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おやじのバラード

作者: 加来次郎吉

世界中の父親に送る応援歌。

 午前7時の時報が鳴った。


 いつものように名古屋あたりのコーヒーフレッシュメーカーがラジオを通して、お知らせしてくれたのだ。

 自社製品の名を連呼しながらではあるが、一時間ごとに時刻を知らせてくれる律儀さには頭が下がる。


 恒夫は、お気に入りの大阪の局の番組を聴くためカーラジオのつまみを調整した。

 が、すぐに聴けなくなる。

 ここ亀岡は京都市街から山一つ超えただけの場所だが、もう丹波地方だ。

 四方を山に囲まれた土地柄だけに、

 ただでさえ受信状態が悪いうえにNHKと地元局の電波が意固地なまでに頑強なので、いつも参っている。

 ほんの少し走ると、もう愛車のラジオはお気に入り局の電波を午後5時丁度の役場の窓口職員の様に受け付けてくれない。

 周波数の近い京都市内の地元局の電波の圧に負けて日和ってしまうからだ。

 よって絶妙のチューニングが必要になる。

 今も恒夫はハンドル片手に、それを行っていた。

 朝一番で畑に出た恒夫は朝摘みを終え、

丹波から山陰にかけてのメインストリートたる国道9号線の裏道にあたる広い道幅の割に通行車の極端に少ない田舎のオッサンのアウトバーンと異名をとる府道25号線を、家路へとカッ飛んでいた。

 雑なクラッチ操作でギヤチェンジする度、泥だらけのゴム長でアクセルを不倶戴天の敵のように踏み込んだ。

 とにかくギヤを上げたらタコメーターの針がブンっと上まで振れるまで踏み込まないと気がすまない。

 エンジン性能をフルに使い切っていない気がして損した気分になるからだ。

 とは言っても恒夫が駆っているのは、もう七八年は乗っている軽トラなのでエンジン性能もクソもない。

走っているのがやっとの代物で、

青色吐息のエンジン音を山並に響かせるも、音に比例するほどの速度は得られず、年老いたスピッツの如く走っていた。


 やっとチューニングにあたりが付いて、大阪の局の番組が聞けるようになった。

 恒夫はある意味器用と言えよう。

 無駄に慌ただしく、(せわ)しい運転を行いながら、この金庫破りのような絶妙のつまみ調整が行えるのであるから。

 今日もビシッと決まった。

 もう十年近く聴き続けている関西の人気アナウンサー司会の長寿番組だ。

 周りの者は大抵、抗う事もせず素直に京都局の放送を聴いていたが、恒夫はこっちを聴いている。

 結局、同じ京都府といっても市内の人間は丹波の事など歯牙にもかけない。

 天気予報の際に京都府中部は…などとお愛想程度に触れるくらいでしかないのだから聴いてやる義理もないと、

 わざわざ某国スパイの様に細々とした電波に耳を凝らし拝聴していた。

 

「OBSシャイニン・モーニンッ。さて本日の一曲目。この方は…枚方市のラジオネーム、男は船で女は紙コップさんから頂きました。田中アナウンサー、ミキちゃん、おはようございます。あ、おはようございます。毎日、出勤の車の中で楽しく聴かせていただいています。あ、ありがとうございます。聞いてください。ずっと入社から一緒だった同期のN君が、この秋から東京本社に転勤になったんです。同期の誼か性別を超えて友達のように接してきた私達でしたが、いざ会えなくなるってなって気付いたんです。彼への想いに。もうどうしようもなくなっちゃって…。でも告白なんて出来ません。だって彼にとって私は只の同僚なのですから。結局、何も出来ぬ内に彼は東京へ旅立ちました。今になって、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔の日々です。そんな後悔や過去を捨て去って、強く生きようとリクエストします。…という事で本日の一曲目は枚方市の男は船で女は紙コップさんからのリクエストで、ちあきなおみ『喝采』」

「なんで喝采やねん…」

 恒夫は呪いの言葉のように呟いた。

 愚にもつかぬ話はもとより、この紙コップなる女性のエピソードに対する選曲のセンス。

 朝一番という時間帯に対する情緒や風情の無さなど訴えたい部分は多々あった。

 が、イントロが始まり出すと抗う事も忘れ、ちあきなおみをバックに従えてデュエットしてしまっていた。

 この唄、嫌いではない。

 

「お母さん、私、朝いらないわ」

 髪型をキメるのに思いのほか時間がかかったスーツ姿の慧子が台所の美佐江に言った。

「なんで、もうすぐ出来るのに」

 CMに出てきそうな立派なアイランド型のシステムキッチンの三門あるIHコンロの一つでハムエッグが完成間近である。

 食べて行きなさい。と美佐枝が言うより前に白木のダイニングテーブルで朝食を掻き込んでいた学生服姿の美子が空かさず

「じゃあアタシが二つ食べるわ」と提案をしてきたので、

「アンタは食べ過ぎ」と美佐枝は、色気と食い気のバランスがまだ不安定な次女にピシャリと却下しなければならなくなった。

 ここは女の園である。恒夫にとっては神聖にして不可侵な場所であった。

 先祖伝来の百姓屋の純和風建築を無理矢理、『台所は女の城』とばかりに、

 往時は囲炉裏なんぞもあったこの部屋も最新鋭システムキッチンのリビングダイニングに魔改造を施した。

 また、プロパンガスへの否定的思想から総IH化などは、とうの昔に為されている。


 そんな場所で、恒夫の意向など全く無視する形の計画は実行の日を迎えていた。

「お母さん、今日の7時だからね。帰ってきたら、ちゃんと言っといてよ」

「ハイハイ。分かってるわよ」

 美佐江の返事に不安を感じた慧子は念を押して言った。「ちゃんとした格好させてよ。こないだみたいなカッコは駄目よ」

「あのビロンビロンに伸びたセーターでしょ?」ハムエッグを食パン二枚で挟み込んだものを口いっぱいに含みながら、美子が口を挟んだ。

 美子の言葉に慧子と美佐枝も、このあいだと称した前回の初顔合わせ時の恒夫の服装を明確に思い出した。

「そう」と唾棄する様に慧子が言い、

「あれは最悪だった」と美子が総評を述べた。

 姉妹の評価は至極まっとうだったので、

「ちゃんとスーツ着させるわよ」と美佐江も請け負ったのだが、

 すぐに慧子に「喪服みたいなのは駄目よ」と指摘された。「ほら、みんなで父の日に買ったヤツ。アレを上に羽織って…」

 若者に人気のセレクトショップで娘二人が見繕って買った日本在住イタリア人モデルが着そうなネイビーのジャケットの事だ。

「アレがいいわ。アレにグレーのパンツでも合わせて着させてよ」

「でもアレちょっとお父さんには若すぎない?」

 結婚以来、恒夫には黒や茶色の服しか買い与えていなかった美佐江には件のジャケットに、

 どうも違和感があったので具申したのだが、

 慧子には「そんな事ないわよ。あれ位でちょうどいいのよ。チョイ悪で。今日はスーツにネクタイじゃ重いから。兎に角、お父さんに任せちゃ駄目よ。あの人、本当にファッションセンスの欠片もないから」と結果として夫婦共々、却下され、

 美子にも「ねえ。顔もイマイチだし、足も短いし、お母さん一体どこが良くて結婚したのか理解に苦しむわ、私」と被されたので、

「昔はアレでも格好良かったのよ。お尻もプリッと上がってて」と美佐枝は今はそれ程ではないが、

 嘗ては愛した男のあまりの言われ様に思わずフォローしてしまった。

「えーッ! あのケツがぁ?」

「コラッ、ケツってアンタ。そういう言葉使いをッ」

 すぐに言葉が荒くなる次女に、美佐枝は注意喚起を促したが、

 タイミングがいいのか、悪いのか、表に軽トラのエンジン音が聞こえてきて、

「あっ、帰ってきたんじゃない」と魔改造の結果、広くとった窓の外を見やった美子に上手く体を躱され、

 二の句継ぐ機会を逸してしまった。

 要領ばかり上手くなる。

 学校の成績も同じく上昇曲線を描いてくれればいいものを、

 と大して興味も無かろうにほとぼり冷めるまで外の恒夫に視線をやり続ける次女に、美佐枝は遅刻回避を促した。

 

 大きな百姓屋である。

 母屋の横には別棟の納屋まであり、乗用車とトラクターが並べて十分に入った。

 その前はスロープだ。母屋と道路との境の垣根までなだらかに下る。

 

 納屋の前で恒夫が軽トラの尻を半分突っ込ませて収穫カゴの積み下ろし作業をしていると慧子が鞄を掲げ、出てきた。

 違いは良く分からないが、前に持っていた(ヤツ)とは違うように見える。

 また新しいのを買ったのか、などと思っていると

「お父さん、覚えてる? 今晩7時だからね。忘れないでよ」と今晩の不本意な会合の念を押し、踵を鳴らし駆けてゆく。

 駅までの距離と時間に追われているのは、毎朝の事なのだが、いつもより高いヒールが目に付き、

「駅まで送ってやろうか」と供進したが、

 この長女には無下なく断られてしまった。

 すると次女が出てきて

「お父さん、覚えてる? 今晩7時だからね。忘れないでよ」

 真似しやがる。

「やかましい」とは言っておいたが、これ位でめげるタマではなく

「じゃあね。いってきまーすッ」と自転車を立ち漕ぎして登校してゆく。

 短く仕立てたスカートからは下着が見えそうで親としては頭が痛い。

 中学時代はあの下にジャージを着込んでいたのだが高校に入った途端、穿かなくなった。

 色気づきやがって…と毒づかざるを得ない。

 万事、女どもに振り回されている。

 男の子が一人でもいれば良かったのだが、そうはならなかった。

 詮無い思いに駆られるしかない。


 ここ亀岡も山を一つ越えなければならないが、

 距離的には近いため京都市街への通勤通学圏内とされ衛星都市の末席に加えられていたので、

 ご他聞に漏れず高度経済成長時より旺盛な土建業者達によって山河を破壊する宅地開発の憂き目にあった。

 今はもう懐かしCMでしか、その業者の名を見る事はないが、

 山林田畑を切り開いて出来た宅地は残り、住民は老いた。

 そして居住権を奪われた野生動物達は餌を求め失地回復に励んだ。


 人間の業が産みだした惨禍だ。

 

 が、そうも言っていられない。

 収穫を前にした山あいの畑は多数の獣の足跡に犯された。

 しかも一畑や二畑だけに留まらない。もういくつもの畑がやられた。荒らされ放題。そう言うしかない。

 

 よって恒夫ら猟友会メンバーにも招集が掛かった。役場から害獣駆除の要請が下ったのだ。

 すでに登山口には、猟友会のメンバー達が集結し、若い役場職員の説明を聞いていた。   

 猪達は山から下りてきては畑を荒らし、また山へ戻るという反復行動を繰り返しているとの事。

 被害も日々、甚大になり、

 よって役場としても看過できず対外的にも示威を示さねばならぬ為、

 今回の招集が下った旨の説明が終わりをむかえた頃合で、恒夫の軽トラがやっと到着した。

「おい、遅せ―な」

 恒夫とは学生時代からの付き合いの正田が立ち小便を咎めるように言った。

「悪ィ、悪ィ。朝から畑出てたからよォ」

 散弾銃片手に軽トラから降りた恒夫に正田が言う。

「猪だってよ」

「また、いつものヤツかな」

「さあ、でも寺坂さんトコの畑も随分やられたみたい」

「山ん中、エサが無くなってんのかねェ」

「どっちにしろ、俺らは要請受けたら駆除しなきゃ、しょーがねえよ」

 散弾を用意した恒夫は、これから起こる殺生に思いを馳せた。

 戦争映画の狙撃手やチャールズ・ブロンソン演ずる殺し屋の様な世界をイメージして、

 親の代から猟友会メンバーの同級生の正田の誘いに乗り、入会したが、

 内実は山の中をオッサン連中に引き回されているだけである。

 もういい加減辞めたいのだが、かと言って他にする事も無し、中古とはいえ散弾銃まで買っているし、扱う資格も取った。

 となると、もう辞めるに辞められず今に至っている。

 結局、今日も流れのままに山の中に分け入ることになった。


 山道を猟友会の皆と進んだ。

 ずっと地べたに目を凝らしながら。

 糞や足跡など痕跡を探さねば獲物を仕留めようもないからなのだが、

 これだけでも肩が凝る重労働だ。ただでさえ気が重いのに。

 恒夫は、ふうーと息を一つついた。

 するとどうだろう二つ、三つと溜息が止まらなくなった。

 見かねて正田が聞いてきた。「どうしたツネ。マリッジブルーか?」

「何?」

「慧子ちゃんが、()っちゃうつうんで、しょぼくれてんだろ。そういうのをマリッジブルーっつうんだ」

 覚えたての言葉を使っている。

 きっと駅前のスナックに入った新しい娘と喋っていた話をうろ覚えで言っているのだろう。

 相手するかどうか逡巡したが、使い方を間違っていると、マリッジブルーとは結婚する当人が罹患するものだ、と指摘しておいた。

「恒夫さんトコのお姉ちゃん、片付くの?」

 話を聞いていた長内が口を突っ込んできたので、正田が応じた。

「そう。上の方」

「おめでとうございます」と長内は笑顔で恒夫に社会人として礼節ある言葉を口にしてくれたのだが、

恒夫は「めでたかねえよ」と返してしまった。

 まだ24歳だ。早すぎる旨を訴え出たが、

「俺が嫁貰ったのは22の時だったから、特別早くもないですよ」と言われてしまった。

そうだ長内は中学の頃からのやんちゃが過ぎて、若くして結婚し、若くして父になり、若くして離婚し、若くして再婚し、計二名との間に計四名の子を有する男であった。

 全く…田舎者はくっつくのが早い。野良犬じゃねえんだから…。

 この昔取った杵柄か、言葉の前後に慇懃無礼が垣間見える大柄な後輩に、もう立派な大人なので暴力に訴えられる事はないだろうが、多少おっかないので取り敢えず心うちで罵っておいた。

 娘はお前とは違うのだ、と。

 箱入りとまでは言わないまでも私立の四年制大学を卒業させているのだ、と。

 しかし心中を察されたのか「お年頃ですよ」と一言で論破されてしまった。

 抗いたい。恒夫の切なる想いだ。

 

「今日も何か、あるんだろ?」

 正田が言ってきた。「お前は学生の時から、大事な何かがあると溜息ばっかついてた」と。

 見透かされている。

 付き合いの長さは伊達ではない。

 胸襟を開きやすい様に、きっちり胸元ギリギリを付いてきた。

 北別府学ばりの絶妙のインコースへの配球だ。決して東尾修では無かった。

(北別府は広島カープの元エース。針の穴を通すとも称されるコントロールが持ち味の名球会投手。東尾も名球会投手だが、こちらは死球配給数歴代一位でも知られている)


 彼とは高校時代に野球部で二遊間を組んだ仲だ。恒夫がセカンドで、正田がショートストップ。

「丹波高校史上最強二遊間でしたっけ?」

 長内が茶化してきた。いつもの飲み屋での正田の放言を口にしただけなのだが、

 もちろん最強に対する根拠はなく、他人に言われると馬鹿にされた気になる。

 丹波最強とは言っても三回戦負けのチームだった。

 正田は常日頃から、

「あそこで平安と当たってなきゃ、甲子園も狙えた」と全国屈指の強豪校相手に接戦を演じた末に敗れたかの如く語っていたが、

 実は五回コールド負けの惨敗だった事を長内は知る由もない。

 その平安高校も準々決勝で、

 この年の府代表校である京都商業の小柄なサウスポーエース相手にきりきり舞いに遭わされる憂き目に会っており、

 その甲子園への距離と実力は窺いしれよう。

 

「今日の猪、お前が仕留めて娘たちにいい格好しろ」正田が言ってきた。

 彼なりの心遣いだ。

 が、息子しかいない彼は女という生き物がそんな単純ではないという事が分からない。

「お父さん、格好いい」となり得ようか?

 与えるのはハンドバッグではなく、猪だ。誰が喜ぼうか。

 ヴィトンではなく、マトンでもない。ボタンだ。牡丹肉だ。

 娘たちの前に差し出した時の顔を想像することすら憚られた。

 その旨、吐露したら、正田に

「山ン中で愚痴んなよ」と人差し指を口の前に置き、シッとやられた。

 そうだ山の中で女性の話をするのは禁忌であったと思い出した。

 ひろくマタギの世界では山の神は女性とされていた。

 なので山中で女性の話をすると、山の神が嫉妬をこじらせて山の幸を供してくれなくなる。とされていたのだ。


 恒夫はマタギには程遠い存在ではあったが

『郷に入っては郷に従え』で、この法を遵守する立場に勝手に身を置いていた。

 こういう迷信は信じておいた方がいい。

「どうして山に登るのだ?」と問われて

「そこに山があるからだ」と答えた事で有名なミスターエベレストことジョージ・マロニーは世界最高峰に何度も挑んだ挙句、 

 最後は山に命を奪われた。

 近年、彼の亡骸は頂上直下で発見されたのだが、

 この事実からしても彼が頂上を征服直前だったのか、それとも意気揚々、征服した帰り道だったのかは、ついぞ結論が出せない。  

 一方、山岳史的に最高峰初登頂に成功したとされるエドムンド・ヒラリーとシェルパのテムジンは征服後、

 無事生きて帰って来た。

 これはヒラリー達が山の神に愛でられたのではなく、マロニーが山の神の逆鱗に触れたのだ、と考える事も出来る。

 神は処女を奪った男を許せなかったのだ、と。

 ヒラリーは二人目の男だったから、処女特有の嫌忌に触れなかったのだ、と。

 こう考えると山の神の女としての意地や矜持が垣間見えよう。

 以上、飲み屋の戯言だが、古今東西問わず山の神には抗うな。という事で意見の一致は見られそうである。

 しかし、これに関しては神業界関係なく、女性一般に当てはまる事だとも言えよう。

 恒夫は、ここでも抗えなくなった。

 

ホォーッ! ホォーッ!

 遠くで仲間たちが猪を追い立てる声が聞こえる。

 恒夫は川岸の少し開けたところで一人、コーヒー当番をしていた。

大抵、猟に出ると恒夫が担当している。

これは恒夫の淹れるインスタントコーヒーがすこぶる好評だからで、恒夫本人も違いのわかる男を自認していた。

 決してインスタントなんて誰が淹れても同じだ、とは言わない。

 言わぬが花である。

 アウトドアメーカーのロゴのついた鍋の湯がグツグツ煮えてきた。

 始めは周囲に小さな泡が、やがて鍋全体に大きな泡が広がった。

 そういえば、子供たちが小さかった時は、こうやって皆でキャンプに行ったもんだ。

 夏休みに、春休み、秋にも行った。この鍋もその頃に買った物だ。

 いつかの夏休みに信州の霧ヶ峰に行った時なんて、真夏だと山を舐めてかかり、

 みんな薄着で行ってしまって高原の夜の冷え込みに家族四人で震えながら抱き合って寝たりもした…

 なんて事を思い出していると、泡の中に幼き日の娘たちの顔が浮かんできた。

 

 横たわる巨大な猪。傍らにはライフル肩に担いだ自分がいる。

 怖がる姉妹二人を手招きして呼び寄せると、娘達が小さな手足を振って駆け寄ってきた。

 幼い慧子が恒夫を見上げて言う。

「この猪、お父さんが仕留めたの?」

「まあな」

 今度は幼い美子が抱きついてきた。「お父さんッ、すごいッ!」

 美子の頭を撫でてやると、慧子も抱きついてきた。

「やっぱり男だね。頼もしいッ」

「私、お父さんと結婚するッ」と美子が言うと、慧子まで「私もお父さんみたいな人がよかった」なんて言い出した。

 困った娘たちだ。

「ちょっと、ちょっと。お父さんは私のモノなんだからッ」と頬を膨らませて若き日の美佐江が割って入ってきた。

 これは参った。女三人で恒夫の取り合いになってしまった。

 満更でもない。思わずデレデレしてしまう。でも宥めてやらなければ、

「おいおい引っ張るなよ。お父さんはみんなのモノだよ」

 言っても聞かない。

 これも女の業か…。

 気付くと、鍋の湯は煮えたぎっていた。

「おっとっとっと」

 火を緩めると、幻想も消えてなくなった。

 ここはオッサンしか居ない山の中だ。それを正田の声が否応なしに思い出させてくれた。

「ツネッ! そっち行ったぞ! 沢ン方だ! 追えッ!」

「お、おう!」

 正田の声に応じ、猟銃を持って恒夫は駆け出した。

 沢の方だ。

 息が切れた。構わず走った。

 ガサガサ… 藪の中に動くものがいる。

 恒夫は片膝をついた。

 銃を構える。肩に銃床を合わせ照準器を覗き込んだ。

 ドクン…ドクン… 鼓動が聞こえる。

 ガサガサ… そしてヤツは姿を現した。

 ドクン…ドクン… ヤツと対峙する。

 ドドドド… 鼓動が早まる。

 ドドドドド… 息が出来ない。

 ドドドドドド… 戦慄はしる眼光。

 指はカチコチに固まり動こうとしない。

 全神経を指先に集める。

 肉体全ての力を使って、引き金を引いた。

 そして山中に銃声は木霊した。


 役場裏のガレージの青いビニールシートの上、もう骸になったヤツは横たわっていた。

 意外と大物だ。

 メジャーで体長を測る役場職員も舌を巻いた。役場的にも良い示威行為になった。

 山からの一報を聞いてすぐ段取りよく地元新聞の記者も呼び寄せてあったので、

 市民や農協の声も小さくできるだろうと思わず、ほくそ笑んだ。

 計測を見守る猟友会メンバーも会の存続の為、是が非でも欲しかった猟果だったので皆、気分が悪い筈もない。

 ひょっとしたら新メンバーの応募があるかもしれない、などと夢が広がった。

 何度も何度も角度を変えシャッターを押す記者のその双肩に皆の過度に過度を重ねた期待と、

 野望めいた希望と、

 山間部集落住民の安心と、

 役場内での出世が掛けられていた。

 もちろん彼はそんな田舎者たちの内心事など露とも知る由も無く、自身の職責を全うする為、取材に挑んだ。


「コイツ撃ったのは、どなたです?」

 皆の目線が恒夫に集まる。

 記者が恒夫に地元新聞社の名刺を差し出した。

「いや〜お手柄でしたね。お話聞かせて貰えますか?」

「ああ… し、新聞載るの?」

 思わず聞いた恒夫に

「ええ」思わぬ栄誉の授与に、然も当然と記者は請け合った。

「おい。有名人だな。え?」

「勘弁してくれよ」

 正田には茶化されたが悪い気はしない。

「猪と対峙なさった時はどんな気分でした?」

 熱心な記者だ。いい気になって答えた。

「狩猟本能が昂ぶったね」

「なるほど。怖くなかったですか?」

「いや…そういう感覚じゃないね。獣と人間、いや、男と男の果し合いって言うかね…」

 ヤツが牡か牝かなど考えもしなかった。

「で、発砲なさった?」

 身振り手振り付きで答える。「そう。ギリギリまで引きつけてズドンッ」

 記者は聞き上手だった。目を輝かせて「ほう」なんて感心してくれるので、恒夫も盛った。

「いや〜手応えあったね」と。

 もう仲間達は「なに言ってやがる」と呆れ顔だったが、構いはしない。

 記者にポーズを依頼され、猪を前に銃を構え写真に収まった。

 これも何度も角度を変えて撮られたが、シャッターを切られる度、気分が高揚してゆくのが自分でも分かった。

 モデルの仕事ってのも悪くはないもんだ。

 恒夫なりに娘達が敬愛する何人(なにじん)か知らないがミランダ・カーなる人物の事を理解し容認出来そうな気がした。


 西に傾いた太陽が丹波の山並みの稜線をくっきり浮かび上がらせている。

 オレンジと影のコントラストだ。

 収穫までもう数週間の薄黄金色の稲穂がふぅーっと山合いを抜けてきた風に揺られ、さざ波立てた。

 そんな風景の中をスピッツが走り抜ける。

 ビッグニュースが出来た。意気揚々だ。

 俄然、踏み込むアクセルの量は二割増になり、

 いつも以上の雑なクラッチ操作で恒夫の軽トラは夕日を背に受け、駆け抜け家路へ急いだ。


 家に着いた。

 純和風の玄関引戸を引き開ける。くっ…重い。

 そう言えば昨日、美佐枝に油を点しといてくれと依頼されていたっけ。

 まあいい、そんな事ぁ。ヒーロー様のご帰還なのだから、そんな細々とした事ぁ後回しでいい。

 久しく発していなかった言葉を吐く。

「おい。帰ったぞ」

 玄関中によく響いた。祖父の代に建てた家だ。

 梁もがっしりしている。そこいらの建売とは重厚さが違う。総檜だ。

 恒夫が幼い頃、この家が建って十年ばかしはこの玄関戸を開けて入っただけで檜の匂いがプンッと鼻を撫でたものだ。

 この玄関間ひとつで立派な工芸品と言っていい。

 だからよく響いた。

 美佐江がお迎えに出てきてくれた。肩に担いでいたライフルケースを「おいっ」と渡そ…

「もうッ。お父さんドコ行ってたのッ」

 予想していた言葉と違う。

「携帯置きっ放しにしてッ」

 叱責に近い。

「ドコってお前、聞いてくれよ。オレ役場でよ…」

「話は後でいいから早く着替えて下さい。七時に予約してるんだから」

「だから役場で…」

「早く、早くッ」

 恒夫は岡っ引きに引っ立てられた丁稚奉公人のように、

 戸籍上の配偶者とされる生物に家中奥に引きずり込まれた。

もちろん抗えなかったし、畳の上に体の形に合わせて並べてあったネイビージャケット。

白いシャツ。

グレーのズボン。

可愛らしいチェックのソックスといったファッションコーディネイトも受け入れざるを得なかった。

 女たちの好みに着替えさせられた恒夫は指示通り無精ひげを剃らされ、

 髪を七三に撫で付けることを強要され、

 真新しい箱から出てきた初めて見る靴を履かされ、

美佐江、学校から帰ってきた美子と共に田んぼ道を、

数年前に電化したついでに木造平屋から鉄筋コンクリートに建て替えて綺麗になったはいいが、風情を無くし、その割には田舎臭さを捨てられなかった亀岡駅へ向かった。


 初めて履いた靴だが、流石は30年近く恒夫の衣食住全てを担っている美佐江だ。

 寸法に狂いは無い。危惧に反して意外と恒夫の足にもフィットしていた。

 美子によるとローファーなる種類の靴で、この秋のトレンドだそうだ。

 そんな事は()の業界の連中は始終言っている気もするが、聞き流しておいた。

 それに恒夫は聞いた事が無かったが、それなりのブランドの物で合成皮革ではない。と強く念を押すので、

 値段もそれなりにするのであろう。

 そう考えると女連中の心遣いを有り難く頂戴する気分になったからだ。

 ただ出資金の出処に関しては精神衛生上、不透明にしておいた。

 

 亀岡駅からJR山陰線に乗った一行は京都市街中心部の烏丸通りのオフィス街へ向かった。

 JRで京都駅まで行き、そこで地下鉄に乗り換え四条烏丸まで行くとばかり思っていたのだが、

 途中のJR二条駅で降り、地下鉄東西線で烏丸御池駅という経路をとった。

 こっちの方が10分ばかし早いのだそうだ。

 知らぬ間に新しい線が出来ている。

 東西線? いつ出来たのだ?

 美子に聞くと慧子は、もう大学時代からこの経路を使い京都市内に通っているそうで、

「定期代払ってたのはアンタでしょうが」と言われてしまった。

 何も知らなんだ。


 そう言えば最近、亀岡を縁取る外輪山の外側に出ていない。

 家と畑の往復。

 山での猟。

 駅前のスナック。

 美佐江の付き添いで行く買い物も国道沿いに出来たショッピングモールで済ませていた。

 完全に丹波のオッサンだ。

 田舎のオッサンだ。田舎のオッサンの生活習慣だ。

 まだまだ若い気でいたが、もうサイクルがそうなってしまっている。

 だから久々に訪ねた烏丸通りは恒夫の思い描いていた風景とは、かなりかけ離れていた。

 

 地下駅から地上に上がると、まずビルの数が増えた。

 昔からオフィス街ではあったがショーウインドウのガラスの枚数は段違いに増えている。

 国内だけに限らず各国の大手資本が軒を連ねる町並みを恒夫は思わずキョロキョロ見回してしまった。

「お父さん、こっち」

 美子に迷い子の様に呼ばれた。ついこの間までは俺が呼んでいたのに…

 女たちに付いて烏丸通りを下り、細い路地に折れた。町並みは一変する。

 美子曰く、表通りは巨大資本の店。裏通りはこだわりの店。という棲み分けが為されているのだそうだ。

今、恒夫たちが歩いている、その昔新選組が隊服を仕立てて代金を踏み倒した事でも有名な呉服商あがりの百貨店の裏側の地域などはその最たる例で、まだ表通りでは店を構えられない若い才能達が自身の腕を競い独自の営業活動を行っている大変面白い場所との事。

 随分変わったものだ。昔はこの辺りも年代物の商家や民家が立ち並んでいたのに今やレストランまみれだ。

 きっとこの辺りで働くオフィスレディー達がランチに、夜のアバンテュールに、

 と利用するのであろうと恒夫もオッサンなりに想像できた。

 

 恒夫たちが目指す店もそんな一角にあった。

 『Le coin Discret』

 ル コワン ディスクレと読むらしい。隠れ家やアジトという意味があるそうな。

 看板の掛かるビルの前に会社帰りの慧子が周囲に完全に溶け込み待っていた。

 どう見ても亀岡市在住女性には見えない。

 市内のデザイナーズマンション住まいのキャリアウーマンと何ら遜色も無く、この辺りに巣食う人種然としていた。

 慧子に(いざな)われ、小振りな雑居ビルの細く急な階段を登る。

 店は三階だ。

 上がって思った。確かに隠れ家だ、と。

 店内に入ると思ったより広かった。四人掛けのテーブルが六脚。客の入りも悪くないようだ。

 恒夫たちの為に取られていた一番奥の特等席以外は全てカップルで埋まっていた。

 デートには最適という事なのだろう。

 恒夫には、ただの素人普請に見えたが、この客達には田舎家風の造りのおしゃれな店という評価を得ているようである。

 

 緒方慶彦が近づいてきた。

 『ブルターニュ産オマール海老をエギュイットにし、オシュトラキャビアを乗せ、シトロネェルのクレームと共に』と共に。

 恒夫一家が陣取るテーブルの上の食べ終わった『ヴァンデ産フォアグラ、ブランチャで焼き、フランス産ブールサレでソテーしたアンポ柿を添えて』の皿を片付けながら言う。

「どうですか? お味の方は」

 どうもクソもない。

 が、大人なので黙っておいた。

 美佐江が応対してくれた。

「緒方さん。ありがとうございます。本日はお招きいただきまして…」

「いえ。一度、僕の料理を食べていただきたいと思っておりましたので」

「フランス料理なんて、なかなか食べれないもので、ウフ」

 なんて妻は愛想笑いを浮かべた。

「美子ちゃんはどう?」

 ちゃん付け? 馴れ馴れしい。

 が、まだまだ色気より食い気が勝っているこの次女の事だ。

この店に来るのも二度目と聞く。食物でもうすでに篭絡されてしまっているのであろう。苛立たしさより嘆かわしさが先に来た。

「お父さんは、いかがですか?」

 お父さん? 貴様にお父さんと呼ばれる所以はないッ! 

 ピシャッと言ってやろうかと思ったが、グッと堪え、ズバッと一発カマしてやった。

「和えてだ、添えてだって、もう少し分かりやすい題名に出来んのか? 八宝菜とか、煮っころがしみたいに」

 女たちの冷ややかな視線を感じた。

「分かり易く説明してるつもりなんですが…。これがヌーベルキュイジーヌってヤツでして…」


 ぬーべるきゅいじーぬ?


 また新たな言葉が出てきた。

 もうこうなると暗号だ。

 読み解いてみる。

 若い時から映画を沢山、見ておいて良かった。

 確かヌーベルバーグが新しい波という意味だったはず。という事はヌーベルは『新しい』か『波』かのどちらかであろう。

 英語だとニューウェイヴが新しい波という意味になる…。

 と思いを巡らし、ハっとした。

 ニューがヌーベルっ! 『新しい』の方だ。

 解読した自分に快哉の声を上げたくなった。

 自分自身を誉めてやりたくなった。今世紀中、いや来世紀に至っても誰も誉めてくれなさそうなので、自分で誉めることにしたのだ。

 恒夫、よくやった。

 キュイジーヌの方は謎のままであったが、それを指摘ずるのは野暮だ。

 

「新しい料理って意味です」

 慶彦が言った。

 とっとと言った。いけしゃあしゃあと。

 まずヨシヒコという名前が気に入らない。女たらしの名前だ。

 そんな名前のプロ野球選手もいたな。盗塁王まで取った俊足好打の選手だったが足より手の方が速かった印象しかない。

 きっとアイツの事だ、盗塁数より泣かした女の数の方が多かったろう。

 そんな男の毒牙に娘がかけられるのを黙って見過ごす恒夫ではないわッ。などと考えていると慶彦が夢を語っていた。

 若くしてフランスに渡り、二つ星レストランで修行した事。

 帰国して有名ホテルの厨房で働き、お金を貯めた事。ようやく独立し、小さいながらもこの店を開き、一国一城の主になった事。

 そして今後は、この店を大きくして表通りに店を構え、ミシュランの星付きレストランにする旨を雄弁に振るう。

 女たちは皆、うっとり聞き惚れてしまっている。

 分が悪い。

「お父さん分かってる? 慶彦、夢に向かって頑張ってんの。ミシュランだよ。ミシュラン。素敵でしょ」

 慧子が熱っぽく言ってくる。

 平素、朝が苦手なのを低血圧の所為にしている娘からは考えられない熱量で恒夫に同意を求めてきた。

ミシュラン? たかがタイヤメーカーだろうが。と言うと、

「そうですお父さん。良くご存知ですね」と慶彦が請け合ってきた。

 そもそもはミシュラン社が自社のタイヤを売り込むために郊外へのドライブを促す目的で発行した旅行ガイドが元で、

 意外とレストランガイドのミシュランとタイヤメーカーのミシュランが同一である事を知らない者が多いと彼は嘆き、

 それを知る恒夫は自分の仕事も理解しようとして下さっている。と勝手に喜び、

 挙句には「僕達うまくやっていけそうですね」と宣うに至った。

 知ったこっちゃない。

 コック共が星一つの上げ下げに命を懸けていようが、フランス本国では有名シェフが星一つ下げたのを苦に自殺しようが。

 で、どうしろと言うんだ? 

 大体、お前のトコのタイヤは星三つ取れているのか? 

 と、もう慶彦はそっちのけでミシュラン社の社長を問い詰めてやりたくなった。が、此処に社長(ヤツ)は居ない。

 居るのは慶彦だ。

「お父さんとは気が合いそうです」と寄ってきた。

 同意しかねる。

 しかし、もっと同意しかねる事を慧子が言ってきた。

「ねえ、みんな聞いて。私、来月で会社辞めて、ここで慶彦と一緒に働こうと思うの」

 美佐江を見やると彼女も知らなかったようだ。

「ちょっと会社辞めるって母さん聞いてないわよ」と言うと

「うん。だけど、もう決めたから。簿記の資格もあるし経理やなんかでも戦力になれると思うんだ。私も慶彦の為になんかしてあげたいのよ」と述べなくてもいい決意を述べた。

 暗澹たる気分だ。

 すると美子が姉の言葉に感心して言う。

「愛の力だ。お父さん良かったね。経営学部に四年間通わせた甲斐があったってもんだ」

 男の世話させる為に通わせたのではない。その旨、伝えようとしたら、テーブルの下で美佐枝に足を蹴られた。

「緒方さんはいいんですか?」

 美佐枝が問う。

「ええ。慧子さんの言う通り戦力になってくれると思います。猫の手も借りたい程、忙しいですし」

 ふたりの間では織り込み済みの様だ。

「じゃあ決まりだ。お姉、よかったね」

 殊勝に照れて下を向く姉と、それを見て優しく肩に手を置く慶彦に美子が熨斗(のし)袋を被せにかかった。

「結婚もするんだし、家内制手工業で頑張ってください」

 慶彦は照れくさそうに白い歯を見せ微笑んだ。


 抗わねば…


 しかし和気藹々の雰囲気になっている。一人、疎外感を感じた。

 あとはよく覚えていない。慶彦の奢りだというブルゴーニュ産ワインだけは、きっちり飲み干してやった。

 覚えているのはこれだけだ。

 あのワイン、うんと高ければいいのだが…。

 そう、店の経営を圧迫するくらいに…。

 


 やっと不本意な会合から開放され、

 恒夫は美佐枝と新しく出来た北欧産の雑貨屋を見て回りたいという美子に付き添い河原町通に向かった。

 次女の最新のトレンドを押さえておこうという姿勢は微笑ましい。

 まだコイツは当分の間、大丈夫だろうと勝手に太鼓判を押す。

 恐らくこの後、何に使うのか分からない雑貨を二、三買わされるのだろうが、今日だけは黙って買ってやろうと思った。

懐柔しておく必要性を今日は身を持って感じたからだ。


 昼間は観光客でごった返す錦市場、新京極とアーケードを抜ける。

午後も9時近くになるとシャッターも降り人通りが無くなって、ひっそりしている。

時折、遠くでバカ大学生が騒ぐ声が聞こえるだけだ。

アイツ等だって、いつかは嫁を貰って…と人の人生に思いを馳せる事は無かった。


 道中が反省会の様相を呈し出したからだ。

「ちょっと失礼だったわよ。慶彦さんに」

 美子が言ってきたので、思わず言い返す。

「お前どっちの味方なんだよ。アイツの肩ばっか持ちやがって」

「子供みたいな事言わないでよね」

「なんだよ」口を尖らしてしまった。

「フレンチシェフだって」

 ムッとする。

「聞いてる? フレンチシェフよ。フレンチシェフ」

「なんだ? ソ連の書記長か」

「なにそれ?」

 出色のギャグだと思ったが、まるでウケなかった。

 美佐江が指摘する。美子が生まれる前にソ連なる国家は消滅していたと。

 だからフルシチョフもブレジネフも知らないのだ。

 彼女にとってソ連は江戸幕府や、ひょっとすると神聖ローマ帝国ぐらい遠い存在なのだ。ソ連なんて知らねえよ、と。

 ソビエト社会主義共和国連邦などとフルネームで諳んじられる恒夫とは文字通り隔世の感がある。

きっとグレートブリテン及び北部アイルランド連合王国とイギリスの正式な名称やスリランカやブルネイの首都を諳んじれる事を披露しても羨望を得る事は無いだろうし、やめておいた。

「でも、完璧よね。非の打ち所がないって感じ。顔も悪くないし、背も高いし、二十九歳にしてレストランのオーナーシェフ。おフランス帰り。もう言う事無し」

 美子があの男を絶賛する。

 何が、おフランスだ。

「お姉も、いい()見つけたわよね」

 フンッ。

「もう無駄な抵抗はやめなさいよ。相手はフランス語だって喋れるんだから。ボンジュールって」

「ボンジュールじゃねえよ。フランスが何だっていうんだ。フランス料理なら父ちゃんだって毎朝、クロワッサン食べてんじゃねえか」

「クロワッサン!? よく言うわよ。毎朝、納豆無いと機嫌が悪いくせに」

 もう看過できん。父の威厳の為に戦った。

 キャッキャッ言いながら逃げる娘を追いかけた。

 速い。追い付けない。息が切れた。

 娘は全く余力を残している。

 ソフトボール部で鍛えた脚力を十分に発揮し、恒夫の追走を許さなかった。

 が、恒夫は諦めずに追い縋った。もうこうなると全世界の父親代表だ。

是が非でもこの娘に家長制度のなんたるか、を。万物創造の祖から脈々と続く流れの自身の一歩前の存在への、すなわち父母への敬意を教え込まねばならない。という国際父親協会(IFA)から勝手に託された使命感に燃えた。

 娘を遮二無二追いかける。

 今さっき創設したIFAからの脱退などは考えもしなかった。

 が、思いに反し足がもつれる。

 寄る年波にも抗えないのか…

 シャッター通りを右に左に逃げる美子が急にスピードを緩めた。

 恒夫にはそう見えた。

 取り敢えず、とっ捕まえて「この野郎」とやっておいた。

 娘は舌をペロッと出し全く反省していない。が今日のところはこれ位にしておいてやった。

 敢えて言わなかったが減速して恒夫の溜飲を下げさせた事に父親への恭順の姿勢と威厳への配慮を見てとったからである。

 肩で息しながら美佐江を見やる。

 美佐枝は菩薩の様に微笑んでいた。

 ひょっとすると美佐枝から美子に何らかのサインが出ていたのかもしれない。

 穿ち過ぎかもしれないが、無きにしも非ずなので、しょうがなく妻に向けてホンの少しだけ口角を上げて視線を向けておいた。

 目的地であった猛獣の名を冠する強そうな屋号(とは言ってもこの名を冠する野球チームは歴史が長いだけで日本一になったのは一回きりなので、南海時代からのホークスファンの恒夫から見れば弱小チームなのだが)の雑貨屋で、

 この母子に入口で手渡されたカゴに一杯の正体不明の雑貨を福沢諭吉が膝下しか残らぬ位、買わされる羽目になったが致し方ない。

 捨て置いた。



 11時過ぎに家に帰るとぐったりした。

 よく考えると今日は四時起きだった。

 朝から畑へ出て、正田に呼ばれて猟へ行き、夜はアレだ。

 休みなしだ。そりゃあ疲れる。

 だから追い焚きして、いつもより熱く沸かした湯船にゆっくり浸かって、寝た。良く眠れた。次の日寝過ごしたくらいだ。

 

 夜が明けると、放っておいても朝が来た。

 リビングダイニングでは白木のダイニングテーブルで、いつものように娘ふたりが朝飯を食らっていた。

 恒夫は新聞だけ漁って、部屋を出た。

 CMに出てきそうな立派なアイランド型のシステムキッチンの三門あるコンロの一つで美佐枝の作るハムエッグが完成間近である。

「昨日は慶彦さんのトコ泊まるかと思ってたのに」美子がトーストを口に入れる間隙を縫う様に発声した。

「バカ。慶彦はそういうトコ真面目なのよ。それにお父さんに会ったその日に泊まっていくワケにもいかんでしょうが」

「まあ、それもそうか。ねえねえ、昨日お姉、送ってくれた車、あれもおフランス? カッコよかったじゃん」

「イタリアよ。中古だけどね」

「イタ車かぁ。やるじゃない。ツネオ殿の軽トラとは雲泥の差だ。私も軽トラで送り迎えして貰ってるようじゃマダマダだわ」

「アンタだって、すぐいい人できるわよ」

「何、そのヨユウの発言」

「モテない妹を慰めてあげてんの」

「ムカつく〜」

「ねえお母さん、新聞ドコ?」妹に格の違いを見せつけた長女は殊勝に経済動向でもチェックしようとしたのか、美佐江に朝刊の在り処を聞いた。

「お父さんじゃない?」

「お父さんは?」

「便所」

「またトイレで読んでんの? やめてって言ってんのにッ」


 田舎の百姓屋だけに街中の家と比べればかなり広い家なのだが結局、落ち着けるのは風呂とトイレだけだ。

 今日は寝過ごしてしまったので、朝摘みもサボタージュしてしまった。だからノンビリできた。

 今も悠然と新聞をひろげキバっている。

 我が家に配達された時はパリッとしていた朝刊も湿り気を帯びてしなりとしてきた。

 また娘たちの抗議の声を聞かされる、と思ったが、いつもより念入りに読み込んだ。


 案の定、長女がトイレの前まで来て抗議の声を上げた。

「ちょっとお父さんッ、トイレで新聞読まないでって、言ってるでしょッ」

「おー」と答えた。

「何回言ったら分かるのよ」

 さらに何言か長女は続けたが、馬耳東風を決め込んだ。

 トイレの前がドタドタ騒がしくなった。今度は次女だ。

「もれる。もれる。父さんッ早く早くッ」

「美子ッ、女の子がそんな言い方しないッ」空かさず台所の美佐枝から注意が飛んだが、

次女は「だって漏れそうなんだもん」と聞く耳持たず、トイレのドアをドンドンやり「父さん、早くしてよッ」と訴えた。

 騒がしい女共だ。

 恒夫はドアの外の喧騒をよそに、ゆっくり新聞をめくった。

 そこに小さく『猪退治』の記事を見つけた。これを探していたんだ。写真は小さく誰だか分からないが、まあいいだろう。

 じっくり読み込み、一人、悦に入る恒夫であった。

 

 外の喧騒は、まだまだ終わりそうにない。

                    




                     完


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