賢い百姓娘
パタン、と決して大きくはない音がして、沈みかけていた意識が浮上した。掛け時計は…零時を指している。トオルが帰ってきたらしい。もう休んだと思っているのか、帰宅を告げる声は無い。
「あれ、起きてたのか」
「うん…おかえり」
先に休んでいるときでも明かりだけ灯しておくのはいつものことだったから、ガラス張りのドアを開けて入ってきたトオルは少し驚いていた。
つい昨日までは私の方が多忙を極め、しばらくすれ違う生活が続いていた。長いことゆっくり話もしていなかったなぁと思って、『無駄な足掻き』の一つ目は『お出迎え』に決定したのだった。本当は玄関まで出るつもりだったのだけど、さすがにそれは不審に思われただろうから、止めておいて正解だったかもしれない。
「おう、…ただいま」
自然に、と思っていたけれど、やはりどこか緊張していたのかもしれない。トオルは少し面食らったような表情で返してくれた。
学生のころは茶髪に金髪にところころ変わっていた彼の髪は、就職活動以来ずっと黒いままだ。営業という仕事柄、特に髪型と色は清潔感第一。少し小柄な私からすれば見上げるほどに身長も高くて、今でも趣味で鍛えているせいか体格もがっしりしている。初対面では威圧感を与えがちだけれど、微笑むと人懐っこそうにも見える人相のおかげでお客様からの評判は上々…と本人は言っていた。
「なんか、珍しいな。…おっ、かに玉!」
「あ、うん。まだ餡かけてないけど…トオルがお腹減ってるようなら天津飯にしようかと思って」
「食べる食べる。先に風呂入ってくるな」
「はいはい」
拍子抜けするほどいつものトオルだ。『そっけなくて、食いしん坊で、タバコは減らせても止められなくて、クールぶってるくせに時々すごく子供っぽい』、そう、特に私の前では。
けれど今と昔では決定的に変わってしまったものがある。
もうずいぶんと長い間、彼の手は、唇は、私に触れない。それは私からも同様だった。
冷めた夫婦、というのとは少し違うかな、と自分でも思う。私たちはああして向き合って何でもないように言葉を交わしながら、どこか張りつめた気持ちで互いの本心を探り合っている。お互いに──私の自惚れでないならば──相手を大切に思いながらも、どうやったら傷つけ合わずに触れ合えるのか、距離を測りかねて沈黙している。
────まるで、ヤマアラシのジレンマの如く。
けれど私は今日決めたのだ。一歩ずつ、いつの間にか空いてしまった彼との距離を、例え一方的にでも埋めていくのだと。
かつて彼が、ひとりぼっちの私の隙間を埋めてくれたのと同じように。
自分の夕飯の残りの炒飯を温めなおして、かに玉をのせる。適当に作った甘酢餡を回し掛けたところで、トオルがリビングに入ってきた。まだ少ししっとりした髪は、整髪剤の効果を失ってペタリとしている。本人が嫌がるので口には出さないが、幼く見えて私は気に入っていた。
「おーうまそ」
「なんか食べてきたんでしょ?もう若くもないのに、こんな時間に食べて大丈夫なの?」
からかい交じりの私の声に、トオルは少し唇を尖らせた。
「って言ってもラーメン一杯じゃ足りないわ。いーのいーの、俺おじさんだけど体動かすし」
「…トオルさん、それ遠まわしに『運動してないおばさんはやばい』って言ってます?」
「…ハハハソンナコトナイデスヨ…!いただきます!」
誤魔化すようにパンッと両手を合わせて、トオルは目の前の天津飯を攻略にかかった。仕方ない、と言いたげにため息をついてみせた私は、ソースパンを手早く洗ってキッチンから出る。
料理好きな私の意向を汲んで部屋選びのメイン条件にも挙がったキッチンは、それなりに予算をつぎ込んだだけあって非常に快適。ちなみにトオルの希望はトレーニング器具とそれを置ける個室だったので、お互いさまというところだ。
「…ん、うまいよ」
「なら良かった。…じゃあ、先に休むね。あ、私の方はだいぶ落ち着いたから、明日からは夕飯作れるよ」
「そうか、おつかれ。ただ今度は俺の方がデスマーチかな…。まぁ、遅くなるときは連絡する」
「年度末だもんね。…うん、それじゃ、おやすみ」
「…あのさ」
「うん?」
思わずと言った様子で声を掛けてきたトオルを、何でもないように振り返る。
「…や、皿は洗っとくわ。おやすみ」
目線を逸らしたまま、トオルは再び天津飯に向き直った。よろしく、とだけ返してリビングを出る。
きっと、何か話があって起きていたんだと思ったのだろう。私だって、彼と面と向かって話し合おうと思わなかったでもない。けれど一度口に出してしまったら、この危うい均衡が一気に崩れてしまうんじゃないか…そんな予感がどうしても拭えなかったのだ。そもそも死神のことを話すわけにもいかないし(きっと病院を勧められることになる)、なんて切り出せばいいのだろう?
──突然だけど、離婚とか考えてる?
…ダメダメだ。脈絡ない上にまるでこっちが離婚したいみたいじゃないか。
──私のこと、好き?
…いっそ聞いてみたい気もするけど、答えに窮されたらどうすればいいのか。
そもそも私は典型的な喪女、というやつで、トオルが初彼氏で初めての男、そしてそのまま結婚──という今時珍しいくらいの恋愛経験のなさ。研究発表の質疑応答は無難にこなせても、男女の駆け引きなんてできるはずもないのである。
そして正直、トオルもホッとしたに違いない。恐らく彼も、このままの均衡を望んでいたのだろうから。
しかし、私は何も諦めたわけではない。
「…ミサキ…?」
言葉にできないなら、行動で示すまで。
トオルのベッドの端っこで狸寝入りをしながら、私は覚悟を決めていた。パチリ、と瞼の裏が明るくなって、戸惑う声が私の名を呟いても、決して目は開けない。
もう何年も前から別々だった二人のベッド。夫婦の主寝室はもっぱらトオルの寝床になっている。私はその端っこに久しぶりに潜り込んで、高まる心音を宥めながら、トオルが入ってくるのを待っていたのだった。