ゆらぎにゆらぎ
「うれしいなー慧ちゃん、また同じクラスだよ」
振り向く慧の耳に声が届いた。張り詰めたこちらの緊張を一気に緩和させる、どこか暖かみのある声。
「も、桃枝ちゃん……」
突然の肩叩きに驚いた慧の視線の先には、一年次にクラスメートだった日高桃枝がいた。
「二年生も楽しくなりそうだねっ」
桃枝は屈託なく笑った。その顔を見て、ようやく慧の頭は桃枝の言葉を理解できた。
「そっか、同じクラス、なったんだ……」
まるで独り言のようだと発言した後で慧は思った。細々と、消え入りそうなその声はしかし、しっかり桃枝に届いたらしい。無言の笑顔でリアクションをくれた。
「途中からあまり遊べなかったけど、今年はもっと遊びたいねー」
桃枝は臆面なく慧の顔を覗き込んでくる。本当に、心の底から嬉しそうな笑顔。
しかしそれは、これまで自分が塗り潰してきたものではないか。そんな自傷の思いが慧の心を鈍く削る。
「うん、また、よろしくね……」
またも独り言のように慧は返事をした。
桃枝は慧にとって大切な友達だ。しかし、慧は部活の時間を優先するあまり彼女と楽しく過ごせたはずの時をないがしろにしてしまった。
ふと、桃枝と目が合う。彼女はその笑顔を中断させ、首を傾げた。
「なんだか、元気ないみたいだね」
桃枝はイマイチ状況を掴めていないようだった。
それはそうだろう。慧が一人で勝手にあるかどうかも分からない傷を舐めているだけなのだから。それなのにいたずらに困惑させてしまっていることに申し訳なさを感じずにいられない。
「せっかくの新学期初日なんだし、元気に行こうよー」
こちらの独りよがりを意に介さずそう言って、桃枝は満面の笑みを再開させた。その雰囲気からは、どこかこれまでの彼女にはないような爽やかな風が発せられている気がした。
「も、桃枝ちゃんは、なんか元気だね……」
「そう見えるかな……うん、でもね。今、とっても楽しいんだー。文芸部のみんなは良くしてくれるし」
思わずそんなことを口にした慧に、まるでのろけるガールフレンドのような甘い笑みを桃枝は返した。
いつからか桃枝は決心し、憧れの文芸部への入部を果たしていたことは知っていた。しかし、それからあまり話す機会はなかったから、そこまで充実した毎日を過ごしているとは知らなかった。
内容を聞かなくても、この桃枝の顔がいかに今が満たされているかを雄弁に物語っていた。そして、その笑顔を見ていると、心のどこかにインクが滲むような感覚に陥った。
「……そうだ!」
瞬間、桃枝は何か閃いたように、彼女にしては大きな声を出した。
「ど、どうしたの……?」
「慧ちゃん、二年生になったことだし今度こそ文芸部に入ってみない?」
「えっ」
慧は絶句した。
「野球もカッコいいけど、こっちも楽しいと思うんだけどなー」
ウットリした口調で続ける桃枝の声は遠のき、その代わりに急激に高鳴る胸の鼓動の音が近くなる。予期せぬ一言に上がる心拍数。この感覚にはどこか覚えがあった。
停止しようとする脳を返事の文言を生み出すために必死で動かしながら、あるシーンが浮かんだ。それはライトを守っていてフライが飛んでくるシーン。
何となく、今の心音はあの時のものにどこか似ているような気がした。