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ある母親の物語

 象牙色アイボリーの柔らかな壁を、シャンデリアが控えめに照らす。昼とは趣を変えるらしいテーブルセッティングで、色とりどりの花々が艶やかな藍色のクロスと金縁の白食器を上品に飾る。


 サトミくんの紹介で訪れたフレンチレストランは、まさにシャトーの名が相応しい荘厳な佇まいだった。気後れしつつ入口へ回ると、にこやかなドアマンが招き入れてくれる。


 迎えてくれたのは、控えめな笑みを佩いた初老の給仕長。執事然とした佇まいで、席までのエスコートはもちろん、ワインも何も分からないと正直に告白した自分たちへも、懇切丁寧に説明をしてくれる。正式にはメートル・ド・テルと呼ばれるらしい彼が、ホールのサービス一切を取り仕切る『かなり偉い人』らしいと知ったのは後のことである。


 …そんな人が一見客の私たちに対応してくれたのも、サトミくんの紹介というのが関係していたそうなのだけど…君は一体何者なの? 


 何はともあれ、すばらしいサービスの下、至福のディナーは進んだ。


 車エビと小柱の温かな前菜に、もっちりとしたジャガイモのコンフィを添えた仔牛のロースト、ポロネギとズッキーニのポタージュに焼きたてのパン。見た目の華やかさはもちろん、味も奇をてらうことなくしっかりと素材の良さを引き出していて、貧乏舌なミサキをも十分楽しませてくれた。


 あとはデザートを残すのみだが、最早期待しかしていない。軽めな口当たりのものを、とソムリエの女性に選んでもらったワインを傾けつつ、お値段の甲斐だけあったと満足する私の向かい側で、パートナー…コウくんは未だどこか遠慮がちだ。


 「良かったの?姉さん…。トオル兄ちゃんと来る予定だったんでしょう」

 「ちょうど仕事が入っちゃったんだもの、仕方ないわよ。予約もしてもらってたし…むしろおばさんに付き合ってくれたコウくんにお礼を言わなきゃ」


 おどけてみせた私に、昔なら笑ったであろう彼は顔を俯かせた。少し酔いが回ってぼんやりとした思考でも、違和感を覚える仕草だった。

 

 連絡は頻繁にとるけれど、こうして顔を合わせるのは数か月ぶりのこと。何かあったのだろうかと不安になって尋ねると、数瞬ためらった後、彼は口を開いた。


 「…兄さんたち、どうしちゃったの?」

 「コウ…くん?」


 覚悟を決めたかのように、先程までとは別人のような強い視線が私を射抜く。


 「二人の様子がおかしいって、ほんとはずっと思ってた。こんなこと…言うべきじゃないって分かってるけど、もう見てられないんだ!…五年前の───あれが原因、なんだよね」


 ────五年前。


 自分も、周りも秘してきたタブーに動揺して、取り落とす前にとワイングラスを置く。


 そして思い出していた。

 私が、永遠に失ってしまったもののことを。








 ────15%


 数字では分かっているつもりで、それが決して少なくない確立だと言うことは理解していた。

 けれど何故だか、自分の身に降りかかることとは考えられなかったのだ。

 それほど私達は幸福の絶頂で、当たり前の未来が当たり前に続いて行くのだと、疑いもしなかった。…その“平凡”こそがどんなに得難いものか、まだ知りもしないで。


 私達夫婦が我が子を流産で失ったのは、五年前の初夏のことだった。


 その日は嫌味なほど快晴だったのを覚えている。念のためと用意してもらったベッドの上で、私は呆然としていた。


 嘘、と、それしか考えられなかった。


 泣いたのは、息を切らして駆けつけたトオルの顔を見てからのこと。


 『ごめん、ごめんね…!ごめんなさい!』


 抱き締めてくれるトオルの背にすがり付いて、謝り続けた。


 だって、私は一番知っていた。一番近くで感じていた。


 『家族』を知らない自分が良き父親になれるのか、葛藤していたトオルを。

 まだエコーにも豆粒のようにしか写らない我が子が動かないかと、ぺたんこな私のお腹に毎日耳を押し当てていたトオルを。

 性別も分からないまま、男女の名前をたくさん考えていたトオルを。


 幸せだった。トオルが望み続けた『家族』を私が産んであげることができるのだと、産ませてもらえるのだと、それが私には一番嬉しく思えた。


 だからこそ、自分が許せなかった。


 ───ごめんなさい。


 更には、もう妊娠は難しいかもしれない、と突き付けられて。


 そうして、私達の家族は永遠に失われてしまった───

 

 

 あの日から、トオルと夜を共にしたのは数えるほどしかない。愛し愛される手段だったはずの行為は、いつからか二人にとって苦痛になっていたのかもしれない。


 だって、どんなに愛されても、もう私が子供を授かることはできないのだから。


 


 「…うん。きっとそうなんだろうね」

 「姉さん…」

 「あの時、私達は家族になりそこなっちゃったのかもしれない。今すごく…トオルを遠くに感じるの…!」


 くしゃりと歪んだ顔で、震える声を絞り出す。


 「もうすぐ、結婚十年目だなって。私なりにどうにかしなきゃって頑張ってみたつもりで、でも───」


 空回りだったみたい。


 そう言って笑おうとするけれど、うまくいかない。あぁ、また心配させてしまう。


 「辛いこと、思い出させてごめん…。でも俺、二人とも痛々しくて見てられなくて。お互いのこと想い合ってるのに…ううん、想い合ってるからこそなのかな、すれ違ってるように見えるよ」


 想い合ってる…そうなのかな。そうであってほしいと、願っているけれども。


 「トオル兄さんと話した方がいいよ。俺の我儘だけど、二人には笑ってずっと一緒にいて欲しい」


 …うん、と、かろうじてそれだけを返した。

 コウくんもすっかり大人になっちゃって、そう努めて明るく言ってやると、ようやく彼の顔も綻んだ。


 ただならぬ空気を感じていたのか、ずっと姿を隠していた給仕長…鈴木さんが絶妙なタイミングで現れ、軽めのデセールを供してくれる。


 はじめの説明では目の前でフランベを披露してもらう予定だったのだが、もう胸がいっぱいになってしまった私達の様子を見て、控えめに提案してくださったのである。


 フランボワーズの彩り鮮やかなシャーベットを美味しくいただき、私達は席を立った。


 こういうところで揉めるのはスマートじゃないわよ、と渋るコウくんをからかい混じりに説き伏せて支払いを済ませると、鈴木さんがスッと紙袋を差し出してきた。


 「これは…」

 「本日は旦那様が急用でいらしたとのこと、残念でございましたね。デセールも軽めで済まされたことですし、よろしければお持ち帰りになって、旦那様とお召し上がりください」


 実はデセールの仕上げはわたくしの最も得意とするところでございまして。ええ、是非またご披露する機会をお与えいただきたく存じます。


 そう言ってまたのお越しをお待ち致しております、と見送ってくれた鈴木さん。


 コウくんとは駅で別れ、帰宅して中を覗くと、色とりどりのマカロンが綺麗に箱に納められていた。マカロンって、意外と賞味期限の長いものらしい。

 

 まさか鈴木さんが私の事情を知るはずもないが、マカロンの賞味期限はちょうど一週間になっていた。


 …私はどんな気持ちでこれを口にするんだろう。願わくばトオルの傍で、笑顔で一緒に食べられたらいいのだけれど。




 ───頑張っているつもりで、きっと私はあまりに独りよがりだった。

 

 明後日には帰るトオルを想って、一人ベッドに寝転ぶ。


 大事なのは、『二人が』これからどうしたいのかと言うこと。


 毎日確かめ続けるリボンの綻びは、やはり二週間前より大きくなっている。でももう、一人で怯えるのはやめよう。

 私が信じているのは、理不尽な死神なんかじゃない。ただ一人の夫…トオルなのだから。


 (…話し合わなきゃ)


 例えどんな結末が待っていたとしても。




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