてとてと少し慌ただしい足音が聞こえてくる。
歯磨きと洗顔を済ませ、肩まで伸びた黒髪を櫛で梳かしてから居間へと向かう。
扉を開けて中へ入ると、キッチンから食卓へと忙しなく朝ご飯を運ぶ母が視界に飛び込んできた。
「あら、おはよう。今日は自分で起きられたのね」
母は気にも留めず、お茶碗を渡してくる。
「おかずはテーブルの上にあるから自分でよそってね」
そう言うと、洗濯機のある洗面所にある洗濯機がピーピーと音を上げて洗濯完了のお知らせをしてきたので、慌ただしく走っていった。
その様を見送った凛は、ご飯をよそってテーブルへとお茶碗を置く。
お茶碗の置く音に気付いた父が新聞から目を離し、ぎろりとこちらをにらみつけてくる。
挨拶は特になく一瞥しただけですぐに新聞へと視線を戻した。
はっきり言って父は苦手だ。寡黙ながらも荘厳とした雰囲気を放っており、考え方も少し古い人間だ。
当然、服装だったり趣味や嗜好に関してはあまり寛容ではない。
言葉を交わす頻度も少なくなるのは自明の理である。
そんな父を余所に、スカートを翻して居間の隣にある和室へと向かう。
和室には仏壇があり、長押を縁に写真をきれいに並べて飾っている。
線香に火を点けて、手を合わせる。心の中で、亡くなった人達へ追悼の念を送る。
仏壇の中には祖父母など写真があり、その中には若い女性の写真もある。
「(お姉ちゃん・・・)」
そんな心の声が口から漏れ出してしまう。
若い女性の写真は、五つ歳の離れた凛の実の姉だ。
姉はとても優しく、また良き理解者でもあった。『凛』という名前も小さい頃に姉が珍しく駄々をこねたことで決まったとも聞いていた。
名前のことで昔はよくからかわれていたが、『凛』という名前は響きが良くて昔も今もとても気に入っている。
とはいえ、神様というものは無情なもので、姉は昨年の夏に病気でこの世を去ってしまった。
人生とは修行で、徳の高い人間はこの世で修行をする必要が無いから早くに神様の下へと還っていくのだと昔、誰かから聞いたような気がする。
今までずっと一緒に生活をしていた人が突如として居なくなってしまうと、その当時はあまり実感が湧いてこなかった。半年経った今だからこそ、病院で最期を見届けた記憶が思い起こされて、悲しみが堰を切ったように涙となって溢れ出してくる。
当たり前のものだと思っていたからこそ、無くしてより一層にそのものの大切さを思い知らされた。
出会いがあれば別れもある。分かっていながらも未だに受け入れられないのは、魅藤凛だけに限った話ではない。
その大きな歪みは更なる深みを増して今日に至るのだ。
父からしてみれば、たった二人の子どものうち、朗らかで優秀な上の子を失い、普通ではない下の子が残ってしまった。
本家という立場からすれば最悪な結果だと思っているに違いない。
それ故に、今までは仲介役であった姉が居なくなったこともあって、父親とは半年ろくに言葉を交わしていない。
正直、同じ食卓に座りたくはない。父の方も同じ気持ちであろう。
早々に朝食を済ませた凛は、使った食器を片付ける。
真新しいレザー製の黒色のスクールバックを片手に居間を後にしようとする。
ふと、父の方へと視線を向ける。
最初に見た時と変わらず、新聞を眺めてはページをめくっている。
ドタバタと二階から母が降りてくる足音が聞こえてくる。
引き戸を開けた途端、目の前に凛が居ること驚いて一瞬だけ硬直した母だったが、主婦の朝は戦争でとても忙しい。故に立ち止まっている暇などなく、そそくさと敷かれたレールの上を走る電車の如く決められた順路を進み出す。
「凛、もうご飯食べたの。忘れ物はない?」
どうやら洗濯物は干し終わったらしく、台所に水に浸されたままの食器を洗いながらそんな言葉を投げかけてくる。実に器用なものだと感心させられる。
「うん、大丈夫。それじゃ、行ってくるね」
母親は姉と同じように寛容な心の持っていて、衣服や趣味、思考に関しては本人の意思を尊重してくれている。しかし、それ故に父親と衝突することもあり、その結果の一つの例として男女両方の制服があるという事態を招いているのだった。
出来れば自分のことで喧嘩をしてほしくはない。とはいえ、その所為で夫婦関係が悪くなるといったことはなかった。母親の方が肝が据わっていることが功を奏しているかもしれない。
実際に、
「お父さん、まだ食べてないの!? お父さんは休みでも私は仕事に行かなくちゃいけないから、さっさと食べてちょうだい。じゃないとお皿洗いとお風呂掃除やってもらうわよ!」
と、まくし立てている。
その言葉に父は慌てたように新聞を閉じると卓上に並べられた食器を前に置き場所に困ってしどろもどろしている。
二人のやり取りを見て、凛は少し口の端を緩ませる。
そんな当たり前のような光景。過ぎていく日常。半年前では考えられなかったが、住職が、今はつらくても時の涙が少しずつ心を癒やしてくれますよ、と言っていたことを思い出す。
一七年間、共に暮らしていた娘が居なくなった寂しさは一生消えないだろう。しかし、それでも時の流れが少しずつその事実を教えてくれると同時に、楽しかった思い出、嬉しかった思い出を時代の移ろいと共にいつか笑って話せるようにさせてくれるのだろう。
そんなことを思いながら魅藤凛は、滑らかな光沢を放つ黒色のローファーを履き、玄関の扉を開ける。
そうして、今日という一日が始まる。当たり前でいて、大切な一日。
新しい通学路も少しずつ慣れてきた。でもまだ、学校生活は不安なことばかりである。
そんな覚束ない感覚に戸惑いながらも、プリーツスカートと肩まで伸びた艶やかな黒髪を春風になびかせ、魅藤凛は学校へと向かうのだった。




