黄金の鳥
各サブタイトルはグリム童話から。作者の覚えているものを適当に持ってきているだけです…すみません。
23区内の駅から徒歩数分、一応高級マンションと呼ばれる建物の十階に、私たちは住んでいる。お互い勤続十年以上の共働き夫婦ならこんなものだろう。夫も私も今年で三十五になる。…子供は、いない。
半ば放心したまま、それでも何とか無事に我が家へと帰り着いた。玄関に立ち尽くして、あれはやはり白昼夢だったのではないかとぼんやり思うも、視線を落とせばやはり依然として『リボン』はそこに在る。
ふらふらと帰路に就きながら辺りを見回したが、他の誰の手にもリボンは見えなかった。どうやら、私には自分の『リボン』しか見ることができないらしい。そもそも誰が言い出したんだろう、赤い糸、だなんて笑っちゃうくらい的確じゃないか。他にも誰か、遭遇したことがあるのかな。そういえば私が初めてじゃないみたいなこと言ってたな─────あの死神。
(なんだかんだで、死神のこと信じちゃってるのね、私)
理系の四大を卒業後、そのまま外部の大学院へ進学して同じ分野で修士をとった。院試は割合ハードルが低くて、最終学歴を見ればそこそこのランクの大学院を出たことになっている。就職先も大手メーカーの研究開発職で、自称も他称も筋金入りの理系。
かといって全てのオカルトと言われる現象を否定するつもりはなかったし、無神論者でもない。むしろ大学院まで出て科学の神秘を痛感した身からすれば、神様でもいなきゃ説明がつかないことなんて山ほどあると思っている。実際、科学者の多くは熱心な宗教家だったりもするじゃない。合理的な思考を持つことと、非合理的なものを排除することはイコールではないのだから。
…まぁわざわざこんなに言い訳を並べてみなくても、私が『リボン』の存在を肯定する理由はただ一つ。
「一か月だって…長いのか短いのか、ね────トオル」
結婚十年目にして、私たち夫婦の仲はすでに冷え切っているからだ。
久しぶりの半休。いつもよりゆっくり、丁寧に家事を済ませる。炊事・洗濯は私の仕事、ゴミ出しやお風呂掃除は夫の仕事。お互いに潔癖とまではいかないものの綺麗好きではあったから、掃除に関しては何となく気づいた時にちょこちょこと。これで結構うまいこと夫婦をやれてるのかな、なんて思っていたけれど。
(でもそれってただの同居人…なのかな)
同僚や会社の友人が零すような夫婦喧嘩なんて、もう随分と長いことしていない。かといって、のろけるようなおしどり夫婦でもないわけで。不満も要望も、自分の気持ちを互いに口にすることなく…まるで、相手にはもう興味が無いかのように。
今二人は、『死』というゴールまで敷かれたレールの上を走っている。無意識にも、私の中に途中下車や乗り継ぎ・乗り換えなどという選択肢は無かったように思う。だから、『冷めた』なんて思いながらも漫然と毎日を過ごしていたのだ。
────では、夫は?
あと一か月で切れてしまうという二人の『関係』。それはつまり夫の───トオルの気持ちは、もう私には無いということなんだろうか。
パン、と洗濯物の皺を伸ばしながらそう思い至って、びっくりした。恐る恐る、自分の胸を見下ろす。なんだろう、今の───胸を刺した鋭い痛みは。
戸惑ったまましばらく固まった私の耳に、ピコンと端末の着信音が届いた。ベランダから見えるリビングのテーブルで、健気に点滅し続ける文明の利器。手の中にあるバスタオルを手早く干して、一旦中へ戻った。
──今日遅くなるから。
トオルからの短いメッセージ。いつもなら、ふうんと思って了解とだけ返す内容だった。そっけない口調も、絵文字やスタンプなんて使わないのもお互い様。けれど、今はそれが何だか無性に…
──おつかれさま。晩御飯、どうするの?
思わず、返信してしまった。この半端な時間に送られてきたということは、今外回りか、タバコでも吸っているのか…。後者だったのか、すぐに返信が来る。
──外でなんか食べる。
うん、そうだよね。いつもなら聞くまでもないことだ。何やってるんだろう、わたし。苦笑して了解、とだけ返そうと指を滑らせる。
けれどそこに、続けてもう一言。
──けど家にあるならそれも食う。
思わず吹き出してしまった。私と違ってスポーツ大好きな体育会系のトオルは健啖家だ。
──了解。
そのまま送信しようとして、少し迷って入力を続けた。
──帰り、気を付けて。
送信を終えた端末をテーブルにそっと置いて、洗濯物を干しに戻る。
トオル、変わらないなぁ。そっけなくて、食いしん坊で、タバコは減らせても止められなくて、クールぶってるくせに時々すごく子供っぽい。何にも変わらない、私が好きになったそのままの男。
変わったのは、わたし?
それとも、二人の『関係』だけが歪んでしまったの…?
それならまだ間に合うのだろうか。さっき走った胸の痛み。それを信じるなら、私の気持ちは変わっていない。取り戻せるのだろうか、…二人の『関係』を。
タイムリミットは、一か月後。リビングの壁にかかったカレンダーを見やった。一か月後には…私の誕生日が迫っている。それは同時に、私たち夫婦の十回目の結婚記念日でもあった。
ちょうど今日から一か月目とは限らない。それでも、なんとなくそこを期限に定めてしまおうと思った。死神は確かに『不可能』と言ったけれど、それでも。
──足掻いてみよう。
そう、思った。