震え
なんだかんだであっという間に一日は過ぎる。その事実を目の当たりにし、慧は気だるそうにシャーペンを回した。
教壇では担任が帰りのホームルームを取り仕切っている。慧にとっては、この高校生活において専門授業を含めても初めて当たる教師だった。
眉間や頬に作られたシワは一見すると少々の不正も許さないと言わんばかりの威圧を放っているが、しかしクラス中を満たすざわめきを制御できていない。
これが高校生特有の浮ついたテンション初日バージョンなのか、と慧は心の中でため息をついた。
きっと彼もこんなはずではなかっただろう。これまで数多の生徒に恐れられ、堅物教師として鳴らしてきたに違いない。そして今年度も彼なりのビジョンを描いて臨んだはずだ。現に、今日も始業の段階では威厳の片鱗が見られた。
しかし悲しいかな、悪ふざけが好きな男子生徒により早々に子供が好きな子煩悩パパの一面を見破られてしまったのだ。どうやって暴いたのか慧は把握していないが、大方携帯を後ろから覗きでもしたのだろう。
慧は空いている方の腕を器用に使って頬杖をつく。いずれにしても、これでは威厳もへったくれもない。早々に苦難を強いられる担任をひとしきり哀れんでから、ただ手元をボンヤリ眺める。自力で回しているはずなのに、景気良く指を滑るシャーペンはどこか他人の手の内のような感じがした。
ほどなくして「今日はここまで!」という担任のどこか怒気を孕んだ声と、騒々しさを一気に増したクラスメイト達のざわめきがほとんど同時に押し寄せた。それは一日が終了した合図。
「ふう……」
慧は手の上で回っていたシャーペンを握り、無意識に短く息を吐いた。まるで祭りの後のような空気に紛れ、音を立てずに立ち上がる。
それからゆっくりと鞄を背負い、背中を丸めて黙って出口へと向かった。万全を期した、気配消去。
「あら、慧。帰るの?」
しかしその行動は、降り注ぐ声にあっさりと取り押さえられた。
恐る恐る顔を上げた慧の前には、教室の出口を塞ぐように華凛が立っていた。
「か、華凛、ちゃん……」
いつの間にそんなところに――という驚きを心で押しとどめ、慧は華凛に相対した。
「慧、私達学年が上がったわ。となれば、活動を再開させるには良い頃合だと思うのだけど」
「ど……どういう、意味かな……」
慧は思わず目を左下に逸らす。
「慧」
次の瞬間、華凛は唐突に慧の両肩を掴んだ。
「ごめんね、長い間ほったらかしにして……でももう、それは許されない。武力行使でもなんでも良いから連れて行くわ。きっと、そのために神様が同じクラスにしてくれたのよ」
ほんの僅かな曇りもなく、まっすぐ慧を見据えてくる瞳。真剣な剣幕に恐ろしさを感じながらも、慧はどこか懐かしさを感じずにはいられなかった。
その時、慧は感じた。
常に気丈に振る舞う華凛。重しのように肩に置かれたその腕が、今、微かに震えている。
「華凛ちゃん……」
慧が声を発しても視線は外れない。しかし、その腕は確かに震えていた。
この震えはどういうことだろう。これまで部活を休み続け、逃げ続けたことに対する怒りだろうか。それなら恐怖に震え上がりたいのはむしろこちらの方だ。
しかし華凛の腕や瞳から伝わる感覚は、怒りや憎しみというものには思えない。これは何か、もっと別の――
「やってるっすね、おふたりさん」
不意に、飄々とした声が訪れた。その声の主に気づく頃には、慧は両腕を広げてまるで体当たりのような勢いで向かってくる体に、華凛と共に教室の出口から壁まで寄せられていた。
「でも、あんまり他のヒトの通行を邪魔しちゃ悪いっすよ」
声の主は豊だった。小さな体には不釣り合いなエナメルのバッグをもう一度背負い直す。
「ま、ここでゴタゴタしてないで、とりあえず行きましょうか」
そう言うなり豊は、追従を促すように歩き出した。
その行き先は、言われなくても慧には分かった。横に立つ華凛は慧の腕を掴んで離さない。こうなっては、もう力での脱出は不可能だった。