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別離

 おかしい!

 おかしい!

 おかしい!


 イブに頭を下げ吹き飛ばされたんだぞ!


 どうして、どうして生きていられる!


 身体が動かない。脚がアスファルトにへばりついて離れない。頭だけが冴えて、視界がスローモーションのように再生される。逃げなければ、と身体に命令するのに、スローの世界ではうまく動かない。


 目の前では、イブと女の戦いが繰り広げられている。


 右ストレート、回し蹴り、左フック、足払い、右アッパー。その全てが空振りだった。今まで相手にして来た者たちとのサイズの違いもそうだが、そのスピードも規格外だった。通常の人間ではあり得ないような速度。まるで、イブのような。


「森田くん!」


 交番長の叫びで我に帰る。彼は異次元の戦いの渦中に、決死の覚悟で飛び出して来たのだ。


「走れ!」


 張り詰めた怒号。聞き慣れた命令。学校での訓練を身体は覚えていた。走れと言われれば肺が張り裂けるまで走る。これは十ヶ月間刷り込まれた暗示みたいなものだった。


 死に物狂いで走る。数十メートルがはるか遠くに思える。


 そこには、バリケードを集中させ、パトカーを盾にして警官たちが身を伏せていた。カズキと交番長はそこに飛び込む。


「っ! はぁ、はぁ、はぁ!」


 喘ぐように酸素を貪る。


「早く、早く応援を!! このままでは、我々は……!」


「盾を集めろ! バリケード固めろ!」


「死にたくない……死にたくない……」


 阿鼻叫喚の地獄だった。


 イブが苦戦しているのは一目瞭然。このまま消耗し続ければ運動性能の劣化は免れない。強化外骨格のバッテリーはせいぜい十分がいいところだ。


 そうなれば、次は自分たちの番だ。戦力の彼我の差は明白だ。配備されているリボルバーなど豆鉄砲と変わりない。


「救急はまだ来ねぇのか!?」


「無理です! 消防がこんなところに近づけるはずありません!」


「くそっ! 柊っ! 頑張れ!」


 柊?


 柊がどうかしたのか?


 ふらふらと、声がする方へと近づいていく。精神が摩耗していた。極度の緊張に極限の恐怖。脳が考えるのを放棄し始めている。


 だから、目の前の現実が受け入れられなかった。


「森田くん、公平くんが、公平くんが!」


 柊の苦痛に満ちた叫び。警官に抱えられ、青い顔をしている。


 血まみれの体。鼻をつく鉄の匂い。数人の警察官が倒れていた。いずれも鮮血に塗れて、元の青い色が跡形もなかった。


 柊に違和感があった。


 あるべき場所に何かが足りない気がした。


「柊、右足が……」


 嘘だ。


 柊の右足が、膝から下がすっかり無くなっていた。そこから大量の血が流れ出ている。その苦痛と失血で失われそうな意識の中、彼女が伝えたこと。


 見たくなかった。


 彼女が自分の怪我をおして、自分に伝えることなんて、想像もしたくなかった。


「森田くん!」


 柊の叫び。カズキはゆっくりと振り返る。


 傍らには鮮血に塗れた公平が、白くなった顔で横たわっていた。


 腹に穴が空いていた。


 警官が必死に傷口に手を当てている。それでも溢れ出るそれを止めることはできなかった。


 愕然とした。


 言葉が出てこなかった。


 どこかで、自分たちは特別なのだと思っていた。死なんて、どこか遠くの世界の出来事だと思っていた。

 当たり前の日々が、当たり前に続いていくと信じてやまなかった。


 だのに。


 死神は唐突にやってくる。何食わぬ顔で近づいて、突然耳元で囁くのだ。


『お前は、ここまで』と。


 嘘だ。


「私のせいで、わたしを庇ったせいで、公平くんが!」


 悲痛な叫び。


 やめろ、やめてくれ! それじゃあまるで、公平が、死んでしまったようじゃないか!


「パトカーに乗せて病院に向かえ! 俺たちは、せめてでもあいつの注意が車に向かわないようにするんだ!」


 病院、そうだ。医者に診てもらわないと。公平を助けてもらわないと。


「待って下さい、こいつも乗せて下さい!」


「森田……お前……」


 どうして、そんな憐れむような目をしている? それより手伝ってくれ。早く公平を車に乗せないと。


 カズキは必死に公平を起こす。土気色の肌。体温が低い。呼吸が、ない。


 嘘だ。


 公平の肩を支える。早く、早く車に乗せないと。重い体を持ち上げる。


 嫌な音がした。


 千切れる音。肉が地面に落ちる音。


 嘘だ。


「嘘だ」


 肩に担いだ上半身と、寂しげに取り残された下半身。


 公平の体は二つに引き裂かれた。腹に大穴を開けられ、殆ど皮一枚で繋がっていた状態だったのだ。


 即死だった。


 後ろにいた柊が足一本の損失で済んだのは僥倖だった。そのくらい、酷かった。


「ーーーーっ!!」


 声にならない。


 絶望、喪失感、虚無感、虚脱感、敵意、憎しみ、痛み、悲しみ、怒り。


 その全てがないまぜになって、黒い塊が心を押しつぶした。


 低い唸りが喉の奥からこぼれ出る。体の震えが止まらない。食いしばった力が強すぎて奥歯が欠け、血が流れる。正常な思考ができなかった。


 滂沱の涙で前が見えなかった。


 殺す。


 公平を殺した奴を殺す。


 そいつが公平に与えた苦痛の何百倍もの痛みを与え、殺す。


 そいつが公平にしたように、身体をバラバラに解体して絶望の中、殺す。


 そいつが公平の夢を奪ったように、そいつが持つ希望を悉く壊して、殺す。


 殺す。


「おい、森田! どこへ行くつもりだっ!」


 警官の制止する叫びがこだまする。しかし今のカズキにはそんな言葉などは聞こえていなかった。公平を殺した奴をなぶり殺しにすることしか頭になかった。


 誰がやった?


 決まってる。


 あの女しか居ない。


 カズキは、たった今まで恐怖していたはずの女に対して、どうやって苦痛を与えるか、そのことばかり考えていた。


 その女の存在にイブが苦戦していることなど、まるで些細なことだった。


 だから、目の前で搭乗者の居なくなったイブが立ち尽くしていることに、なんの違和感も覚えなかった。むしろ、天の思し召しのように思えた。


 これで、奴を殺す。

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