死に神のつかい
この作品中には、後々妊娠・出産に関するネガティブな話題が登場します。どうぞご留意の上でご閲覧くださいませ。
キキイィィ────ドンッ!!
街中で突如響いた衝撃音…そして上がるいくつもの悲鳴。
ようやく少し暖かくなった三月半ばの昼下がり。人通りも多い都心の交差点は、一気に凄惨な空気に包まれた。
────交通事故、かな
ミサキは咄嗟にそう思った。道をほんのひとつ挟んだだけで、向こう側の出来事は対岸の火事。何も私だけが冷たい訳じゃない。むしろこうして足を止めて成り行きを見守る者さえ稀だった。轟音に一瞬足を止めた人々の多くが、もう何事もなかったかのように歩き出している。
どこからか少なくない数のシャッター音がして、それにはどこか不快な気持ちが込み上げた。何もできずに見ているだけの自分も、やじ馬には違いないと分かってはいたけれど。
遠くに救急車のサイレンが聴こえる。しかし遠目にも、車から降りてきた運転手からは悲愴な雰囲気が漂っているのが分かった。騒然とした現場に漂っていた熱気とも言える空気がサーっと音を立てるように冷えていく。これは、たぶん、きっと。
ここからは姿も見えない被害者を憐れんだのか、自分じゃなくて良かったと安堵したのか、複雑なため息が出た。ずっしりと重い買い物袋を持ち直して、帰らねばと動き出すその刹那。
────あれは、なに
道を開けてください、と吠える救急車がようやく到着したその現場に、異様な影が立っていた。やけにズルズルとした黒衣を纏ったその姿はあまりにもその場に似つかわしくない。なのに、誰も…恐らくミサキ以外は気にも留めていなかった。
救急隊員が駆け寄ってきたその時、不意に黒衣が翻って────
「えっ…?」
思わず上げてしまった小さな声は、幸いにも誰の耳にも届かなかった。頭のどこかで警鐘が鳴る。あれはきっと────見てはならないものだった。
袋の取っ手が食い込むのもそのままに、弾かれたようにその場を後にした。何故かぞくりと寒気が走って、追い立てられるかのように足が速くなる。早く、早く帰ろう、そして忘れてしまおう!
「おや、やはり視えていたのですねぇ」
どこかねっとりとした声がやけに鮮明に飛び込んできた。思わず止めた足が、その場に縫い付けられたように動かなくなる。この類のモノには、返事をしてはいけないのではなかったか。あぁでももう気付かないふりもできそうにない…!
「そう怖がらないでくださいよ。私は悪さをするようなモノじゃありませんので」
「な…に」
「さっき、視たんでしょう?」
これを。
にたりと笑った影…男から、まるで粘度の高い液体が融けるかのようにドロリと何かが溢れ出す。
それは瞬く間に渦巻いて、やがて大きな一振りの鎌となった。柄まで真っ黒な、ただ鋭い刃先だけが白く輝く巨大な鎌。
(見間違いじゃ…なかった…)
ついさっき、救急隊員が被害者の元へと駆け付けるその直前に、男はこの大鎌をスパリと振ったのだった。何を斬ったようにも見えなかったけれど、あれは───
「久しぶりでしたよ、まだ死期も遠い人間が私を視たのは」
気が弛んでいましたかねぇ、とあくまで笑顔のまま溢しているが、その手は物騒な大鎌を手慰みのように振り回している。
はっと気付いた時には、異様なまでに周囲に人気が無い。ごくりと唾を飲み込んで口を開くと、みっともないほど震える声が出た。
「じゃあ…あなたはやっぱり死神…?」
「そのように不吉な名をつけられるのは非常に不本意だったのですが、役割から言って間違いではないですねぇ」
「さっきの人も…あなたが…!」
「おや、誤解してもらっては困ります。私は命を刈り取る訳じゃあないんです。あくまでも死期を迎えた者の魂を回収しているだけなんですから」
そう嘯く死神の顔は漆黒のローブに覆われて、鼻から下しか窺いようがない。
「まぁ確かにこんな物騒なものを出すと、怯えられても仕方ありませんね」
またしても飄々と笑った死神がパッと大鎌から手を離すと、ソレは出てきた時と同じようにドロリと男の影に融け込んだ。
「いやはや、驚かせて申し訳ない。ただ物珍しくて、つい追いかけてしまったのですよ。あなたの死期はまだ先です。…いつだか、気になりますか?」
悪戯っぽく笑われて、反射的に否定した。
「そう、それが賢明ですねぇ。…あぁそれと、ひとつ気になることがありまして」
口端をにんまりと歪ませて、スッと死神の指が私を差した。
「あなたの『リボン』が、今にも切れそうだったものですから」
「リ…ボン…?」
その指先を辿って視線を落とすと、確かに先ほどまでは無かった赤いリボンが左手…結婚指輪の隣、小指の付け根に結びつけられていた。リボンの端は、そこからずっと伸びてどこかへ続いている。不思議なことに、こんなにはっきり見えているのに感触がない。
「なにこれ…?!」
「きちんと視えたようですね。それならほら…そこに切れ目があるのも分かるでしょう」
果たしてその通りだった。小指からいくらも辿らないうちに、ほつれたような切れ目を見つけた。リボンは二センチほどの太さがあったけれど、その半分はすでに千切れかけている。そっと触ろうとしても感覚はない。それなのに、ミサキが手を動かすとリボンもふわりふわりと動くのだった。
「その様子だと、あと1ヶ月もあれば切れてしまうんじゃないですか」
「それって…死ぬ、ってこと…?」
青ざめた私を、死神は笑い飛ばした。
「いやいやとんでもない!それはね、ほらよくあなたたちも言うじゃないですか」
───赤い糸、って。
まさしくソレですよ、と笑う死神の声が遠くなる。それじゃあ、これは。
「どうやら、どなたかとの『恋愛関係』が終わろうとしているようですねぇ。おや、心当たりもありそうだ」
「なんで…そんな…」
「さっきは死期を迎えた人間の魂を迎えに来る、といいましたがね、正確にはそうじゃない。私が大鎌を振ったのを視たでしょう?我々は亡者の未練──しがらみも、縁も、現世のあらゆるものとの繋がりを断つのが仕事なんです。だから当然視えますよ…ありとあらゆる『関係』がね」
そして呆然と自分の手を見下ろす私に、死神はあっさりと別れを告げた。
───いやはや、久しぶりに楽しい時間を過ごせましたよ、ミサキさん。そのお礼に、リボンを視る『眼』を今しばらくお貸ししましょう。残念ながら、そのリボンは人間に修復するのは不可能ですが、せめて残りの時間を有意義に過ごしていただきたいですからねぇ。それでは、また。
あなたの死期にお目にかかりましょう。
縁起でもない一言を残して、いつの間にか死神の姿は消えていた。