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人魚姫

 うつしちゃうから、と頑なに拒むミサキを宥めて夫婦のベッドに寝かせ、ようやく落ち着いてきた呼吸に安堵しながら寝顔を見つめる。だいぶ楽にはなったのだろう、苦しそうな様子はない。


 どうやら本人は夢だと思っているのか、それとも忘れてしまっているのか、昨晩のことは覚えていないらしい。


 強気なくせにわがままは言えない不器用なミサキが、必死になって言い募る様は、トオルを多分に驚かせた。


 「なにか、あったのか…?」


 聞くともなく呟いて、そっとミサキの手を取った。指環の輝きは未だその意味を失わぬまま、華奢な薬指に絡みついている。


 どこか距離を感じていたのはお互い様だったろう。ミサキの最近の行動がそれに端を発するものだということは、トオルとて気付いていた。


 (お前がなにか、決断したと言うなら───)


 起こさぬよう気を付けながら、そっと前髪を掻き分けてやる。


 ───俺も覚悟を決めないと、な。








 「えー!旦那さん、ドタキャンですか!?」


 休み明けのどこかのんびりとした職場に、タキちゃんの声が響いた。デスクでもぐもぐとハムスターのごとく朝ごはんを嗜んでいたマツモトくんが、びっくりしてパンを喉に詰まらせる。すかさず飲み物を差し出し、背中を叩いてあげるサトミくん…今日も我らの『島』は平和である。


 「…おい」

 「まっつんゴメン!サトミちゃん怖い!」

 「……おい」

 「すみませんでした」


 冷気さえ漂わせはじめたサトミくんに、タキちゃんががばりと頭を下げた。いや、そこはマツモトくんに謝るところでは…と思ったが、当の本人は差し出されたいちごミルクに夢中な様なので何も言わないでおく。


 それに、おばさん知ってるんだからね!サトミくんが、タキちゃんと二人っきりのときには『ナギサ』って名前で呼んでること!


 どこか微笑ましい気持ちで三人を眺めていると、ようやくサトミくんにお許しをもらえたらしいタキちゃんが改めて私に向き直った。


 「じゃあ、デートできなかったんですね…」

 「仕事じゃしょうがないよねぇ。あ、でもサトミくんに教えてもらったレストランには弟につきあってもらったの!鈴木さんがすごく親切で、お料理も全部美味しくいただきました。」

 

 ほんとにありがとう、とあえて畏まってサトミくんに頭を下げると、彼は標準装備の無表情で生真面目に「お気に召したなら良かったです」と返してくれた。


 「L'oiseau Bleu(ロワゾブル)行かれたんですか!いいな~。あそこの季節の前菜(アントレ)、最高ですよね!鈴木さんの仕上げてくれるデセールも!今はベリー系かなぁ…先輩はアラカルト、どれ選ばれ…まし、た…?」


 途中まで涎を垂らさんばかりに語ったタキちゃんだったが、私とマツモトくんの物言いたげな視線に気づいてハタと固まった。


 すなわち、『へぇ、あんなお店に何度も通ってるんだ…で、誰と?』という露骨な冷やかしである。


 彼女は当事者であろうサトミくんの方をこっそり(と本人は思っている)伺いながら、何度か意味の無い単語を発した後、「ちょっと…!所用の腹痛が…!!」などと叫んでダッシュでオフィスを出て行ってしまった。


 つかの間静まり返ったオフィスに、サトミくんのため息が響く。

 スッと外した眼鏡を軽くクロスで拭きながら、誰に言うともなく呟いた。


 「…もうそろそろ、いいですかね」


 その瞬間、周囲の心はひとつだった。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ、と。


 何の躊躇いもなく「私も、所用の腹痛がありまして」と言い放ったサトミくんはきっちり二人分の有給をとって、颯爽とオフィスを後にした。部長、怯えてないで一応諭すぐらいした方がいいのでは…。


 数瞬後、始業の合図で覚醒した私たちは、とりあえず何事もなかったのように業務を開始した。私もマツモトくんと目線を交わして笑ってしまったあと、いつものようにパソコンを立ち上げる。二人ならきっと大丈夫だろうと、どこか羨むような気持ちで思いながら。





 ─────その日の帰路で、私は見た。…見て、しまった。


 少しばかり赤味を増した夕空の下、帰宅の途に就く人々で溢れた喧騒の中。

 交差点の真ん中で、少し遠くに見つけた夫の姿。

 後輩らしきスーツ姿の女性と談笑するトオルの左手は────



 そこにあるべき煌めきを失っていた。



 呆然とする私に気付かぬまま、トオルの姿は雑踏に飲まれ、消えていく。

 流されるまま交差点を渡り切った私は、立ち止まって左手を掲げた。


 その瞬間、拍子抜けするほどあっさりと、赤いリボンは解けてしまった。今にもプツリといきそうだった切れ目ではなく、あんなにも固く結ばれていたかに見えた結び目がシュルリと滑って。


 穏やかな春風に揉まれながら舞い上がったリボンは、いくらもせずに儚く滲んで───消えてしまった。





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