スミレ色の涙に口付けを
「…宮野さん、ですよね?」
映画のエンドロールを眺めながら感傷に浸っていた私、宮野 すみれにそう声をかけてきたのは、同じ会社の隣の部署で働く宇崎 紫温だった。
「…え?宇崎さん?」
「偶然ですね。僕もこの映画観てたんです。」
まさかこんな都心を外れたマイナーな映画館で知り合いに会うとは思っていなかった私は、いささか動揺していた。
彼とは仕事でもそこまでの接点はなかったのに、仕事のときとは雰囲気を変えている私に気付いたことにも驚きを隠せなかった。
「…よく、私に気付きましたね。」
「…まぁ、この映画観てる人少なかったので。」
私の意図したこととは少しズレていたが、彼はそう言って穏やかな笑顔をむけてきた。
不覚にもその整った笑顔に少しだけドキリと胸がなった。
会社の女性社員たちの間で、彼の噂がよく耳に入ってくる理由が少しわかった気がした。
「…あの、もしこの後、ご予定がないならお昼一緒にいかがですか?」
「…えっ?」
確かに時刻はちょうどお昼時だったが、まさかこのまま食事に誘われるとは思っておらず、私はつい心の声が漏れてしまった。
「…えっと、ここでやるような映画観てる人なかなかいないので…良かったら感想とか聞いてみたいなって思ったんですけど…」
彼は私の反応を見て気まずげにそう答えると、少し瞳を震わせながらこちらを見つめてきた。
その視線に何だか自分が悪いことをしてしまったような気持ちにさせられた私は、少し考える。
(…まぁ確かにこの映画を観る人は少ないだろうし、同じ趣味を持つ同志が知り合いにいたのが単純に嬉しかったのね。)
心の中でその結論に達すると、たまには誰かと感動を共有するのも悪くない気がしてきた私は口を開く。
「…そういうことなら、ご一緒します。」
「本当ですかっ?ありがとうございます。」
嬉しそうに答えた彼は、また先ほどの笑顔を見せてくれた。
また見惚れてしまいそうになった自分に気付いて、ふっと彼から目を逸らす。
(…きっとこんなことは一度きりだし、この格好なら遠目から見ても私だとはわからないわよね。)
社内でも人気の彼と、会社では地味に徹している私が休日に二人で食事なんかしているところが見られたら、月曜からの平穏な日々が奪われてしまう。
(…それは何としても避けたい。)
私は何よりも静かに穏やかに自分の時間を楽しむことを愛している。
だから、社内で注目されるなんてもってのほかなのである。
そのために仕事中は、色素の薄い瞳を隠すために野暮ったい伊達メガネをかけ、長いストレートの髪は飾り気のないゴムで一括りにし、全身モノトーンコーデに身を包んでいるのだ。
もちろんそこまでする必要があるほど美人だなんて自分で思っているわけではない。
しかし、今までの経験上ハーフの祖母をもつ私の容姿は少し目を引くようなのだ。
日本人の中では間違いなく色白な部類に入る上に、少し紫色がかった薄い色素の瞳は嫌でも目立ってしまう。
だから、念には念を入れてとにかく平日は地味な女性社員を装っている。
しかし、もちろん人並みにおしゃれにも興味はあるので、誰にも干渉される心配のない休日は自分の好きな格好をしているのだ。
(結構うまくやってるつもりだったんだけど、宇崎さんにはどうしてバレたのかしら?)
今まで休日に会社の人を見かけることもあったが、私だと気付かれたことは一度もなかったのに。
そんなことをぼんやりと考えていると、いつの間にか彼の目的の店にたどり着いたようだった。
そこは落ち着いた雰囲気の感じの良いカフェで、私の好みに合っていて自然と気分も上がった。彼は何度か来たことがあるのか慣れた様子で、奥の方のテーブル席に私を案内してくれた。
「近くにこんな素敵な店があるなんて知りませんでした。」
「気に入っていただけたなら良かったです。僕はあそこで映画を観た後はだいたいここに寄るんです。」
料理の味も保証しますよ、と和かに笑った彼にランチメニューを差し出される。
彼と同じく本日のパスタランチを注文すると、彼は早速といった様子で先ほどの映画の話題を口にした。
「今回のは原作もとても良かったですけど、映画はまた違う良さがありましたね。」
「そうですね。私も原作から入ったんですけど、ラストシーンがあんな風に表現されるんだって感動しました。」
「あっ、僕も同じこと考えてました!それからあのシーンも…」
あまり他人と時間を共有することは少ない私だったが、彼とは本当に趣味が合うようで気付けば夢中で映画や原作小説について語り合っていた。
熱中しすぎて、いつの間にか運ばれてきていたパスタがすっかり冷めてしまったことに気付くと、二人で顔を見合わせて自然と笑みをこぼしてしまった。
冷めきってしまったものの、彼の言う通り美味しいパスタを食べ終え、コーヒーを飲んでいると彼が口を開いた。
「宮野さん、今日はお付き合いいただいてありがとうございました。」
「いえいえ、こちらこそ気付いたら私ばかりお話してしまってすみませんでした。」
まさかこんなに楽しい時間を過ごせるとは思っていなかった私にとって、今回の彼との時間は予想に反して有意義なものとなった。
ここまで趣味が合う人と語り合える機会はそうそうないだろう。
(…今回きりにしてしまうのが、少し惜しいくらいね。)
そんなことを考えながらも、私は口を開く。
「じゃあ、そろそろ出ましょうか。」
「…あっはい。」
心なしか残念そうな様子の彼も少しは私との時間を惜しんでくれているかもしれない、なんて少し自惚れた感情が湧いてしまいそうになったのを抑えて、私は席を立った。
会計では、誘った自分が全額払うといって聞かない彼を何とか留めて、半ば強引に半分支払った。
店を出てもまだ不満そうな彼と映画館の最寄り駅まで歩いていく。
話の流れで私の自宅は彼とは逆方向だとわかって、心の中でほっと胸を撫で下ろした。
これ以上、彼と一緒にいては誰かに気付かれる可能性も高くなってしまう。
駅の改札に着くと逆方向の電車に乗る前に、念のため彼に言っておかなくてはと、私は慌てて口を開いた。
「あの…大丈夫だと思いますが、今日私と会ったことは誰にも口外しないでいただけると有難いんですが…」
「え?」
何故だかわかっていない様子の彼に、胸の中でため息をついてキッパリと説明する。
「宇崎さんのように女性の関心を引く方と私なんかが休日に食事していたなんて知られたら、職場で変な誤解を受けます。お互いのためにも黙っているのが賢明です。」
「…僕と誤解されるのは、やっぱり迷惑ですか?」
また的外れな答えを返した彼に、今度は本当にため息が溢れてしまった。
会社でここまで長く話したことはなかったので気が付かなかったが、彼は少し天然の部類に入るようだ。
「そういうことではなくて…私、注目されるのは苦手なんです。」
「ああ、そうでしたか。なら口外はしません。その代わりと言っては何ですが……またあの映画館でお見かけしたら今日みたいに食事に誘っても良いですか?」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかった私は、なんと返事をしたらいいのかわからなくなって口を閉ざした。
そうしている間に、彼が乗る方面の電車がホームに着いて扉を開く。
「…無言は肯定の返事と受け取りますね。じゃあ、また。」
彼は強引な解釈でそう言い残して、長い脚ですぐに電車へと乗り込んでしまった。
私は、閉まった電車の窓から和かな笑顔でこちらに手を振る彼をただただ見つめていることしか出来なかった。
(…天然なのか、強引なのか、よくわからない人だわ。)
今日一日で、宇崎 紫温という人物の印象が二転三転したものの、彼と過ごす時間は意外にも心地いいものであったと思い返す。
こんな偶然がまた起こるとは思えないが、もし起こったなら彼の誘いに乗ってみるのも悪くないかもしれない。
珍しくそんなことを思いながら、先ほどやってきた自宅に向かうための電車へと乗り込んだ。
―――――
ラストシーンでヒロインの切なげな表情がスクリーンいっぱいに広がると、自然と私の頬にスーッと一筋の涙が溢れた。
稀に映画や小説に入り込んでしまうと、普段は表情が乏しいであろう私でもこういうことがある。
いい映画だった、そんな余韻に浸りながらエンドロールを最後まで眺めていた。
場内が明るくなると、やっと我に帰った私は涙を拭って席を立ち上がる。
通路に向かおうとすると、前に背の高い影が立ちはだかっていた。
そこには、もう見慣れてしまった和やかな笑顔があった。
「こんにちは、今日もお会いしましたね。」
「…宇崎さん。」
「食事、行きませんか?」
もうすっかり定型文になってしまったやりとりに肯定の返事をする。
一度きりだろうと思われたこの彼との奇妙な同志の会は、もう今回で四度目になる。
毎回違う映画を観ているはずなのに、二回に一回は彼と遭遇するのだ。
確かに私も脚繁く通っているのは事実なのだが、本当に彼とは趣味が合うのだろう。
いつものカフェに着くと、いつものパスタランチを注文する。
「ラスト良かったですね。」
「はい。…ちょっと感情移入しすぎてしまいました。」
もしかしたら彼に泣いているところを見られてしまったかもしれない可能性に少し恥ずかしくなって、言い訳じみた言い方をした。
「…宮野さんは、すごく綺麗に涙を流されるんですね。」
そう言った彼の方が何倍も綺麗な笑顔で、それを直視してしまったことと、やはり泣き顔を見られてしまっていた羞恥心から、私は少し頬が赤らむのを感じた。
「…お見苦しいものをお見せしました。」
「いや、だから綺麗だったと言ったんですよ!」
必死に否定する彼が何だかおかしくて、恥ずかしさも忘れてクスッと笑ってしまった。
「…どうして通じないんですかね。」
「え?」
ボソッと呆れたような声が聞こえて疑問の声を返したが、何でもないですと突っ返されてしまった。
その様子が少し気になったが、その後はいつものように映画や小説のことを話したり、時にはお互いのことも話したりした。
コーヒーを飲みながら、すっかりこの居心地の良い関係に馴染んでしまっている自分に気付く。
誰かと一緒にいながら、こんなに穏やかな時間を過ごせるなんて思ってもみなかった。
彼はとても不思議な人だ。
少し垂れ目気味の整った端正な顔立ちは、とても穏やかな笑顔を作り出す。
彼の優しい性格が滲み出ているそれに、女性たちが虜になってしまうのも頷ける。
少し天然でズレているところも母性本能をくすぐるのだろう。
それでいて、少し強引な部分は男性であることを感じさせて、私はどこか落ち着かなくなってしまう。
それなのに、彼との時間は私にとってとても居心地がいいのだ。
最近では、あの映画館に行くとついつい彼の姿を探してしまうくらいに。
いつものように最寄り駅のホームでお互いの方面の電車を待つ。
今日は、私の方面の電車が先に着くと、彼に軽く挨拶をして扉へと向かう。
笑顔で手を振る彼に、閉じた扉の窓から軽く会釈を返して、そのまま彼を見つめる。
(…ああ、好きだなぁ。)
自分の心の中で漏れた言葉に、カチッとピースがはまったような感覚がした。
発車ベルが鳴ると、どんどん速度を上げる電車から見えなくなるまで彼の姿を眺めていた。
―――――
社内の食堂で持参したお弁当を食べ終えると、トートバッグから読みかけの小説を取り出す。
会社用の地味な装いをした私が、窓辺のカウンター席で本を読み始めようと誰も気にも留めない。
(まさかこの私が、宇崎さんに想いを寄せているなんてこの中の誰も想像してないでしょうね。)
自分だけの静かな時間をこよなく愛する私が好きになった相手が、まさかいつどこにいても注目をさらっていく彼だなんて誰が想像できるだろうか。
他の大多数の女性が騒ぐような彼の表面的な魅力に引かれた訳ではないけれど、何だか皮肉めいた感情を持ってしまう。
(…まぁ、彼女たちのように彼とどうこうなりたい訳じゃないもの。)
私は、ただ今のように、ときどき彼との穏やかな時間が過ごせればそれでいいのだ。
そう気持ちを切り替えて、続きを楽しみにしていた小説を広げたところで、甲高い女性社員の声が耳に入ってきてしまった。
「うそ〜っ!!宇崎さん同棲してるの!?」
「私だって信じたくないけど、今日同僚の人と話してるの聞こえちゃったんだもんっ!」
「えっ!いったいどんな子なの!?」
「ハナちゃん、とか言ってたかな?私は見えなかったけど、スマホの画像見せて、『毎日出迎えてくれるんだ。可愛いでしょ?』ってすごい惚気てたんだよ〜!」
「いやぁ〜っ!じゃあ、この前一緒に歩いてたってのもその子なのかな…。」
まだまだ続きそうな噂話をこれ以上耳に入れたくなくて、開いた小説を一行も読まないままにバタンと閉じると、咄嗟にそこから一番近いお手洗いへと逃げ込んだ。
「…ほらね、慣れないことするからこうなるのよ…。」
誰もいない鏡の前で、泣きそうになっている自分の顔を眺めながら言い聞かせるようにそう呟いた。
彼とどうこうなるつもりはないなんてどの口が言っていたのだろう。
あんなに外見も内面も魅力的な人に、相手がいないわけなんてないことくらいわかっていたはずじゃないか。
(…頭ではわかっていても、心がそれを受け入れられないってこういうことなのね。)
しっかりと傷付いた顔をした鏡の中の私に、今度は心の中で言い聞かせる。
(これ以上、深い傷になる前に彼と会うのはもう止めにしよう…。)
それから、私は週末にあの映画館に通うのを止めた。
―――――
しとしとと雨が降り注ぐ夕方に、傘も差さずに私は課長が社内便で提出し忘れた速達郵便を持って一番近い郵便局へと走っていた。
なんとか窓口に提出し終えると、ふーっと胸を撫で下ろす。
とにかく急いで会社を飛び出して来たので、傘を持ってくるのさえ忘れてしまったのだ。
そんな私を嘲笑うかのように、雨はどんどん強さを増していった。
とりあえず郵便局の隣のコンビニで雨宿りしていたものの、財布さえ持ってきていないため傘を買うことすらできない。
どうしたものかと外を眺めていると、私が今一番会いたくなかった人物と目があった。
(…っなんで、宇崎さんがいるの!?)
彼は慌てた様子でコンビニに入ってくると、私の方へと向かってくる。
あの噂を聞いて以来、初めて会う彼に緊張感を抱きながらも、こうなってしまった以上覚悟を決めるしかなかった。
「宮野さん!こんな雨の中、どうしてこんなところにいるんですか!?」
「…お疲れ様です。ちょっとお使いを頼まれたんですけど、傘を忘れてしまって。」
「すごく濡れてるじゃないですか!このままじゃ風邪を引いてしまいますよ!」
少し怒りながら私の姿を確認すると、ちょっと待っててくださいね、と言い残してコンビニの奥の方へと行ってしまった。
相変わらずそのまま優しい彼に、どこか安堵してしまう。
(避けていることはバレてないみたいね。)
最後に会った日から二週間は経っているが、私はあんなに足繁く通っていた映画館には一度も顔を出していない。
同じくらい通っていた彼はきっと今も、あそこで映画を見たあと、あのカフェに行っているのだろう。
そこに私がいないことを、少しは寂しく思ってくれているのだろうか。
そんな未練がましいことを考えてしまうあたり、私はまだ彼への気持ちを捨てきれていないことがわかってしまった。
何かを買ってきた様子の彼は、バタバタと急いでこちらに向かってきた。
袋から何かを取り出すと、そのまま封を開けてパサっと私の頭にそれをかけた。
「タオル買ってきたので、風邪を引く前に濡れたところをきちんと拭いてください。」
「あっ、ありがとうございます。」
彼の厚意に甘えて、濡れた髪や服をタオルで拭いた。
一通り拭き終わると、今度はずいっとホットのカフェオレを差し出された。
「これ飲んでしっかり温まったら、一緒に会社に戻りましょう。」
そう言って、彼はいつもの和やかな笑顔を見せた。
久しぶりにその笑顔を見ると、先ほどの一連の優しさも相まって、私はつい涙をこぼしてしまいそうになった。
この優しさが、私の首を絞めていることなんて彼は想像もしていないだろう。
潤んだ瞳に気付かれないようにタオルを被ると、震えを隠した小さな声でお礼を言ってカフェオレに口をつけた。
(…ああ、この気持ちはいつか消えて無くなってくれるのだろうか。)
到底そうなるとは思えないほど、膨れ上がった気持ちに必死に蓋をするように、カフェオレを飲み干した。
先ほどよりも幾分かは雨も和らいだのを見計らって、彼の大きい傘にお邪魔して、会社への道を歩く。
「いろいろありがとうございました。宇崎さんのおかげで本当に助かりました。」
「いえ、お役に立てて良かったです。」
「すみません、ちょっと今は手持ちがないので、後で代金お返しに伺います。」
「そんなこと気にしないでください。」
返金する、しない、の押し問答を繰り返していると、珍しく彼がため息をついた。
「…では、今度映画館でお会いした時に、コーヒーを買っていただくっていうのはどうですか?」
「…えっ?」
「…最近、宮野さんの姿をお見かけしないのを、僕は寂しく感じていたんですが……どうかされたんですか?」
気にしていないものだと思っていたのに、ふいに寂しげな表情で映画館に来ていないことを指摘されて、咄嗟に言い訳を考える。
「……最近、他の予定が入ることが増えて、なかなか自分の時間が取れなくて…。」
そう言うと、彼は少し険しい表情をした。
初めて見るその表情に、嘘がバレたかと少しドキリとする。
「…他の方とお会いしてるんですか?」
探りを入れるような聞き方に、なんと答えたらいいのかわからず、曖昧に返事をする。
「まぁ、そんなところです。…いつになるかわからないので、代金は後でお返しに伺います。」
そう返すと、彼は口を閉ざしてしまった。
いつもとは少し違う様子の彼に戸惑いながらも、沈黙のまま会社までの道のりを歩いていく。
エントランスに着いて傘を閉じて、二人で社員用のエレベーターに乗っても、彼はまだ何も言わなかった。
エレベーターが私たちの部署がある階に着くと、私は改めてお礼を言おうと口を開く。
「今日は本当にありがとうございました。…すぐに代金お持ちしますね。」
そう言って頭を上げると、彼は切なげにこちらを見つめていた。
「………やはり、映画館でコーヒーをいただけませんか?」
「え?」
「…いつになってもいいです。僕は毎週いますから…それ以外ならお返しは受け取れません。」
そう言うと、私の返事を待たないまま自分の部署へと戻っていってしまった。
反論を許されないままに取り残された私は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
―――――
あれから何度も悩んで考えた結果、次の週末に私は久しぶりにあの映画館に向かっていた。
あれだけお世話になったのに、代金も返済しないままなんて大人としてあり得ないと思ったのと、彼の切羽詰まったような様子がいつもと違うのも少し気になった、というのが主な理由。
入口からホールに入ると、私はぐるっと辺りを見回した。
(…来てないみたいね。)
彼と会うのは午前中の上映がほとんどだったことから、今日いるなら次に上映される回だと思ったのだ。
(…もう少し待ってみよう。)
彼の姿が見えないことに安堵するよりも、がっかりする気持ちの方が強い自分に気付いてしまった。
お金を返さなくちゃいけないなんて、実はただの自分に対する建前だとわかっていた。
本当は、もう一度だけ彼とのあの穏やかな時間を過ごしたかった。
彼の和やかな笑顔を、優しさを、独り占めできる時間が欲しかっただけ。
(…こんなんじゃあ、どうしようもないわね。)
少し自己嫌悪に染まり始めていた私だったけど、視界の端にこちらに気付いて走ってくる影を見つけて、そちらに目線を向けた。
「…宮野さんっ!」
私の目の前に来たのは、少し肩を揺らしながら荒い呼吸をしている彼その人だった。
会ったらなんて言おうかと考えていたのに、その様子がおかしくて、ついクスッと笑ってしまう。
「ふふっ、そんなに急いで、どうしたんですか?…まだ上映まで時間はありますよ。」
「だって、来てくださるとは思ってなかったからっ。」
また的外れな答えを返して来た彼は今まで通りで、気まずかったのが嘘のように思えてきてしまった。
「その様子だと、アイスの方が良さそうですね。」
「えっ?」
「…約束のコーヒー、買って来ますね。」
そう言って、私は一人でドリンクカウンターへと向かった。
(…ちょっと、考えすぎだったのかも。)
今回で最後にするのだから、いつものように彼との時間を楽しめばいいんだと開き直った私は、二人分のアイスコーヒーを持ってチケットを買った彼の元に歩いて行った。
「はい、どうぞ。」
「あっ、ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ先日は本当に助かりました。」
「いや、本当に大したことはしてないのに、無理言ってしまってすみませんでした。」
大の大人二人が頭を下げあっている様子が滑稽に思えてしまった私たちは、今度は二人揃って笑いをこぼしてしまった。
「あの…宮野さんが良かったらなんですが、今日は一緒に観ませんか?」
「え?」
「今までも同じ映画を観ていても、隣で観たことはなかったので…。」
彼の突然の提案に動揺したものの、ここで別々の席に座るのも何だかおかしい気がして、了承の返事をした。
二人で座席に座ると、思った以上に隣の席が近いことにドキリとした。
この映画館は自由席である上に、満席になるには程遠い人数の客入りしかないため、隣の座席との距離感を今まで知らなかった。
来る前とは違う意味で緊張してきた私に追い打ちをかけるように、彼がこちらに身体を寄せて話しかけてくる。
「この映画の原作は読まれたんですか?」
他の客の迷惑にならないようになのか、耳元で囁くように問いかけられて、頬が赤く染まっていくのを感じた。
(暗くて本当に良かった。)
「…いえ、予告編は観たことがあったんですけど。」
正直、今日は映画の内容よりも彼に会いそうな時間帯を選んできたため、今から観る映画の知識は、猫と少女の話、くらいの知識しかなかった。
「僕は読んだんですが、とても良かったですよ。」
「じゃあ、きっと私も楽しめますね。」
趣味が合う彼が良かったと言っているなら、きっと私も楽しめるだろうと、素直に思ったままを口に出した。
すると、彼は腕で顔を覆うと、ふっとあちらを向いてしまった。
突然気分でも悪くなったのだろうかと、少し心配になって覗き込んだが、大丈夫ですからと焦ったように言われただけだった。
「…宮野さんは、猫のようですね。」
腕を下ろしたと思ったら、彼は唐突によくわからないことを言い出した。
「…そうですかね?…だったら、宇崎さんは犬ですかね。」
猫か犬かで言ったら、彼は確実に犬になるだろうと思った。
飼い主に従順で、いつも傍にいて穏やかな気持ちにさせてくれそうだ。
それに比べたら、自分の時間が大切な私は猫になるのかもしれない。
「宮野さんにはそう見えますか?…僕は個人的には猫が好きなんですけどね…。」
少し照れたようにそう言った彼の意図がわからなくて、しばらく見つめていると開演のブザーがなった。
それに気付いて、会話をやめて二人ともスクリーンに向き直った。
少し切ない内容の映画だった。
女性へと成長していく少女に対して、だんだんと老いていく猫。
最後は、少女の帰りを待ちながら永い眠りについていった。
猫が好きだと言っていた彼は一体どんな表情で観ていたのだろう、と気になって隣を盗み見る。
スクリーンの光がぼんやりとあたって見えた彼の表情は何の色も映し出していないのに、とても綺麗だった。
(なんて綺麗な横顔なんだろう。)
その頰に堪らなく触れたくなった自分を理性で押し留める。
見られるのは最後になるその情景を自分の目に焼き付けるかのように、しばらく彼の横顔を見つめていた。
エンドロールが終わり場内が明るくなると、彼はハッとしてこちらを向いた。
「すみません、つい入り込んでしまって。」
「いえ、行きましょうか。」
見つめていることに気付かれていなかったことに少しホッとしつつ、席を立ち上がってホールへと歩いて行った。
「今日は、お食事いかがですか?」
「…えっと、」
いつもの決まり文句がきたら、断りの返事をして、しばらくはここに来れないことを伝えようと来る前に決意していた。
いつもの肯定の返事がくると信じて疑わない様子の彼の顔を覗き込んで、少し言い淀む。
「…お付き合いします。」
それなのに、その決意に反して彼ともっと一緒にいることを望んでしまった私の口は勝手に動いていた。
(…食事が終わったら、伝えよう。)
彼との決別を後回しにしたい、往生際の悪い自分にため息をつきたくなった。
いつものカフェへと向かいながら、着くまで待ちきれなかったのか、彼は今日の映画の話をもちかけてきた。
「…誰かを待つのって辛い場合もありますよね。」
「…いつ来るかわからない方を待つ場合は、そうかもしれませんね。」
少し含みを持たせた彼の言い方が気になったが、在り来たりな返答をした。
彼は誰かをそんなふうに待ったことがあるのだろうか。
(……むしろ、今こうしている間にも、あなたの愛しい人はあなたの帰りを待っているんじゃないの?)
よくよく考えれば、一緒に住んでいながら休日にこんなに頻繁に一人で出掛けているのは、どういうことなのだろうか。
しかも、彼に他意はないとしても、女性の私と二人で食事などして彼女はどう思っているのだろう。
何だか彼が恋人としては、ひどい人間な気がしてきて、半分八つ当たりで少し嫌味を言ってやろうと思った。
「…そういう宇崎さんも、お家で誰かを待たせてるんじゃないですか…?」
「…っえっ!?…僕、宮野さんにそのことお話ししましたっけ!?」
そんな焦った様子の彼を見て、私は優越感に浸る予定だった。
だけど、実際にはまったく別の感情が襲ってきた。
(…やっぱり、本当だったんだ…。)
それは、彼によってあの噂が真実だと肯定されてしまったことによる絶望感だった。
噂が嘘だったらいいのに、とどこかで諦めきれてなかった自分の浅ましさが露わになったことに耐えられなくて、私は口を閉ざして俯いた。
「っでも、あの子も僕が出掛けてる間は自由にやってるみたいなので、待たせてるとかではないんですよっ!」
表情を失くした私に気付かない彼は、まだ必死に言い訳を並べていた。
もうこれ以上、この場に居られないと思った私は、まだ続きそうな彼の言い訳を遮るように、来る前に考えていた断り文句を口にすることにした。
「あのっ、やっぱり今日は帰ります。」
「えっ!?急にどうしたんですかっ?僕のことなら気にしないでくださいっ!」
「いえ…時間指定の宅配が来るの、すっかり忘れてて。」
「あっ、そうだったんですか。じゃあ、次の…」
「次はもうないです。」
「え…?」
「これから、しばらく週末は予定が詰まってて…ここに寄れるような時間は作れそうにないんです。」
「…」
「…だから、宇崎さんには新しい話し相手を見つけてもらった方が早いと思います。」
「そんなっ!」
「…今まで、楽しかったです…。ありがとうございました。」
なるべく彼に口を挟ませないように早口で言い切ると、涙が出る前に反対側を向いて駅へと走り出す。
(…これで、本当に最後…。)
誰にも見つけてもらいたくなかったくせに、彼には私を見てもらいたかった。
自分が一番大切だった私の中に強引に入ってきたはずの彼が、いつの間にか私の全てになってしまった。
彼との時間は穏やかだったはずなのに、私の心はずっと彼に乱されたまま。
この気持ちがいつになったら、彼と会う前に戻るのかはわからないけれど、それまではこの初めての感情を少しずつ消化していこう。
帰りの電車に揺られながらみる景色は、いつもよりぼんやりと色褪せて見えた気がした。
―――――
(うーん、次はどんなのがいいかしら?)
会社帰りに、家から程近い大型書店の小説コーナーを物色する。
これが、最近の私の日課だった。
週末に映画館に行けない今、私の時間の大半は小説を読み漁ることに使われている。
一度、小説の世界に入ってしまえば、余計なことを考えなくて済むのも理由のひとつ。
そのおかげか平日でも二、三日に一冊以上は読みきってしまうため、自宅にある本だけでは供給が追いつかないのだ。
好きな作家の新作が出ていないか、チェックしながら、気になるものを手当たり次第に手に取っていく。
(あれ?…これ、帯が変わってる。)
すでに自宅にあるお気に入りの小説に、目新しい帯がついていることに気付いた。
よくよく見てみると、この小説を原作とした映画をリバイバル上映しているという内容だった。
(嘘っ!?どこでやるんだろっ!)
この映画は数年前に上映されていたのだけど、私がこの小説に出会ったのはそれよりも後で、とても好きな作品だったから、映画館で見たかったと悔しい思いをしながらレンタルDVDを借りにいった思い出がある。
そんな作品が、リバイバル上映されるだなんて見に行かない手はない。
上映される映画館を調べてみると、この地域ではあの映画館でしかやっていないことがわかってしまった。
彼とあの映画を観てから、もう三週間が経とうとしていたが、まだまだ気持ちの整理はついていない。
彼に会うくらいなら、諦めた方がいいかもしれない。
そう思いながらも、せっかくのチャンスを逃してしまうのも惜しくて、念のため上映時間も調べてみる。
(あっ、今週の金曜日のレイトショーでもやってる!)
平日のレイトショーならば、彼と鉢合わせすることもないはずだ。
今週の金曜日なら、特に大きな案件もなかったし、レイトショーが始まる時間帯なら仕事帰りでも十分に間に合う。
時間的に帰りは終電になることは間違いないが、金曜日なら多少遅くなってもいいだろう。
久しぶりにわくわくと心が浮つくのを感じて、そのままいくつかの小説を購入すると上機嫌で家路についた。
―――――
(ああ、こういう日に限って課長がやらかすのよね…。)
朝から浮かれ気分だった金曜日、仕事も順調に片付けていき、このまま予定通り定時で上がって夕飯も食べてから行けそうだ、と思ったところで課長がやらかしてくれた。
時計を確認すると、上映時間まであと四時間半ほどある。
何とか頑張れば、まだ間に合うかもしれない。
そう希望を持って、目の前のやるべきことに集中することにした。
「すまんねー宮野さん。助かったよー。」
いつものことながら課長の間の抜けた話し方にイラっとしたが、今はそんなことに構っている暇はない。
お疲れ様ですっと早々に挨拶を終えて、もうあまり人の残っていない社内を小走りで移動する。
(駅まで走れば、まだ間に合うはずっ!)
会社を出てからは久しぶりに全力疾走して、何とか間に合う時間の電車に飛び乗ることができた。
ふーっと息をついて、邪魔だっただて眼鏡をとって、すっかり乱れてしまっている髪もほどく。
映画館に着くと、最終の上映を残すのみとなったホールにはほとんど人がいなかった。
結局何も食べられなかった私は、すぐにお腹を満たせそうなホットドッグセットを頼んで、シアターに入った。
場内もいつもよりさらに人はまばらだった。
お気に入りの後方の真ん中あたりの座席にも人はおらず、席に着くと始まる前に食べてしまおうとホットドッグにかぶりついた。
ちょうどホットドッグを食べ終えると、間も無くブザーがなって、私は心が再び高揚していくのを感じていた。
DVDで見たはずだった映画は、劇場では全く違う趣があって、エンドロールが終わってもしばらくその場から動けなかった。
しかし、無情にも閉館のアナウンスが流れ始めると、しぶしぶ立ち上がることにした。
(やっぱり、観に来て正解だった。)
いろいろ悩んだものの観に来て良かったと、自分の選択を褒めたくなったその時、強い力で進行方向と逆に引っ張られた。
予想外のことに、何の抵抗も出来なかった私はその力のなされるがままに何かに軽くぶつかった。
一体何が起きたのかと私が顔を上げるのと、その力の主が声を上げたのは同時だった。
「…どうして、こんな遅い時間に一人で観に来きたりするんですかっ!?…何かあったらどうするんですか!」
そこには、怒りと共に憂いを帯びたような複雑な表情をした彼の姿があった。
どうして彼がいるのか、何故腹を立てているのか、わからないことが多すぎて、混乱と驚きのせいで私は言葉を失ってしまった。
何も言わない私の様子を見た彼は、先程より少し冷静になったのか、怒りの感情を消すと今度は沈んだ様子でポツリと呟いた。
「…すみません。僕がこんなことを言う資格はないのはわかってたんですけど、あの時間にご自宅と反対方向の電車に乗るあなたを見かけて、まさかと思って居ても立っても居られなくなって…。」
「えっ…?」
彼が何のことを言っているのか、まったく理解できなかった私は、思わず心の声を漏らしてしまった。
それを聞いた彼は苦し気な表情を浮かべると、気まずそうに口を開いた。
「…宮野さんは、ずっと僕の好意を迷惑に思われてたんですよね…?」
「…?」
「それなのに、僕はそれに気付かないまま、強引にあなたに付きまとうようなことをしてしまいました…。
だから、僕を避けるためにわざわざこんな時間の上映にいらしたんでしょう?」
(えっ、なに?…好意?…迷惑?)
説明を求めたはずなのに、さらに理解の範疇を超えた話の内容に頭がまったくついていかない。
「でも、僕が諦め切れないせいであなたをこんな時間に一人にするくらいなら、今日限りで潔く身を引きます…。
…なので、今ここで僕とのことハッキリさせてください!」
「えっと、」
まだ状況が理解できていない私の前で、彼はその場で深呼吸をすると、おもむろに口を開いた。
「宮野すみれさん、ずっとあなたが好きでした。」
その一言で、やっと今までの内容を理解できた私は、目の前が真っ暗になるのを感じて俯いた。
(……そういうことか。)
全ての辻褄が合うと、私の中からふつふつとある感情が湧き出て来た。
もうそれを抑えることが出来ず、一筋の涙が零れ落ちる。
「……宇崎さんは、私の気持ちを知っていて、そんなことをおっしゃるんですか?」
「え?」
涙を零しながら、ただ淡々と一切の表情を消して言葉を発すると、今度は彼が状況を飲み込めていないような声を上げた。
「…私があなたを好きだから、同棲するような本命がいるあなたとでも、二番目としてお付き合いすると思ったんですか…?」
「はっ!?」
「…っ、馬鹿にしないでっ!!誰かを不幸にするような恋愛なんて望みません!」
最後は怒りを抑え切れず、強い口調で言い切ると彼の腕を振りほどいて、脇目も振らず駅まで全力で走った。
(…あんな人だったなんて…!)
ただ彼との穏やかな時間が好きだったのに、あんな提案を持ちかけるような人だとは思わなかった。
走ったまま改札を通り、ホームに降りると、ちょうど私が乗る予定だった最終電車が着いたところだった。
もうなにも考える力が起きず、ぼんやりと扉が開くのを待つ。
「宮野さんっ!待ってください!」
そこへ焦ったような靴音が近づいてくると、また強い力で捕らえられてしまった。
「離してっ!もうお話することはありませんっ!」
「僕にはあります!先ほどおっしゃったことは本当ですか?」
「全てお話しした通りです!だから、離してっ!」
「…僕のことが好きだというのも?」
「っ!?」
「答えてください。」
もう終電の発車時刻が迫っているのを感じた私は、半ばヤケになって答える。
「そうですっ!でも、あなたとどうこうなるつもりはないです。だから、離して…。」
そう口にすると、突然力強く掴まれていた腕が離された。
それがわかって、半分閉まりかけている電車の扉へ向かおうとしする。
しかし、それは叶わなかった。
「それを聞いてしまったら、もうお帰しできません。」
私を背後から抱き締めた彼に、耳元でそう囁かれた時、発車ベルが鳴って最終電車は走り出した。
彼を拒絶していたはずなのに、ずっと触れたくてしかたなった体温に包まれると隠しようのない熱が全身に回るのを感じた私は、本当に頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
(…まだ、この人を好きだなんてどうかしてる…。)
しかし、一度触れてしまったら、もう彼への気持ちを抑えることなんて出来なくなってしまった。
抵抗をやめた私に気付くと、彼は何も言わないまま、また私の腕を掴み直す。
すると、私を連れて先ほど反対側に着いた電車へと歩みを進めた。
(どこへ行くつもりなのかしら…。)
お互い一言も発さないままに、彼に引かれるがまま数駅目で降りて改札を出る。
もう理性を捨てて、考えることを放棄した私はただただ彼に着いていくのみだった。
しかし、彼が駅から程近い高層マンションのエントランスへと入って行ったところで、嫌な予感がして我に帰る。
(えっ、まさかっ…。)
「う、宇崎さん、ここって…」
「僕の自宅ですが。」
「っ!?何考えてるですか!!」
「あなたに確認していただかないといけないことがありますので…。」
嫌な予感が当たって、口だけの抵抗をしたものの、彼の頑なな姿勢が崩れることはなかった。
気が付けば、もう部屋のドアの前まで来てしまっていた。
私の腕を掴んだまま、鍵を開ける彼から逃げることも出来ず、混乱は大きくなるばかり。
ガチャっと鍵が開き、彼がドアを引くと部屋の中から明かりがもれてくるのがわかった。
(…嘘でしょっ!?)
まだ修羅場を迎える覚悟を決め切れていなかった私は、ギュッと目をつぶったまま彼に引かれると玄関へと入ってしまった。
無情にもガチャンと閉まるドアの音がして、私は息を飲む。
「ただいま。」
彼が部屋の中に向かってそう告げると、私はいよいよ死刑宣告を待つ気分になって、さらに固く目をつぶった。
しかし、いつまで経っても部屋から女性の声は聞こえない。
代わりに、何かふわふわして温かいものが足元に触れるのを感じた。
ストッキング越しに触れるそれがくすぐったくなって、正体を確かめるために薄く目を開く。
「ね、猫っ?」
そこには、真っ白でふわふわの毛に包まれた綺麗な猫の姿があった。
「花っ、僕より先に宮野さんに挨拶するなんてあんまりじゃない?」
悪態をつきながらも可愛くて仕方ない様子で、彼はその猫を抱き上げる。
「え、ハナ、さん…って?」
記憶が正しければ、あの時、女性社員たちが彼の同棲相手だと噂をしていた名前と同じだ。
「はい。この子が、僕と唯一同居している花です。」
「え、じゃあ…」
「宮野さんが何を勘違いされたのかはわかりませんが、同棲はおろか、僕には元々恋人なんて存在しません。」
「っ!!」
自分がとんでもない勘違いをしていたことに気付くと、一気に力が抜けて、そのままへなりと玄関に座り込んでしまった。
(やだっ!私…勘違いした上に、怒りに任せて酷いこと言っちゃったわ…)
先ほどの失言がフラッシュバックしてきて、慌てて彼への謝罪を言葉を口にする。
「すみませんっ!私、勘違いをしていて、宇崎さんに大変失礼なことをっ…!」
「……はい。とても傷つきました…」
少し悲しそうな表情を浮かべた彼は、私と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
その拍子に彼の腕を抜け出た花は、突然の来訪者に興味を失ったかのように、どこかへと消えてしまった。
私の顔を覗き込む彼の次の言葉をじっと待つ。
「…だから、さっきの、やり直しをしませんか?」
今度はイタズラな笑みを浮かべてそう言うと、突然私の腰を軽々と抱き上げた。
脱げたパンプスが玄関に転がり落ちたが、彼はそんなことには御構い無しにリビングへと歩いていく。
「え、ちょっ、宇崎さんっ!」
いろいろと動揺することが多すぎて、私は軽くパニック状態になっていたが、彼は待つつもりはないようだ。
二人がけのソファに降ろされると、そのまま彼も隣に座る。
その近さはあの映画館の時の比ではなくて、また全身に熱がともるのを感じた。
至近距離で見つめ合いながら、彼が口を開いた。
「…僕は、ずっと前からあなたを見てました。
いつかの食堂の窓辺で、小説を読みながら涙を流す綺麗な横顔を見てから、あなたのことがずっと忘れられなかった…。」
「…えっ、会社の食堂ですか!?」
会社では、いつも空気に溶け込むように存在感を消している自分の姿を見ている人がいるなんて夢にも思っていなかった。
「…はい。僕だけの宝物を見つけたような気持ちでした。」
愛おしそうな表情で優しくそう言う彼にドキリとして、これ以上何も言えなくなってしまった。
「つい内容が気になって、あなたが読んでいた小説を読んでみたりしてるうちに、普通に面白くなってしまって、いつの間にか僕自身もあの類の小説を読むのが趣味になってました。それで、あの映画館の存在も知って、ちょくちょく観に行くようになったんです。」
趣味が合うとは思っていたが、初めのきっかけが自分だったなんて全く想像もしていなかった。
映画館で会うまで接点がないに等しいと思っていたのに、彼の口から語られる真実に驚くばかりだった。
「…そこで、また僕はあの綺麗な横顔と出会うんです。」
「…!」
「…会社でのあなたとは少し雰囲気が違ったので、初めは別人かとも思いました。
…でも、ずっと忘れられなかったあの横顔を見た瞬間に、あなただと確信しました。
そう思ったら、もう声をかけずにはいられなかったんです。」
彼はずっと私に気付いてくれていたんだ。
そう思ったら、心が何かに包まれたようにじんわりと温かくなる。
「僕はずっと前から、宮野さんが好きなんです。
あなたと過ごす時間が、僕には何よりも幸せな時間でした。
…だから、これからは恋人としてあなたの隣にいる権利が欲しい。」
彼の言葉を全て聞き終わる頃には、私の瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。
今まで抑え込むことしかしてあげられなかったこの恋心も、今、涙と同じように全てさらけ出してしまおう。
「ずっと、一人の時間が大切だったのに、あなたに会って、気がついたらあなたと過ごす穏やかな時間が何よりも一番になってました。」
「…」
「私も、もうどうしようもないくらいにあなたを好きになってしまいました。
…だから、これからずっと私の隣にいてください…。」
全ての想いを口に出して、彼の方を見つめると、あの綺麗な笑顔がすぐそばにあって鼓動が速くなる。
「…はい、喜んで。」
彼はそう呟くと、頬に流れる私の涙にそっと口付けを落とした。
「…あの時からずっと、こうやって綺麗なスミレ色の瞳からこぼれる涙に触れたいと思ってたんです。」
照れたようにそう言った彼は、私の涙が止まるまで頬に口付けの雨を降らせる。
その仕草は、とても優しくて、自分がまるで大切なものであるかのように錯覚してしまいそうになる。
今までの優しさとはまた違う、恋情を携えた優しさに胸がいっぱいになった。
まるで一つ一つの口付けで愛を囁かれているような感覚になって、幸せを噛み締めていると、また涙が溢れてきてしまう。
しかし、あまりにも続く行為に、だんだんと恥ずかしくなってきた私は耐えられずに顔を背けた。
「も、もう大丈夫ですっ…。」
「…まだ、僕の気が済むまではダメですよ。」
少しからかったような口調でそう言った彼に、顎を掴まれて強制的に顔を向き合わされる。
真正面から見る彼の笑顔が、鼻先に触れてしまいそうなくらいすぐそこにあって、先ほどの比ではないくらいに恥ずかしくなって、ついには頬が紅潮していくのがわかった。
「………というか、もう止められそうにないので覚悟してください…。」
「えっ?」
彼も私につられたのか少し頬を染めたあと、言った台詞の意味を理解したのは、先ほどの感触が唇に触れてからだった。
唇に触れるそれも、彼自身のように優しくて、その感覚にくらくらと目眩がする。
(…涙の味がする。)
何度も角度を変えながら繰り返される口付けには、涙の味が混ざっていた。
それなのに、こうも甘く感じてしまうのは、どうしてなのだろう。
いよいよ味覚までおかしくなってしまったのかもしれない。
(…私は、どれだけこの恋に侵されていくのだろう…)
それでも、この先彼との口付けで思い出すのは、
きっと、この涙の甘い味。
~スミレ色の涙に口付けを~
―END―