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ブレーメンの音楽隊

 (起こされるかな…寝惚けてんなよって、追い出されるかな…)


 そっと近づいてくるトオルの気配に、ベッドの右側で丸めた体を少し硬くする。

 予想に反して、トオルが私に声を掛けることも、揺さぶり起こすことも無かった。


 ただ、くすぐったいくらい優しい感覚──トオルの指先が頬を滑る。自分と同じシャンプーの香りが仄かにして、トオルが顔を近づけてきたのが分かった。特に手を掛けているでもない私の長い黒髪をも暫し弄んで、彼の指先は離れて行った。


 すぐにギシリとベッドが軋んで、トオルが左端に体を横たえたのを感じる。リモコンを操作したのだろう、静かに照明が消えて、寝室は再び暗闇に包まれた。


 

 ────キス、してくれるかと思ったのに。



 そっと目を開けると、人ひとり分の微妙な距離を挟んで、彼の背中は目の前にあった。手を伸ばせば指先が触れるほどの間隔。ベッドの端と端。どうやらこれが、私たちヤマアラシの今の限界らしい。


 トオルの指先が触れた瞬間、思わず反応してしまいそうな自分を抑えるのに必死だった。何だか癪で言ってやったことなんてないけれど、節くれ立った男らしい長い指が、私はたまらなく好きで。


 まるでトオルの指先の感覚をなぞるかのように、自分の手で頬、そして髪に触れる。こうして触れてくるなんて、いつぶりだろう。昔のトオルはそれが生きがいとばかりに人の髪を弄り倒していたくせに。ぐしゃぐしゃになったとぶーたれる私の頬をつまんで、火に油を注いでいたくせに。


 今も、


 あんなに優しく、大事そうに触れてくるくせに。


 どうして────




 トオルの寝息が響いてきたのを確認して、ほんの五センチ、そっと体を捩って近寄る。


 ──少しずつ、少しずつ。


 こうして日ごと近づいていけば、そのうちピタリと彼の背中にくっついて眠れる日が来るかな。そうしたら、トオルはこちらを振り返って、もう一度その腕の中に私を抱いて眠ってくれるかな。…まるで昔の二人のように、お互いの鼓動の音を子守唄に眠る。そんな幸せを、期待してもいいのかな。


 不意に心臓が締め付けられるように痛んで、熱いものがポロリと枕に転がった。

 たった一粒のしょっぱい雫は、すぐに乾いて跡形も残さず消えてしまった。




 翌朝はトオルのセットしたアラームで二人同時に目覚めたけれど、お互い「おはよう」と交わすだけに留まった。私からは何も言わなかったし、トオルも気にするそぶりはあっても言及はしなかったから。


 バタバタと出勤していったトオル。かろうじて『いってらっしゃい』を告げたけれど、バタンと閉まった扉にはリボンが挟まっていて、まさか千切れていやしないかとわざわざ確認してしまった。

 どうやら特に意識しない限りは眼に映らない仕様なのか、いつも視界にヒラヒラと入り込むことはないようだ。相変わらずリボンは千切れかけたままで、ひどくなったのか良くなったのかも判然としない。


 思わず出そうになったため息を飲み込んで、私も会社へと向かった。最寄駅から電車で二十分、そこから歩いて五分ほどの所に私の勤めるNANSO(ナンソー) ELECTRONICS, Inc. はある。

企業間取引を主とする所謂B to Bのこの“ナンソー”は、電子デバイス材料の分野では世界トップクラスのシェアを誇る。エンドユーザーの認知度は決して高くないが、業界内ではかなりの大手企業。大学院時代にここの研究チームと共同研究に取り組んでから、私の第一志望はナンソー一択だった。マスター卒の私がすんなり研究開発に回してもらえたのも、恐らくその共同研究の成果があってのことだと思う。


 「おはようございます」


 セキュリティが設置された通用口をいくつか社員証で潜り抜け、実験ブースに隣接したオフィスに入る。始業まであと十五分ほどだったけれど、私以外のメンバーはほとんど揃っているようだった。声を掛けると、思い思いの返答が返ってくる。


 研究開発部門──社内では先進研Ⅲと呼ばれるこのチームでは実験時のみ作業服ないし白衣を着用するので、皆基本的にスーツを着用している。

先進研はⅠからⅣまで置かれているが、ここⅢ課には主にナンソー傘下のプラントを相手に応用研究・開発研究と呼ばれる仕事が回される。他にも基礎研究や調査主体の課があり、大企業らしい層の厚さを呈していた。


 「ヨシダせんぱい~聞いてくださいよぉ…」


 私がデスクに着くなり、情けない声を出してきたのは後輩のマツモト タカシくん。入社しておよそ一年が経とうとしているけれど、未だにパリッと清潔感のある着こなしを忘れない好青年だ。…今は朝から机に突っ伏して沈んでいたので、哀れ袖が皺だらけになっているが。


 「…なに、マツモトくん…また?」


 パソコンを立ち上げ、やたらと長いパスワードを打ち込んでから後輩君に向き直る。なかなかのイケメンだと言うのに…いや、総務や事務方のお嬢さん達には十分騒がれるほどの顔面スペックを有しているくせに、この二十三歳九州男子、恋愛に関してはどこか残念な一面を持っているのだった。

 お誘いの声は絶えないのだが、いかんせん研究一本で生きてきた彼は、いつのまにやらドン引きされて距離を置かれてしまうらしい。そんなときナイーブな彼は、特に好意を持っていたわけでなくとも傷つき落ち込んでしまうらしく、こうして言外に励ましを求めてくるのである。


 (学部卒とは言え能力買われて先進研に配属されたっていうのに…いやでも、お嬢さん達からすればイケメンっていうだけで『ギャップ萌え』って感じなんだろうなぁ…)


 「またってなんですか~…でもそうですよどうせまたですよ…」


 いじいじとし始めたマツモトくんに、向かい側のデスクの二人も声を掛けてきた。


 「まっつん、まーた振られちゃったんだよねー?」

 「…あんまりからかってやるなよ」


 このフロアではⅢ課の中でも更に細分化されたチームが『島』を作って活動している。開放的で自由度の高いオフィスは、しばしばメディアからも取材を受けるナンソーの持ち味の一つ。プロジェクトごとに新たなチームが結成されると、皆思い思いの場所にデスクやソファチェアを持ち寄って『島』を創るのだ。


 このスタイルはかなり好評かつ快適で、出社前後などのプライベートな時間をあえてオフィスで過ごす人も少なくない。皆の出勤時間が早めなのもそのせいだろう。先日などは、空きスペースで突発的ヨガ講習会が開かれて笑ってしまったものだ。


 ちなみに、今にんまりとからかうように身を乗り出して来たうら若き女性がその主催者である。タキモト ナギサちゃん、二十六歳。今時の子らしい茶色の長髪に、少し間延びした話し方をするものだから、最初は正直身構えてしまったものだ。しかしながら性格は極めてさっぱりとして能力も申し分なし。おまけに可愛い。

 すわ嵐かと思われたその存在は、男社会のこのオフィスにさわやかな風を吹き込んでくれている。そうそう、なぜヨガかと言えば、メタボ検診で引っかかったと嘆く部長に教えてあげたのだと言うから、つくづく人懐っこい子である。


 …あらやだ、おばさんっぽすぎたかしら。


 「タキちゃん、面白がっちゃかわいそうでしょ」

 「えー!サトミちゃんにミサキ先輩までー!」

 「おい、その誤解を招く呼び名はやめろと言ったはずだ」


 冷気を立ち上らせながらピシャリと言ったのは、タキちゃんのストッパー(彼は不本意そうだが)サトミ リョウヘイくん、二十六歳。二人は同期で、聞けば大学まで一緒だったようだから、やはり何か縁があるのだろう。どちらも『腐れ縁』と毒を吐くが、それでいて仲良しであることは周知の事実である。


 動かざること山の如し、笑わざること氷の如し、とやらでよそでは『氷山』『雪男』などと呼ばれているサトミくんだが、愛想がいい方ではないだけで人並みに笑いもすれば泣きも…うーん、するのかな…?ただ彼もマツモトくんとはタイプの違うイケメンで、同じくお嬢さん方を沸かせているらしい。


 …こんな美形三人に囲まれて、よく腐らないでいられるよ私も…。


 少々遠い目をしてみたが、実際のところはとてもバランスの良いチームだと思っている。今回の話にしても仕事の話にしても、ああしてからかうように見えて一番親身に相談になってあげているのはタキちゃんだし、いろいろと頭を突っ込みそうになる彼女の首根っこを掴んで抑えてくれるのはサトミくんの役目。マツモトくんだって、研究に関しては人が変わったようにデキル男になるのだ。


 個性豊かな、けれども結束力のあるこのチームは私にとっても居心地が良くて、どこか鬱々としていた気持ちが上向くのを感じていた。


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