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星の銀貨


 あれから、私のささいな、それでいて困難なミッションは少しずつ進行していた。トオルは繁忙期に入って帰りが遅くなる日が増えたけれど、私はずっと夫婦の寝室で休み続けた。

 少しずつ近づいてくる私にトオルが気付いているのか、気付いていても意図的なものとは思っていないのか、私には分からない。けれど彼は拒絶も追及もしてくることは無かった。

 …トオルの方から近寄ってくる、ということも無かったけれど。



 どんなにゆっくりと言っても、同じベッドの上では距離などたかが知れている。ほんの一週間で私は不可視の中央線を越えることになった。

 ただこれは同時に賭けでもあったので、私は睡魔と戦いながらも何とかトオルの帰宅を伺っていた。なぜなら、トオルが今度は反対側に入ってしまう可能性もあったからである。まるでコントのようだけれど、私は至って真面目だった。


 …それにしても、今夜は特に帰りが遅い。日付はとっくに明日になっていた。


 (終電ギリギリか…それかもう今日は帰らないかな)


 半ば諦めて、そっと目を閉じた。





 ───まるで薄い膜を被ったかのような感覚越しに、祭りの囃しと人々の喧騒が聞こえる。どこか懐かしく感じて辺りを見渡すと、あぁあの夏祭りかと不思議と納得する。

 そう思ったからなのか、むわっとした湿り気を帯びた空気さえ感じられる気がした。

 夢か、となんとなく自覚した私の背後から、不意に女の子がカコカコと下駄を鳴らして駆け抜ける。


 (あれは…)


 「トールおっそい!」


 黒髪を四苦八苦して纏め上げ、紺地に金魚の踊る浴衣を着て。赤い鼻緒の下駄で不慣れにぎこちなく歩く、高校時代の私。


 トール(・・・)、そうやってどこか間延びした呼び方をするのが、不器用な私の精一杯の甘え方だった。


 これはきっと高校3年の夏、ようやく幼馴染みから脱却したばかりの私達がした、初めてのデートらしいデートだ。


 駆け寄った先には、当時から既に頭ひとつ抜きん出ていた長身の男──トオルの姿がある。特に気負わない、ハーフパンツにTシャツのいつものスタイル。そのくせ遅れて来るものだから、私はいたく憤慨したのだった。


 不本意そうに視線を逸らして、トオルは言う。


 「チビが着いてくるって聞かなかったんだよ…」


 「コウくんが?それなら連れてきてあげたら良かったのに…」


 コウくんはトオルの弟分で、当時は小学校に上がる前だっただろうか。幼いころから施設で育ったトオルには、面倒を見るべき子どもたちが大勢いたのだ。


 私はそれを承知していて、そう言った。けれども。


 「…アホか、おまえ」


 不満顔を隠さないままに、トオルは私の左手首を掴んで屋台の通りを歩き出す。


 「ちょっと…!」

 「…デートに弟連れてくるやつがいるかよ」


 …浴衣、似合ってる。

 ぶっきらぼうにぼそりと吐かれた言葉は、私にしっかり届いていて。


 「…うん、ありがと」


 コウくんを連れてきたら良かったのに。そう思ったのは嘘じゃない。だけど、私以上に不器用なトオルが、こうして私とのデートを尊重してくれたという、その気持ちが嬉しかったのだ。


 「…お詫びはりんご飴でいいよ!」


 そう言って、一度やんわりと離したトオルの手を、今度は自分が捕まえにいく。


 「…やっすい女」


 口ではそう言いながら、耳を赤く染めてぎゅっと手を握り返してくるから、私はたまらなく幸せだった。



 気づくと場面は移り変わっていた。少し早めに会場を抜けて、人気の少ない川縁にやって来たのだったか。


 「あんまり人、いないね。穴場なのかな」

 「少し離れてるしな。まぁ、花火なんてそんな近くで見るもんじゃないだろ」

 「たしかに」


 軽口を叩きながらも、お互いの手は放さないままで。あの時あそこにいたのは確かに私だった筈なのに、羨ましくてたまらないような、そんな不思議な気持ちになった。


 そのうちに、ヒュパッという軽い音がして、そちらに目を向けた刹那、ドォオンという体震わす轟音と共に花火が咲く。


 次々と上がる花火が、揃って口を開ける二人を照らし出していた。


 「たーまやーって言いたくならない?」

 「オッサンかよ…。もっとロマンチックな感想言えねーのかおまえは」

 「トールの口からロマンチックとか聞きたくなかったんですけど…。あ、炭酸ストロンチウム!」

 「期待した俺が馬鹿だった」


 きゃいきゃいはしゃいで空を見上げる私を、トオルはこっそり、優しい顔で見下ろしていた。まるで宝物を慈しむような、甘い感情を滲ませた瞳で。


 ──願望、なんだろうか。あの時の私が気づかなかったことが、記憶として残っている訳がない。あの表情は、そうあっていて欲しいという私の希望が生み出した幻想なのだろう。


 それでもなんて──幸福な夢だろう。


 「ふふん、知ってる?赤は炭酸ストロンチウム、緑は硝酸バリウムで、青は──」

 「もうおまえちょっと黙ってろ」

 「っむ………んっ…?!」


 (あ…そうか、この日って…)


 横から私の顎を掬うように持ち上げたトオルが、抗議しようとした私の唇を塞ぐ。


 幼馴染みから恋人になって、どこか距離を測りかねていた二人が、初めてキスを交わした日。


 そう思い出した瞬間、これまで傍観者でしかなかった私の意識が、『昔の私』の中へ飛んだ。


 何もかも、唇さえもが私より大きなトオルのキスは、何かを奪われているような、それでいて全てを委ねてしまいたくなるような気持ちにさせた。


 夢、なのに。

 

 どうしてトオルの触れる感覚はこんなに鮮明なんだろう。

 いつのまにか体ごと抱き寄せてくる長い腕も、(おとがい)に触れる指先も、熱い唇の感触さえ。


 なんて───幸福で、残酷な夢。





 ふ、と。そこで私の意識は浮上した。

 パチリと瞬きをすると、目尻に溜まった涙が溢れる。それをそっと拭うと、暗闇に慣れた目にトオルの後ろ姿が映った。


 私がうとうとしている間に、帰ってきていたらしい。意図的なのか、そうでないのか…トオルは定位置に寝ていた。


 しばらく、躊躇した。けれど、あんなにもリアルな夢を見て──まだ唇には感触が残っている気さえする──認めよう、私はひどく寂しかったのだ。


 心を決めて、ほんの少しの隙間を埋める。自分と同じはずのシャンプーの香りが、鼻先に漂う。

 目を閉じて、額をトオルの背中に預けた。


 (…おやすみ…)


 心の中でそっと呟く。


 噛み締めた唇は、あの時トオルが食べていたかき氷の赤いシロップではなく、先程使ったばかりの歯磨き粉の風味がして。


 (…ファーストキスはいちご味、だったのよね)


 そうしてひとり微笑んで再び落ちた眠りは深く、夜は夢を見ることも無く更けていった。





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