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いばら姫

 トオルの気持ちが知りたい。私たちのこれからについて話したい。

 そう、思ったのだけど。


 「…38℃ちょっと…」


 ピッと催促してくる体温計を取り上げ、ぼんやりとした視界の中でその表示を確かめた。


 「完全に風邪…ね」


 呟くと、喉に痛みが走って咳が込み上げた。この分だと扁桃腺も腫れているな…と半ば投げやりに思う。

 季節は春、過ごしやすい気温なのだけれど、こうなってしまったのは完全に自分の管理不十分だった。昨夜はついワインを飲みすぎて、ひどく酔わないまでも重い眠気に駆られた私は、シャワーで濡れた髪のままベッドにダイブしてしまったのだ。

 

 休日で良かったと、まずは寝室を移る。トオルは今日が商談だったはずで、恐らくは明日帰ってくるだろう。汗もかくだろうし、共用のベッドを使うのは忍びない。

 冷蔵庫には水も、最低限の食料も入っているし、このまま引きこもって大丈夫だろう。とりあえず市販の風邪薬を流し込み、久しぶりにシングルベッドへと倒れ込んだ。


 眠る前にとチェックしたモバイルには、コウくんからのお礼と、差し出がましいことを言ってしまったという申し訳なさそうな一文が入ったメールが届いていた。

 しゅん、と耳を垂らした柴犬のような彼の様子が容易に想像できてしまって、少し浮上した気分のまま『気にしないで。私こそ、調子に乗って飲みすぎて、風邪引いちゃったみたい。今日は一日寝てるよ。』とだけ返した。


 寝てしまおう、と目を瞑ると、痛いほどの沈黙がより鮮明になる。体が弱ると心も弱るというのは、やはり真理なのだろう。あぁひとりだな、と嫌でも感じて。こんなにも────トオルの気配が恋しい。









 不意に、ひんやりとした感触が額を覆う。眠りの底にあった意識が引き上げられるような心地がして、目を開けた。


 「…起こしたか?」


 (夢かぁ…)


 ぼんやりとした思考で、いるはずのないトオルの姿を捉えた私はすぐに断定した。

 けれど額に触れるトオルの手の感触は、私が知るそれと酷似している。この間の夢といい、妙にリアルだ。


 (夢ならいいかな…)


 どうやら自分には、己に都合のいい夢をみられる一種の才能があるらしい。


 「…とーる…」

 「…ん?」


 掠れた声を聞き取ろうと、口元に寄せてきたトオルの耳に囁いた。


 「みかん、たべたい」

 「…おう」

 「りんごすったやつも…」

 「いつもそれだな…」

 「あと冷えピタほしいあつい…」

 「…買ってくるから待ってろ」


 ちょっと呆れたみたいに我が儘な私を見下ろすトオルの目は、ひたすらに優しい。

 今にも立ち上がりそうなトオルをひき止めて、なおも言い募った。夢なら、今なら何を望んでも許されるんじゃないかと、そう思って。


 「それから…」

 「…おい、」

 「もっと、頭撫でて」


 懇願すると、動きを止めたトオルは目を見開いた。

 いいじゃない、夢だもの。

 熱に浮かされて蕩けた思考で、ずっと欲していたものをねだり続けた。


 「て、つないで」

 「ぎゅってして」

 「そばにいて」

 「だいじょうぶって」


 かわいいよって、好きだよって言って。

 おねがい、はなれていかないで─────



 言いながら、瞼がひどく重くなっていくのを感じた。目が覚めてしまうんだろうか、夢とは言え、どうやらそう上手くはいかないらしい。


 (夢なら…全部叶えてくれると思ったんだけどな────)


 ひどく名残惜しく思ったけれど、熱に侵された意識は再び容易く沈んでいった。






 覚醒したのは日曜の朝で、丸一日以上寝ていたらしい。喉はひどく渇いていたが、熱は下がったようだった。


 少し汗ばんだ体でキッチンにたどり着き、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを一気に飲み干す。500mlが呆気なく無くなって、ようやく人心地ついた。


 ちょうどその時、ガチャ、と玄関から音がして、次いでガサガサという音と共にトオルが入ってきた。


 「──おかえり」

 「!もう起きてて大丈夫なのか?」

 「え…?」

 「コウからメール入ってたんだよ…風邪、引いたって」


 これ、と渡されたビニール袋には、缶詰や冷えピタが入っているようだった。風邪を引くと必ず欲しくなる、みかんの缶詰。覚えていてくれたのかと、少しくすぐったいような気持ちになる。


 「金曜はほんと、悪かったな」


 病院はいいのかと一通り心配してくれたあと、トオルは気まずげにそう切り出した。


 「ううん、お仕事だったんだし。それにコウくんが付き合ってくれたから。…トオルは、今帰り?」

 「は……?」


 ラフな格好で帰ってきたトオルに、出張からは私服で戻ったのかと何気なく聞いてみただけだったのだけど、予想外に彼は固まった。


 「…覚えて、ないのか…?」

 「え?」

 「いや、」


 ぼそりと何事か呟いたトオルに聞き返すけれど、何でもないと慌てたように一度頭を振って見せ、そそくさと袋の中身を取り出し始めた。


 「何か食えそうか?リンゴ擦って、ヨーグルトに入れてやるから」


 ぶっきらぼうなようでいて、昔から小さい子たちのお守りを任されていたトオルは世話焼きだ。疲れているだろうに、看病しようとしてくれるのが申し訳なく思う。


 「あ、うん…。もう熱も引いたみたいだし大丈夫だよ、ありがと。トオルも休んで────」

 「──いいから」


 不意に距離を詰めたトオルの気配に思わず目を瞑ると、額をひやりとした感触が覆う。


 「…まだ微熱だろ。準備して持ってくから、まだ大人しく寝てろ」


 トオルの大きな掌が私の前髪を掻き上げ、親指だけが眉間を撫でるように何度か動いた。


 ───『お互いのこと想い合ってるのに…ううん、想い合ってるからこそなのかな、すれ違ってるように見えるよ』


 そう信じたくなるような、優しさと労わりに満ちた所作。


 「────うん」


 温かな日差しの差すリビングで、夫婦は久しぶりに触れ合った。

 これもまた、自身の願望が見せた夢なのではないかと疑いながら、それでもいいから───

 

 (───この瞬間が永遠であればいいのに)


 そう、願わずにはいられなかった。


 ぶっきらぼうなようでいて、優しいひと。

 優しいようでいて、残酷なひと。


 私が決死の想いで固めた覚悟を、こんなにも容易く溶かしていこうとする。

 例えその先に終わりが待っていようと、あなたの気持ちが知りたいと、そう決めたのに。


 今更ながらに、『恋愛関係』の寿命なぞを突き付けてきた死神を恨む。

 知らなければ、気付かない…いや、気付かないフリをしたまま、



 ─────この『愛』を飼い殺しにして生きて行けたのに。






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