暗黙の了解
「アンリトゥンルール、暗黙の了解ってあるだろ?」
「あぁ、あるな。メジャーリーグで大差が付いてたら盗塁しないとか、サッカーで怪我人が出たらボールを出す、んでその後出した方に返すなんかだろ。」
僕が放り投げた話題を、彼は何でも無い事のように的確に受け止めてくれる。しかし彼のチョイスにはやはりと言うべきか、予想通り過ぎて呆れてしまう。
「スポーツバカだよなやっぱり。」
「おっ、何だ?喧嘩なら買うぞ、言い値でどうだ?」
たまには僕から脱線したい時だってある。レポートなら終わりが見える。だがテスト勉強にはそれが無い。だからこの期間に喋り出すのは僕の方が多くなる。
対して彼はテスト勉強で集中力を切らす所を見た事が無い。実は決められた事をこなすサラリーマンとかより、大学の教授とかが向いているタイプなのかもしれない。否、そんな事もないか、現に今集中力を切らしてやがる。主に俺のせいで。
「まぁそうイキるな。大前君って呼ぶぞ?」
「おっとそれは勘弁してくれよブラザー。俺とお前の仲じゃないか。せめて人で表現してくれよ。」
爽やかな顔でそう答える彼なのに、何故か副音声のようにオイテメーラオレガカウゾなんて声が聞こえる。何か霊障にでもあっているのだろうか。首筋に生温かい息も吹き掛けられて、僕は思わず身震いした。多分大前君の鼻息だ。後で殴ろう。
「んでな。スポーツに限らず、世の中に溢れているんだけどさ。中にはそれが表のルールとなって間違って定着しているものもあるだろ?そうだな…例えばエスカレーターで片方は歩いて行く人専用とか、ふざけていると思わないか?」
「あぁそれは確かにふざけているよな。何を考えているんだろうな。」
「えっ?なんでふざけている事になるんだ?」
唐突に聞こえた声に思わず「正気か?」と僕と彼の声が重なる。
「そんな世間知らずだから最近まで童貞だったんだよ。」
「そんな世間知らずだから初体験で失敗するんだよ。」
「どっ、どうてっ、それわぁ、っか失敗してねーしっ!!ってか未来の前でする話じゃねーだろっ!!み、未来もなんで笑ってんだよぉっ!!」
わあわあと喚き立てる声に紛れて、クスクスと可愛らしい声が響く。うーん天使だ。見た目だけじゃなく性格も良いとか。大前君は一体どうやって洗脳したのだろう?
「まあちょっと前までチェリーボーイは置いておいて。」
「初体験翌日周囲に分かりやすいくらい自信に満ち溢れていたつい最近まで童貞も置いておこう。」
「そうだな。で、さ。サッカーみたいに良い事なら良いんだよ。でもさ、野球の例だと、正直サムいなって思っちゃうし、エスカレーターみたいに悪い事例もたくさんあると思うんだ。」
「あぁ、その通りだ。」
「お前ら態々ラウンジに呼んどいてこの扱い頭沸いてんじゃねーの?」
一定の納得を得たと彼が徐に頷く。BGMで流れ続ける汚らしい響きの言語が気になるが、日本語というのは綺麗な物だったはず。だから多分あれは日本語じゃない。聞き取れないのは仕様が無いと諦めた僕は、改めて彼に向き直った。大前君には後でテヘペロでもして謝れば良い。
「ところでさ。トイレットペーパーを三角形に折るっていうの、元々は『清掃完了しています』っていう合図だって知っているよな?」
「聞いた事はあるな。そう言われれば、あれも意味が変わって暗黙の了解マナーみたいになってはいるが…。でも千堂、別にそれは悪い事じゃないだろう?」
「あぁ、その心意気は素晴らしいさ。次の人のためにっていう精神だからな。だが、本当にそう思うか?矢田ならこの違和感に気付いてくれると思っていたんだが…。」
僕のその物言いに、彼は頭を働かせる。しかし簡単に答えには辿り着かないようだ。それもそうか。彼の頭の良さは誰もが認める所だが、悪意の存在しない害意にはとんと気付かない。あまりに有名なカメレオン俳優に似ているため、彼は渾名としてその俳優の下の名前で呼ばれている。そのせいでサークルの後輩に彼の本名が浸透していない。矢田という苗字も最近知られたくらいだ。名前が隆祐だと知っている後輩はどれだけいるのだろう。もう前期も終わりに近いというのに、不憫な奴だ。
「降参だ。一体何が問題だっていうんだ?教えてくれ、大前君のように世間知らずでなんていられないっ!」
「私にも教えてくださいっ!私も大前君さんみたいに世間知らずは嫌ですっ!」
「なんで未来もそっち側なんだよ…。」
矢田の発言に天使の息吹とノイズが加えられた。ノイズは無視で良いが、まさか天使が乗っかってくるとは思っていなかった。今更ながら女の子の前でする話じゃないけどなと反省しつつ、それでも僕は止めるつもりなどさらさら無かった。
「そうだな、例えば大前君が個室トイレで用を足している事を想像してほしい。男が個室を使う時は大きい方だから、下半身は丸出しだ。」
「想像しちゃいました、キャッ。」
「「エロ(変態)天使だな。」」
「未来まで弄り始めたよ…。」
素直に従って想像し顔を赤くした天使を見て、僕と彼の言葉が重なる。実際に見ている訳でも無いのに、顔を手で覆い指の隙間から可愛らしい瞳を覗かしている。相変わらず仕草も天使だ。
わあわあ煩く騒いでいる大前君は死ねば良…死んだら天使が悲しむから、とりあえず勉強中の試験の単位を落とすくらいで良いや。
「ま、それは良い。用を足した大前君は心優しくマナーをちゃんと守れる人だから、トイレットペーパーをちゃんと折ります。」
「大前君さん素敵ですねっ!」
「だがちょっと待ってほしい。個室内に手を洗う場所はあるかい?大抵のトイレは入り口を入ってすぐ辺りに手洗い場があり、小便器や個室からは離れているはずだ。大前君はあぁ見えてそそっかしい所もあるから、手を洗う前の彼の手にはひょっとしたら彼の排泄物が付いているかもしれない。」
「「あっ!」」
彼と天使の声が綺麗なハーモニーを奏でる。天使の清らかな声のせいで、彼の低温も味のある風に聞こえるのはちょっとしたミステリーだ。
「そんな汚らしい手で次の人が使う部分に触る大前君の行為は、ある意味テロ行為ともいえないだろうか?」
「大前君最低だな。」
「大前君さん最低ですね。」
「最低なのはお前らだぁっ!!!!!」
最低君の叫び声が学生ラウンジに響き渡った。全く、周囲の迷惑も考えて欲しい。いくらラウンジとはいえ、テストが近いこの時間は勉強に励んでいるやつも多いというのに。うん、僕が言えた義理じゃない。
だけど彼の怒りは最もだ。だって怒らせようとしていたんだもの。素直に渡して素直に喜ばれるなんて、僕と彼は許さない。僕はバッグから封筒を取り出した。
「まぁ落ち着け大前。誕生日おめでとう。夢の国のペアチケットだ、俺と矢田からな。未来ちゃんの夢が彼氏と夢の国デートする事らしい。連れて行ってやれ。」
「落ち着けって…えっ?あ、ありがとう…。え?この流れで?」
大前君は困惑しながら封筒を開けて中を確認する。即座に中身を出すとは卑しい奴だ。いや、僕等を信頼していないだけなのかもしれない。
「わぁほんとだぁ!文弥さん隆祐さんこんなに高い物ありがとうございますっ!!」
「えっ?嬉しいけどさ…さっきまでの話は何なの?必要、あれ。」
素直に感謝し勢いよく僕と矢田に頭を下げる天使に対し、大前君は文句を零す。だから僕は教えてやる事にした。
「普通に渡したら、大前君が喜ぶだけだろう。リア充が喜んでその後イチャイチャする。俺と矢田のストレスが溜まるだけだ。だからせめて散々大前君を馬鹿にして溜飲を下げてから渡す。」
「まぁそれが俺と千堂の暗黙の了解ってやつだな。」
「素直に礼が言えねぇ。」
全くもって理解に乏しい奴だ。大前君は天使とラブラブ出来て、僕と矢田はその現実に溜まるストレスを発散できる。Win-Winという言葉を知らないのだろうか。僕はやれやれと肩を竦め、もう一度試験勉強を始める事にした。