急襲
子供のように一切の邪気がない笑顔。
そんな顔を目の当たりにして、慧の心臓は妙にざわつく。
「どう、かな?」
桃枝は見上げるようにその顔をグッと慧に近づけた。ほんの少し歩み寄れば顔と顔が触れてしまうほどの距離。
「い、いや、その……」
桃枝の行為はまるで異性から告白を受けた時のような得体の知れない緊張をもたらすと共に、慧に迷いを生じさせた。
感情に任せて、欲望に任せて、桃枝について行ってしまいたいという気持ち。そこには入学時に描いた夢の形がきっとある。
「う、嬉しい……とっても、嬉しい……」
慧は細い声で呟く。しかし、心のイメージは発した声の通りではなかった。
桃枝の提示した果実を掴むべく伸ばそうとする心の手は、ゆっくりと引っ込められる。そしてまた伸ばそうとしては、同じように戻される。そんなイメージが繰り返されるばかりだ。
手が伸びようとするその度に、慧の頭には皆の顔が瞬間的に現れては消えていく。捺、直子、千春、優しい先輩たち――そしてあの日、まっすぐに自分を捉えて離さなかった凛とした瞳が。
残像はついに、消えてもなお脳裏に残り続けた。いくら頭を振ってもそれを完全に消し去ることは不可能だと慧は悟った。だから、あえて意識的に心の中へと目を向けないようにして、桃枝へ絞り出すように一言だけ告げた。
「か、考えとく、よ……」
「本当?」
その言葉を発した瞬間、桃枝は慧からすればもう限界というところの距離まで顔を詰めてきた。恥ずかしさのあまり、もはや目を合わせることも難しい。
「やった! 嬉しいなー」
そして桃枝はその顔をパッと離し、飛び上がりそうな満面の笑みを見せた。
本当ならその天上の喜びを共に分かち合いたい、と慧は思う。しかし、脳裏に残るモノがそれをひたすら拒み続けていた。
「あら、何やら賑わってるじゃない」
次の瞬間、声が気配もなくやってきた。その声に、慧はあっという間に突き刺された感覚に陥った。
「こんにちは。どうやら同じクラスらしいわね、嬉しいわ」
慧と桃枝の前に現れたスレンダー。学年中の目を惹く美少女にして華麗なプレーぶりで女子野球界を席巻せんとするその姿は、伊勢崎華凛その人に他ならなかった。
その、久々とはいえ見慣れたはずの威容を目の当たりにして何故か今、慧は思わず首が竦み上がってしまう。
ふと、華凛の目は桃枝に向いた。
「あなた、確か慧の友達ね。ウチのチームメートといつも仲良くしてくれてありがとう。これから同じクラスになるみたいだけど、宜しくね」
華凛は桃枝に親愛の証と言わんばかりに手を差し出した。しかしその言葉の端々にはどこか冷気が漂っているような気が、慧にはしてならない。
傍から見ればクールビューティーかも知れないが、今の慧にはその姿は悪魔の現界にしか見えなかった。手をとった桃枝の顔も心なしか強張っている。
「ところで、一体どのような話で盛り上がっていたのかしら。クラスメートとして興味があるわ」
さらりと、まるで天気の話でもするかのように華凛は核心を突いてくる。
「やっ……! そ、それは、そのー……」
先ほどまでのキラキラした輝きはすっかり失せ、桃枝はしどろもどろにどもった。
桃枝に華凛の心の内が分かるとは思えない。しかしそれでも、恐らく直感したのだろうか。今の立ち位置は良くないということを。
「伊勢崎サンはほんと、性格悪いっすね」
不意に、華凛の背後からひょっこりと姿を現した小柄な影があった。
おおよそ慧や桃枝と同じくらいの背丈。その影は、登場するや否やなんの悪気もなく桃枝に言い放った。
「申し訳ないっすが、若月さんに抜けられるとウチは試合に出られないっすからね。そう簡単に渡すわけにはいかないっすよ」
ストレートにそう言ったのは杉山豊。慧と華凛と構成される一学年トリオの最後の一人だ。もっとも、今日からは学年が上がってしまったため二学年トリオということになるが。
喧騒の廊下に現れた急な来客にただただ小さくなる桃枝をよそに、豊は慧の方を向いた。
「と、いうことで。どうやら自分も同じクラスらしいっす。まあ仲良くやっていきましょう」
「えっ」
何が『ということで』なのかは良く分からない。しかしそんなことはどうでも良く、ある一つの事実が慧の頭を支配した。
同じクラスなのは桃枝だけではない。華凛と豊。この二人ともクラスメートであるということ。慧はさまよう目線で眼前に立つ二人を交互に見比べるばかりだった。
すみません。
遅くなりました。