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「あら。あなた、また来たの」
今日もよい天気だ。こんな日は四阿に行くに限る。
そう思い、いつものように四阿に行くと、すでに先客がいた。いつぞや他の貴族の子息たちに追われていた獣人の彼だった。
彼は私に目を留めると惑うように瞳を揺らし、何やら逡巡しているようだった。尻尾の先もぴくぴくと忙しなく動いている。
私は構わず定位置に腰を下ろした。敵意は無さそうなので問題ないだろう。
しばらく私はぼうとしていたが、ようやく決心が着いたのか、彼が声を発した。
「これ……やる。この前の礼だ」
ようやく絞り出されたような声とともに、彼がずいとこちらに差し出してきたのはクッキーだった。それは普段用意される凝った作りの華やかなクッキーではなく、素朴でシンプルな作りのものだった。
クッキーが入っている袋はリボンでかわいくラッピングされている。
もしやこれは、彼がわざわざ私に買ってきてくれたものだろうか。お礼をしに来るなんて、彼は存外律儀な性格なのかもしれない。
「ありがとう。気が利くのね」
有り難く両手で掬うように受け取った。純粋に嬉しくて、顔が綻ぶ。
こちらの様子をじっと窺っていた彼も、私が受け取ったのを確認すると張っていた気を緩めたようだった。
「今いただいてもいいかしら」
「……好きにすればいい」
答えながらも、彼はぷいっと横を向いてしまった。私は了承を貰ったので、丁寧にラッピングをといていく。一口サク、と口にすると、ほろほろと舌の上で溶けていった。バターの風味が口の中に広がる。塩味と甘味がほどよい。
「おいしいわ」
「……!そ、そうか」
ちらちらとこちらを見ていた彼に感想を伝える。彼は顔をそらして気のない素振りをしながらも、両耳は注意深くこちらに向いていたし、答えを聞いた途端尻尾がぴんと垂直に立った。心なしか声も弾んでいる。
しばらく貰ったクッキーを味わっていたのだが、食べ終わる頃になっても彼は全く動く気配がなかった。私の傍らにじっと佇んで、こちらをずっと窺ったままだ。
(もしかして、まだ満足していないと思われているのかしら)
クッキーを触っていない方の手を頬に当てる。父に似て、よく表情が動かない、と評されるこの顔のことだ。今も私の表情筋は仕事をしていないに違いない。
「この前のことなら気にしなくていいのよ」
そう言った途端、彼の纏う雰囲気が一気に不機嫌そうなものになった。なぜだか分からないが、何か彼の気に障ったようだ。
彼は突然その場にすとんと腰を下ろした。そこは私の足下で、自然と以前と同じ状況になった。覇気なく伏せられた耳に視線がいく。だが、前回調子に乗って撫でて逃げられたために、自重しようと抑える。
「……今日は、撫でないのか?」
すると、ちら、と彼に上目遣いに見上げられた。これは、本人からお許しが出たということだろうか。前髪から覗く金色の光に、誘われるまま手を伸ばす。
今日は耳ではなく、直接頭に手を乗せた。前回はしっかりと触れられなかったが、彼の髪は見た目よりもふわ、と軽かった。髪に指を差し入れ、ぼさついた髪を梳いていく。時折指が触れると、耳がぴるるとばたつくのがくすぐったい。
彼はいつの間にか私が腰かける椅子部分の縁に背を預け、尻尾を体に巻きつけて寛いでいた。
ぐるる、ぐるると時折聞こえる喉の音に聞こえない振りをしながら、私はいつも以上に満ち足りた時間を過ごした。
そうして彼は一通り私に撫でられたあと、満足したのかまた駆け去って行ってしまった。
咄嗟に彼を呼び止めようとして、私はまだ彼の名前さえ聞いていないことに気付いたが、彼の姿はすでに学舎へと消えたあとだった。
「アウローラ様、毎日毎日、昼休憩の時間に一体どこに行ってらっしゃるのかしら?私にも教えていただけませんこと?」
午後の授業の教室に入ると、アメリアが待ち構えていた。目に鮮やかな赤い髪を完璧に結い上げて、きりとした琥珀色の瞳を一層吊り上げている。
彼女はよく私に声をかけてくる奇特なクラスメイトだ。侯爵令嬢ということもあって私と一番爵位が近いからなのか、こうしてよく彼女は話しかけてくる。
「どこに行こうと私の自由ですし、あなたに教える理由もありませんわ」
あの四阿は私がようやく見付けたこの学園の憩いの場所なので誰にも教えられない。まあ、あの獣人の彼には知られてしまったのだが。
私の返答を聞いて、アメリアはぐ、と言葉に詰まった。次の言葉を探そうとしているようだったが、申し訳ないが今はとても誰かと話す気分にはなれない。
「ごめんなさい、席に着くので失礼しますね」
小さく目礼をしながらひらりとスカートを翻して彼女の横を通り抜け、所定の席へと着いた。
ほどなくして、担当教師が入室してきた。彼の話に耳を傾けつつも、意識は先ほどの出来事に向く。
数日ぶりに会った彼のことを思い返すと、思わず溜息が漏れた。
(私としたことが迂闊だったわ。相手の名前を知らないなんて。……また、会えるかしら。次にまた会えたら、彼の名前を聞いてみましょう)
芽生えた小さな決意を胸に刻みつつ、教師の話に耳を傾けた。
「よっ、アウローラ。悪いがちょっと付き合ってくれないか」
「ウーゴ先生」
午後の授業が終わり教室を出たところ、口調の少々よろしくない教師に捕まった。彼はだらしなく伸ばした暗灰色の髪を後ろで雑にくくり、無精に髭を生やしている。
「どうかなさったんですか?」
「ちと、俺一人じゃ手に余る問題児がいてな。これから一緒に来てくれないか。なっ、いいだろ、俺とおまえの仲だし」
「誤解を招くような言い回しはやめてください。……従兄さん」
妙に愛嬌のある笑みを浮かべて勧めてくる彼を胡乱な目で見上げる。
私に大変馴れ馴れしいこの男───ウーゴ=グリージャは、実は私の従兄殿である。彼は私の母の兄の庶子にあたり、小さい頃からよく知る身内の一人なのだ。現在はこの学園で魔法学の教師をしている。
「素養はあるんだが、力の扱い方が下手な奴がいてな。多分おまえと魔力の相性がいいから、居てくれると助かる」
「……仕方ありませんね。良いですよ」
残念ながらこの後の予定に急ぎの用事は入っていない。断る理由もなかったので、了承した。
それにウーゴはその見た目に反して、魔法学については優秀な教師だ。その彼が必要だと判断したのなら、私は居た方がいいだろう。
「おまえならそう言ってくれると思ってたぜ!じゃ、付いて来てくれ」
ウーゴに連れて来られたのは、学園内にある施設のひとつである魔法訓練場だった。四方に設けられたゲートから出入りし、施設を半球状に覆うように魔法防御の結界が張られた、魔法行使時専用の訓練場である。
そのままウーゴの後について進んでいくと、誰かが立っているのが見えてきた。
「あらまあ……」
小さく開いた口を片手を当てて隠す。
相手もこちらを見て目を丸くしていた。開いた口から鋭い牙が見えてしまっている。ぴんと伸びた黒い丸みを帯びた耳としなやかに伸びた尻尾がそのまま固まってしまっていた。
「なっ、んでここにあんたが……」
「そりゃ、俺が呼んだからだな」
「ウーゴ!」
「おい、先生をつけろ。アウローラ、こいつは獣人科のネロ=レオパルド。豹人族の奇色で、俺の受け持つ授業の問題児だ」
「あなた、ネロというのね。改めまして、私はアウローラ=アルジェントと申します。どうぞよろしくお願いしますね」
彼───ネロに優雅に一礼する。ウーゴの雑な紹介で、彼の名前があっさりと分かってしまった。
そして同時に納得もした。獣人の生徒が彼の授業を受けるなら、魔法を扱える"奇色"と一部の特殊な獣人族しかいないだろう。しかし、奇色は魔法が使えるといっても身内に教えられる存在がいないことが多いために、魔力の扱いの心得がない者が多いと聞く。
ウーゴは私たちの様子を見て、おっと片眉を上げた。
「なんだ、おまえたち知り合いだったのか?」
「ええ、少し」
「なら尚更都合が良いな。アウローラ、悪いがこいつに魔法について教えてる間見ててくれ。ネロはアウローラがいるからって意識せずしっかり集中しろよ」
ネロがしぶしぶとしながらもウーゴの指導を受けているのを、少し離れたとこらから見守る。ウーゴからネロが問題児だと何度も聞くのだが、見ている限りは何ら問題があるようにみられない。
(一体彼のどこが問題児なのかしら。……あれはあれで仲が良さそうだし)
ぎゃいぎゃいと騒いでいる二人の様子は特段相性が悪いようには見えない。これは私の仕事はなさそう、と思っていたそのとき、突如魔力の流れに乱れが生じたのを感じた。次いで来た魔力の波を咄嗟に張った結界で防ぐ。
ネロの魔力が弾けて、白い閃光が空へと昇っている。パリン、と上で訓練場の魔法防御の膜が破れた音が聞こえてきた。
いつの間にか私の隣へ移動してきていたウーゴに非難の目を向ける。
「……ウーゴ」
「あー、悪い。言ってなかったが、あいつ前も暴走して抑えるの大変だったんだわ。止めるの手伝ってくれ」
「もう!そういうことは先に言っておいて!」
ウーゴの無責任さにはもっと言いたいことがあったが、今はそれどころではない。このまま魔力を暴走させたままでは彼も私たちも危ない。
いまだバチバチと魔力が弾けている彼の方へと、私は一歩足を踏み出した。