不確かな心
教室でのやり取りが遠い過去のような、それでも時間にすると確かにほんの数分しか経っていないことが実感できるような不思議な感覚。混乱の結果ショートした慧の頭は、現状を整理しようとせずただ虚ろでいた。それはこの雑多な部室棟に似つかわしくない小綺麗なドア――女子野球部の部室の前に辿り着いても同じだった。
「どうっすか。随分久々なんじゃないっすか」
左横から豊の声が聞こえる。その反対側で相変わらず腕を取り続けている華凛と合わせるとまるで犯人の連行のよう。慧は、わたしは犯罪でも犯したのか、いくら部員とはいえ強制的に連れ込むだなんてこんなことが許されて良いのか、わたしに発言権はないのか、そんなわけない、ないわけない、と訴えたくなった。
しかしそんなことを言える勇気は慧にはない。一切の努力を自ら放棄して黙っていると、華凛が掴んでいた腕をするりと離し、何気ない日常の動作の延長のように部室のドアを開けた。
「あ……」
思わず声が漏れた。
ほんの少し開かれただけで、スパイクをつたってグラウンドからはぐれてここまでやって来た土の空気が慧を直撃する。
ただそれだけで、慧の頭には様々なシーンがフラッシュバックした。優しい先輩達。体力的にも、そして技術的にも呼吸が苦しくなるほど追い詰められた練習。ベンチから眺めるように黙って見ていた戦い。実際に自分もその戦場に立ったこと。ただ無心に、振らされるようにバットを振って駆け出したこと。直後に振り返りたくないほど大変なミスをしてしまったこと。そして、この目まぐるしい体験のきっかけとなった狂おしく美しいあの瞳のこと――
「ケイちゃん!」
「わっ――!?」
慧の思考を遮るように突如聞こえてきたのは歓喜の色を濃く含んだ声。その持ち主を判別する間もなく、慧の体はあっという間にホールドされた。
「会いたかったよぉ~。元気だったかい?」
抱きつかれたまま勢い良く頬擦りされる。動物的なその行為は直子によるものだった。
「な、直子先輩、お久しぶり、です……」
久々に味わう直子のハイテンション。瞬間的に脳に流れた映像の一部は、これで完全に現実とリンクした。
「みんな待ってたんだぜ、ほら」
密着した体を離し、そう言って室内に向けて手を広げる直子に導かれるまま、慧は部室内を見渡した。
窓から差し込む光で電灯以上の明るさを感じる部室には、みんながいた。いつも暖かく、自分のことを大事にしてくれた先輩達。広めの部室が窮屈に感じるのは、誰一人欠けずにこの場に揃っている証だった。
「お久しぶりです、若月さん。お元気でしたか」
いつもの落ち着いた口調で千春が声を掛けてくれた。
「テメエ、どこほっつき歩いてやがった!」
「こ、こわいよ……落ち着いて……」
凶暴な言葉とは裏腹にどこか毒気が抜かれているような怒鳴り声で迎える清を、文乃が冷や汗混じりに宥めている。
そんなやり取りをしている二人からふと視線を外し部室の奥へ目をやると、梓がちょこんと猫のように椅子に座っていた。こちらに目も合わせず黙って座っているその様はこれまでと何も変わっておらず、どこか微笑ましかった。
「慧」
唐突に自分を呼ぶ声がして、思わず背筋が伸びた。
奥の深い椅子からゆっくり立ち上がり、一歩一歩踏み締めるように歩み寄ってくる姿。それはやがて慧の目の前まで到達した。
「良くまた来てくれたわ。ありがとう」
柔和な笑みをたたえて、捺はそう言った。普段は何を考えているか読み取れないことの多い部長。しかし、今眼前で醸し出される雰囲気からはミステリアスさは感じられない。そこにあるのは普段の彼女からは感じ取れない、母を思わせる安心感だった。
目が合わないようこっそりと、もう一度全員を見る。誰の顔にも驚きの色はない。まるで自分が来ることをあらかじめ知っていたかのよう。華凛と豊が今日連れてくることを宣言していたのだろうか――そんな風に予想してみたが、慧の感覚はそんな考えよりも目に映るものを優先した。
三年生へと進級した先輩方。一人一人の、懐かしく色褪せない空気と輝き。
「――おかえりなさい、慧」
おかえりなさい。
全員を代表するかのように捺は言った。
優しさに溢れたその言葉は、しかしどうしてか、慧の胸に居心地悪そうに座った。
ここが、自分の場所なのか。
温もりのある場所。居心地の良い場所。それはすなわち帰るべき場所なのか。
だとすれば、この顔のこわばりはなんだろう。体が微かに震えるのはなぜだろう。
どこまでも優しく、懐かしい皆の声。
自分は確かにそこから逃げ続けていた。
なぜ。こんなにも心地良いのに、なぜ。
――もうダメだと思ったから?
――もう自分はみんなの役に立たないと思ったから?
「慧ちゃん!」
その瞬間、この場の誰のものでもない声が慧を呼んだ。廊下から聞こえてきたその声に豊と華凛が即座に反応する。それとほとんど同時に、二人と同じくまだ廊下にいる慧も声のする方を向いた。
慧の目には、息を乱しながら立っている桃枝の姿が映った。
野球部のみんなとの思い出で埋め尽くされているこの部室棟に桃枝がいる。そのアンバランスさが慧をどことなく不安にさせた。
「も、桃枝ちゃん……こんなところまでどうして……」
「何かしら。慧はこれから練習があるのだけど」
絞り出した慧の声をかき消すように華凛が桃枝に詰め寄る。その瞬間、桃枝は怯える仔犬のように一歩後ずさった。
「あ、あの……」
しかし、ぽそりと呟き桃枝はそこで止まった。震える足を後退させることなく、細々と、しかし猛々しさを内に秘めた声で一言。
「本当にやりたいことを、やった方が良いんじゃないかな」
本当にやりたいこと。
苦しみの底から絞り出されたようなその言葉が聞こえてきた瞬間、思わず慧は駆け出していた。「若月サン!」「ちょっと、待ちなさい慧!」発信源が分からないマシンガンのような叫びをあっさりと置き去りにし、慧は一目散に部室棟を飛び出した。
目にも留まらぬスピードで誰もいない教室まで駆け込んだ慧は、潜り込むように自分の席でうつ伏せになった。
本当にやりたいこと――桃枝の言葉がドクドクと脈打つ心臓の音よりも大きく繰り返し全身に響き渡った。その言葉の意味を考えることなどできない。ただ、それは吐き気を催すほど心臓を強く打ち続けるのだった。
自分はいったいどうしたいのか。どうなりたいのか。彼女の言葉にこれほど反応してしまったのはどうして。デコレーションケーキがグチャグチャになったみたいに気持ちを整理できない。桃枝の言わんとすることを噛み砕こうとトライしてみるが、「やりたいこと」という言葉が頭を回ろうとする度に繰り返し吐き気が訪れる。代わりに脳に焼きつくのは、あの瞳。
なぜ。なぜ。なぜ。どうして。分からない――
目まぐるしく右往左往し続けた心は、次第に動作を落ち着かせ、代わりに耳が何気なく周囲にピントを合わせた。
そこにあるのは静寂。ゆっくり顔を上げると、入った時と同じように教室には誰もいないことが分かった。
どうやらわたしは誰にも見つかることなく逃げおおせたらしい。わたしを見つけられなかった部のみんなは練習に戻ったのだろう。そして桃枝は帰ったのだろう。思えば彼女は鞄を持っていた。教室に寄らずに帰っても不思議ではない。それとも今もまだどこかを探しているのだろうか。
あれこれ不要な想像を巡らせるが、答えは出ない。慧はゆっくり椅子から立ち上がり、自分の両足に目をやった。
自慢の足がこんなところで役に立つとはなんという皮肉。慧は自らを心の中でせせら笑った。
「慧」
その時、一瞬で無人の教室を凛とした声が満たした。慧は反射的に入口へ目を向ける。
声の主は華凛だった。
更新が遅くなっており、すみません。
よろしくお願いします。