最後の真珠
───さて、と心中密かに気合いを入れる。
あっという間に一週間が過ぎ去り、特に何の進展もないまま、ベッドでの距離だけが縮まった。
次はどうするか、実はもう決めていた。
「デート、ですか?」
「えぇ、…いや、夫婦で今さらデートなんて言わないわよね」
いえいえ、そんなことは。そう言って、タキちゃんは両手を振ってみせる。
「もう結婚十年目、でしたっけ」
「うん、今年でね」
「いいなぁ、いつまでもラブラブで」
はふう、とため息をついてみせるタキちゃんに苦笑する。ここはあえて否定せずにおこう。
「なんていうか…久しぶりだし、なかなか自分から誘うなんてしたことなくて。私って服のセンスもないし、お店なんてほんとに疎いの」
「いえ、はっきり言って先輩のバストとウエストの対比は垂涎もの…いたっ」
真顔でおじさん臭いことを言うタキちゃんの頭を、サトミくんが丸めた書類でポカリと殴った。
「っサトミちゃんパワハラ!訴えるよ!」
「俺が訴えられる前にお前はセクハラで懲戒免職だ。…すみません、先輩」
相変わらず仲のいいコンビだこと。
会社の昼休み、今日マツモトくんは外へ出ているが、いつもの3人でランチを取る。ブュッフェスタイルの社員食堂で四人掛けのテーブルを占拠しつつ、『今時の若者』たる二人に相談を持ちかけていたのである。
相変わらずフラフラと揺れる赤いリボンがどうというよりも、なんだか私はトオルとデートがしたくてたまらなくなってしまったのだ。──あの夢をみて以来。
だから思いきって、週明けの今日の朝、トオルと約束を取り付けた。
『…今週?』
『うん。…忙しいのは分かってるんだけど、たまには外食でもしないかなって』
『あー…金曜の夜なら空けられるか…。それか土曜の午前とか』
『土曜は午後から出張で出るんでしょ?それじゃあ…金曜日、空けててくれる?』
『あぁ、わかった。…どっか行きたいとこでもあんの?』
『えっと…うん。だから、良かったら私がお店決めてもいい?』
『おう、じゃあ任せた』
珍しいな、と私に聞かせるでもなく呟いていたけれど、嫌がる素振りが無かったことに心中こっそり安堵していたのだった。
そんなわけで、特に理由もなく誘うのが心苦しくて、『行きたいお店があるので付き合って欲しい』とそういうことにしてしまったのだ。
さらに言えばもう長い間まともなショッピングもお店の開拓もしていない…ということで、慌てて後輩たちを頼ることになったのである。
ピチピチと囀ずる二人を傍観しつつ考えに耽っていたが、気を取り直したタキちゃんがポンと手を叩いた。
「そういうことなら先輩、一緒にショッピング行きましょう!サトミちゃんはダメよ、男子禁制!」
はいはいと、既に手元の資料に意識を移したサトミくんの生返事を気にするでもなく、タキちゃんは力強く協力を申し出てくれた。
───そしてノー残業デーの水曜日。
結論から言おう。ショッピングは凄まじかった。
適当に百貨店かファッションビルで見繕おうとしていた私を引っ張って、タキちゃんは嬉々としてセレクトショップなる未知の場所へと繰り出した。いかにもお洒落で洗練された代官山エリアを、よりにもよって地味なスーツで彷徨うだけでもいたたまれないと言うのに…。
ここはミュージアムの類なんだろうか?と本気で首を傾げるような様々な意匠を凝らしたショップをいくつも回り、私そっちのけで盛り上がるタキちゃんと店員さんに言われるがまま、心を無にしてひたすら試着を繰り返す。私がそこそこの稼ぎをしていることはタキちゃんも承知しているので、結局上から下まで、果ては下着まで揃えることになった。
…私のスリーサイズをばっちり把握してしまったタキちゃんのにんまり笑いは、早めに脳内から消去しておくことにする。
そして次の日、あいつが迷惑お掛けしませんでしたか、などと言いつつサトミくんが教えてくれたのはとあるフレンチレストラン。
なかなかのお坊ちゃんらしい(とはタキちゃん談)サトミくんの行きつけで、良かったらと予約まで引き受けてくれた。
マツモトくんはそんな二人を見て目を白黒させていたが、事情を飲み込むと僕にも何か言ってもらえれば…!と何故か悔しげだ。
ありがたいなぁ…本当に。
何だかんだと聡い後輩たちのこと、どこか沈んだ私の様子を見て、心配していてくれたのかもしれない。
そうやってふわふわと浮かれていたからだろうか。当日になってトオルが寄越した一本の電話は、私を想像以上の強さで打ちのめした。
「───え?」
『ほんと悪い!ちょっと部下が受けてた案件と被せることになって…前倒しで夜には新幹線乗らないと』
「あ…そっか…」
どこか気まずいながらも、見立ててもらったオフィスカジュアルで通勤してきた金曜日。
何故か部長までもが気を遣ってくれたのか、定時ちょうどにオフィスを追い出され、これまたタキちゃんが教えてくれたレンタル式のパウダールームで身仕度を整えて。どこかで待ち合わせようかと逡巡したところで、トオルから着信が入った。
起きているときに顔を合わせることもほぼ無いくらいだったから、トオルが多忙を極めていることは分かっていた。
自分とて責任ある社会人、こうして申し訳なさそうに謝ってくれる彼に我儘を言えるはずもない。
けれど、込み上げてくる気持ちは、どこまでも自分に正直だった。
人通りも多い金曜夕方のオフィス街。端末片手に立ちすくむ、ショーウィンドウに写りこんだ自分と目が合った。
(───ひどい顔)
楽しみにして、浮かれてたのは私だけ?
埋め合わせするからって、いつになるの。
ねぇ、あと10日もすれば記念日だよ、覚えてる?
…それまで私達、夫婦でいられるのかな。
『────キ、ミサキ?』
「あっ…!ごめん、なに?」
『いや、なんていうか…大丈夫か?』
「え?そんな怒ったりしてないよ!お仕事でしょ」
『それだけじゃなくて。…なんか、最近おかしくないか、おまえ』
「おか…しい…?」
『様子っていうか…態度っていうか…。ちょっと変だなとは思ってた』
…それに何と言って答えて電話を切ったものか、記憶にない。ただトオルからかけ直してこないということは、当たり障りなく返して誤魔化せたのだろう。
ねぇ、トオル。私っておかしいのかな。
結婚して十年も経つのに、まだあなたのこと好きだなんて。
あなたにも、私のこと好きでいてほしいなんて。
頑張ってみたけど、変、だったのかな。
もう一度抱き締めてほしかった。手を繋いで歩きたかった。
お洒落したら、似合うよって、褒めてほしかった。
あの時みたいに、キスしてほしかったの。
───あなたとこれからもずっと、夫婦でいたいの。
白のタイトスカートにコーラルピンクのカットソー、グレーの七分丈ジャケットに少しヒール高めのパンプスを合わせて。ショーウィンドウに映った私は、決して美人なんかじゃない。
ただ、トオルにだけは…一番素敵だよって言ってもらえたら、なんて、我儘すぎたんだろうか。
「…馬鹿みたい」
ぽそりと思わず漏れた言葉は、幸いにも誰を不審がらせることなく喧騒に飲まれて消えた。
全部、全部空回りだった。
こうなってしまえば、今日もトオルと顔を合わせずに済んで良かったのかもしれない。
いい歳したおばさんが頑張ってお洒落してみたって、きっと滑稽に思われるだけだった。
今は、赤いリボンを視界に入れたくない。どんな有様だか、確認してしまうのが怖い。
トオルにとって、私が女でも、恋人でも、妻でさえなくなるかもしれない日が近づいてくる。
そうなったら自分はどうするんだろうか。私は───────母にすらなれなかったのだから。
「…姉さん…?」
不意に背後から掛けられた言葉に、ビクリとして振り返る。そこには、まだ初々しくさえ感じるスーツ姿の若者が立っていた。
「やっぱり…!ミサキ姉さん、こんなところでなにしてるの?」
「コウくん!」
スメラギ コウイチ。かつて夏祭りへ自分も連れて行ってと駄々を捏ねた、トオルと私の可愛い“弟”だった。