3.さよなら地球
「お前さんの怒りもわかるのだがの。ワシが呼んでおらなんだら、お前さんの息子はあのまま死ぬ運命じゃったんじゃ」
自称神様の老人が言うには、あの後自宅裏にある山が崩れ、自宅の半分が呑み込まれる運命だったらしい。
山に面したリビングとキッチンを繋いだ1階部分は、ちょうどキッチンだけを残す状態で、土砂がなだれ込む運命だったという。
目の前で土砂に呑み込まれる息子を想像しただけで、全身から血の気が引いてゆく。
「……だからと言って、どうぞいってらっしゃいと言えるわけがないでしょう」
振り上げたままだったフライパンを、力なくおろしながら、絞り出すように返答する。
神様は、わずかに憐れみを含めた目で、じっと私を見つめてくる。
認めたくない。
認めたくないけれど、神様が教えてくれた事が事実であると、感じてしまう。
「……戻せないのですか? あの瞬間に。そうすれば、急いで息子とキッチン側へ避難できるのに」
無理だろうとおおよそ理解しながらも、せん無い言葉が零れ落ちてくる。
「ワシが呼んだのは一人じゃ。一人なら、完全な状態で戻すことは可能じゃよ」
「一人だけしか戻せないのなら! 息子を戻して! 私が土砂にのまれる運命でいいから!!」
神様は、ゆっくりと頭を左右に振った。
「土砂にのまれる母の姿を、息子に見せる事になるが、それでも良いのかの?」
ひゅ、と息を飲む。
私は、知っている。残される辛さを。ある日突然両親がこの世から去って、天涯孤独になる恐怖を。
叫んでも、わめいても、そっと抱きしめてくれる絶対的味方がいなくなる絶望を。
あの恐怖と絶望しかない孤独の世界に、まだ16になったばかりの息子を送り出せる訳がない。
がくりと肩を落とす私の姿をみて、神様がやさしく微笑んだ。
「ご子息には、適当に使命を授けた」
「使命……ですか?」
「もちろんでっちあげじゃ。あちらの世界にはホンモノの使命を授けた『勇者』が居るからの」
「使命をもった勇者が必要な世界……って。危険ではないのですか?」
「剣も魔法もある世界じゃし、魔物もおるからの。多少の危険はあるが……。日常生活の中でどこに危険が潜んでおるか判らんのは、こちらの世界とそう大差なかろうて」
……確かに。通り魔とか突然車がとか、低い確率だけど全く出会わないという事はない。
今回の発端のように、家の裏山が突然崩れるような天災も、ゼロではない世界だったけど……。
なんか、言いくるめられている感がぬぐえない。
「息子も魔法が使えるようになるのですか?」
「魔力は大量に渡したがの。まだ使えんよ」
「……まだ?」
「もともと魔法がある世界の住民なら、幼少期から使い方を徐々に覚えるがの。いきなり飛ばされた者に魔法を使えるようにしておいて、暴走しても危険じゃからな」
「使い方含めて神様が教えれば良いのでは?」
「それは、ちぃと干渉しすぎになるな。後々魔法が使える方法もある世界じゃから、運が良ければ覚えられるしの。そもそも土砂に飲まれる運命にあったのも、お主の息子のみでは無いのじゃからな」
「何か……息子が選ばれた理由があるのですか……?」
神様のふさふさの右眉が、ぴくりと跳ねた。
何かを誤魔化すように咳払いをした神様の体に、しろい靄のようなモノが纏わりつき始める。
「そろそろ時間切れのようじゃな。……嘘にはなるが、達成すればもとの世界に戻れると話をしておいたから、あちらの世界で希望をもって過ごすじゃろう。ゆくゆくは伴侶をめとり、伴侶の為に異世界に留まるようになるじゃろうて。こちらの世界で、土砂にのまれて生涯を終えるよりは、マシじゃろう……?」
ひどく優しい声で、静かに語る神様の姿がおぼろげになってゆく。
横たわっていた息子の姿が、輝きだした。
高校生になってから、急に背が伸び、あっという間に私の頭一つ分を超えた息子。
くりくりとしたこげ茶色の瞳は、今は閉じられている。
もう、あの瞳をみられないのか。
いってらっしゃいも、おかえりも、言えなくなるのか。
たわいもない会話も、ときどき臭い靴下も、私に似たやわらかいねこっ毛も。
何もかもが、私を置き去りにするのか。
爆発しそうな感情に背を押されるようにして、おぼろげになってゆく神様の両腕を必死に掴む。
「なら! 私をこの場で殺して!」
息子を、どう足掻いても助ける術が無い事は、なぜか理解した。
そして、このまま引き下がったら二度と会えなくなる事も。
一人残される現実に、耐えられるわけがない事も!
「呼んでもいない魔法陣に飛び込んで、完了間際の召喚者に干渉し、この天界に来ただけでもありえんのに。さらにこの状態のワシをつかむ事までやってのけるとは……。これが『火事場の馬鹿力』というものかのぅ。」
掴んでいる神様の腕から、ふわりと温かい何かが流れ込んでくると、意識が遠のいてゆく。
……そこは『母の愛』と言うところでしょう……
そっと神様に突っ込みながら、再び意識を手放した。