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教官

 「はっ、はっ、はっ」


 さめざめと雨が降っている。周囲には夜の帳が下り、グラウンドに一つだけ設置された街灯だけが唯一の明かりだった。


 西村利成は教官室の窓からその様子を眺めている。人影が一つ、もう三時間以上ひたすらにグラウンドを回っている。


「……」


 停職のせいで、カズキの警察学校再入校は三ヶ月遅れていた。重大な規律違反で本来ならば辞職も止むを得ないと言われたが、同情的な境遇とその功績により最悪は免れた。


 それが彼を一層孤独にさせた。


 カズキが復職した頃には彼の同期はもうすでに一線に巣立っていってしまったのだ。


「教官室の掃除に参りました!」


 見習生の大声。聞き慣れてはきたものの、やはり鬱陶しい。警察学校の伝統だから仕方がないのだが、日常的にこんなに声を張り上げさせて一体何の意味があるのだろう。


「ん」


 ひらひらと手を挙げる。見習生の緊張した面持ち。ここでは鬼教官で通っているから、それも無理からぬことだろう。


「下見」


「は、はい!」


 見習生を呼びつける。頼むから耳元では大きな声は出さないでくれ。

 グラウンドに目を移し、動く影を指差す。


「あいつの評判はどうだ」


「あれって、あ」


 下見がカズキを見つけて顔が強張る。


「あの、えと……。良い先輩です」


「いいからそういうの」


「! すみません!」


 西村は耳を塞ぐ。ああ、うるさい。


「……正直、怖いです。表面的にはすごい優しいんですけど、何考えてるか分からないというか、僕たちなんて見ていないっていうか」


「ふん」


 まあ、それもそうか。


 西村が初めてカズキと対面したときに思ったことは、こいつを警察から弾き出さなければならない、ということだ。やる気も見えない、体力もない、危機感がない。こんな奴が現場に出ても死ぬだけだ、と思ったからだ。


 それが、この再入校で人が変わった。


 毎日体を苛め抜き、倒れるまでトレーニング。後輩に術科の教えを請い、気絶するまで組手。気合い、というには程度が過ぎた。


 なにより、その心が見えない。


 宮石の死が、奴を変えたのだろう。


 経緯はおおよそ把握している。入校前からの親友を失い、同期の一人だった柊が警官として致命傷を負った。その心中は察するに余りある。


 だとしても、気に食わない。


「もういいぞ」


 下見を追い払い、再びグラウンドに目を戻す。次第に激しさを増す雨は、孤独な者を容赦無く叩きつける。


 西村には、カズキが罰を受けたがっているようにしか見えなかった。自らを罰し、過剰に傷付け、あまつさえ。


 警察官として到底見過ごせるものではなかった。


「西村教官! 掃除終わりました!」


 見習生たちの報告。いつの間にか作業が終わっていたらしい。時刻は午後十時を回っている。


「下見、森田呼んでこい」


「はい!」


 西村の命令で降りしきる雨の中、下見がカズキに駆け寄って行く。それから少しして、こちらに二つの影が近づいてくる。


 ノックの音。


「失礼します。西村教官何でしょうか?」


「取り敢えずこれで体拭け」


 酷い顔だった。顔色は蒼白、目は落ちくぼんで、殆ど寝ていないのが丸分かりだった。

 タオルを投げやる。ひどく濡れていた。教官室の床もびしょびしょに濡れている。


 掃除が台無しだ。


「下見は戻っていいぞ」


「はい! 失礼しました!」


 やっと解放された下見があからさまにホッとした顔をして出ていった。理不尽な教官に気味の悪い先輩。一緒に居てあまり気持ちの良い人材ではない。


 何と切り出せば良いのか少し迷う。


 白熱灯がジリジリと音を立てている。


 ようやく立ち上がり、西村はポッドから熱いコーヒーを注ぐ。安いインスタントコーヒー。それをそのままカズキに手渡す。


「飲め」


「あ、どうも。ありがとうございます」


 おどおどしていた少年は見る影もなくなり、うわべに笑顔を貼り付けた男がそこに座っていた。これは成長か、退廃か。


「森田、お前、警察辞めろ」


 西村の一言にカズキが一瞬止まる。無機質な冷たい目だった。


「問題発言ですよ。今はそういうのパワハラって言うんです」


「知るか。言っただろ、警察に向かない奴をざるにかけるのが俺の役割だと」


 はあ、とため息を吐いている。


「僕は今銀英警察署所属ですから、あなたに人事権はないですよ」


「停職処分を受けたなら、素直に辞職しろ。そんな常識もない奴だから、俺が引導を渡す羽目になるんだ」


「どうやらその常識が無いせいで停職になったので。まあでもそんな程度の常識だったら、僕は持ち合わせなくても良いと思いますね」


 キッパリとした物言い。冷徹な眼差し。西村の知っているカズキと同一人物だとは思えない。


 ズズ、とコーヒーを飲み干す。


「ご馳走様でした。それでは失礼します」


  張り付いた笑顔。


 下見の言う通りだ。こちらを見ていない。うわべだけの表情。うわべだけの会話。果たして今の暴言がどれだけ奴の心に影響を与えただろう。西村の言葉など、本当は聞こえてもいないかもしれない。


  決して心は見せない。


「お前、死ぬ気だろ」


 カズキの動きが止まる。ようやく人間らしい反応。


 どうして、と心の声が聞こえてくるようだった。

 カズキがどれだけ心を隠すことに努めようとも、全てが見えない訳ではない。その行動が、隠そうとする態度が全てを物語るのだ。


「自暴自棄になっているな。自分の命などどうでもいいという考えなら、今すぐ辞めろ。そんな人間が仲間を危機に陥れると何故分からん」


 それに、と言葉を切る。


「何よりお前自身のために辞めろ。死のうとするんじゃない。それは宮石もーー」


「分かりませんよ、公平の心なんて。俺はあいつの最後の言葉すら聞けなかったんだ。死んだ人間の言葉を代弁するなんて、無理なんですよ」


「…………」


 勿論、死んだ者の心を度るなど不可能だ。それでも想像できるはずだ。少しの間しか接していない西村ですら、宮石が復讐しようとするカズキを止めるだろうことは容易に想像できる。


 親友ならば尚更。


 お前の行動が宮石を貶めていることに何故気付かん。


 今のカズキはまるっきり考えることを拒否している。


 現実を受け止められていない。


 口では死人の心など分からないなどとのたまっているが、心ではまだ宮石の死を認めていない。認めまいとして思考を放棄しているのだ。


「すみません、もう就寝時間なので」


 それでもカズキは全てを拒否する。厳重な鍵をかけ、幾重にも仮面を被り。


 ぴしゃりと戸を閉め、カズキは去っていった。何もかもを拒絶する背中だった。


「俺じゃあ、駄目か……」


 背もたれに身を投げ、天を仰ぐ。意固地になっている者に、頭ごなしでは効果はない。結果は分かっていた。しかし西村にはそれしかできないのだ。上から叱ってやるのが大人の務めだし、それが教官たる者の勤めだ。


 親身になれるのは、同じ境遇の者だけだ。


 心を溶かすには、それしかない。


 あいつらなら、あるいは。


「頼んだぞ」


 小さく、独りごちる。


 未だ雨は止まない。

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