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ハードシップメークス  作者: 小走煌
1 はじまり
9/227

くるしさ

登場人物


若月慧(わかつきけい)

高校一年生。文芸部へ入部する決意を固めたものの、野球部へ入部させられてしまう。


伊勢崎華凛(いせさきかりん)

高校一年生。慧を野球部に誘う。周囲の視線を奪う容姿の持ち主であり中学時代は名のある選手だったらしい。


天宮捺(あまみやなつ)

高校二年生。野球部部長。楽天的な性格。


近藤千春(こんどうちはる)

高校二年生。野球部副部長。生徒会副会長。


林直子(はやしなおこ)

高校二年生。基本的にテンションが高い。

 呼吸の自由が利かなくなって随分長い時間が経過している。

 両腕は痺れ、視界は点滅を続ける。

 足は前に出ることを躊躇っているようでいて、それでも仕方なさそうにゆっくり歩を進める。それに引きずられるように体も前へ前へと進行する。

 ――も、もう……むり……。

 晴れ渡る空、人通りの無い閑散とした住宅街の中、慧はそんな景観にそぐわない程の大量の汗を全身にかき、今にも倒れそうな状況に陥っていた。

 ――こ、こんなのって……ない、よ……。

 混濁する意識の中、慧は現在の状況に陥った経緯を思い出し、自らの選択をただただ悔い、恨み節を繰り返した。

 ――ふつうに楽しい、って……言ったのに……ぜんぜん……きつい、じゃん……。

 今からおよそ三十分前、慧、華凛、捺、千春、直子の五名が揃った部室にて、部長たる捺は皆に告げた。

「今日の練習は『ロードワーク』です!」

 直後、怪訝な表情を見せたのは直子だった。

「ま、マジで……?」

「そりゃもう」

 明らかに嫌がっている表情の直子とは対照的に、捺は当然と言わんばかりの調子だ。

「あ、あの……ろーどわーく、って……」

 言葉の意味が分からなかった慧は思わず捺に確認した。

「学校の外を走るのよ。いろんな景色が見れて楽しいわ」

 踊るような口調で捺は返答した。

「嘘つけ! キツいだけだよあんなの」

「あら、そんな中にも楽しみを見出だしていくのが良い練習じゃない?」

「いやいや厳しいって。なーんも考えられないね」

「しかしながら、直子」

 ごねる直子を制したのは千春だった。

「そんなに駄々をこねても、やるしか無いのですよ」

「へーへー、わかってますよ」

 千春からも小言を言われ、直子は観念したように鞄から着替えを取り出す。

「それならさ、どっちが先にゴールできるか勝負するってのはどう?」

 これから行われる練習を少しでも面白くしようと思ったのか、着替えのジャージを取り出しながら直子は提案する。

「おもしろそうじゃない。受けて立つわ」

「……私も参加しましょう。やるからには勝たせて貰いますが」

 捺と千春は迷いなく即答した。どうやら二人とも勝負事は好むタイプらしい。

「言うじゃないか。まあでもあたしがぶっちぎって終了なんだけど!」

「どうでしょうね」

 直子と千春が火花を散らす。その様子を尻目に、捺が声を掛けたのは華凛だった。

「華凛、あなたもどう?」

「……!」

 華凛は一瞬言葉を詰まらせた。ただの練習から競争形式に変化したロードワーク。競争への参加要請にほんの僅かに考え込む素振りを見せた華凛だったが、すぐに捺を見据えて一言返事した。

「はい。是非」

 華凛の快諾に直子が一層テンションを上げる。

「おぉーいいねいいね! それならケイちゃんもやっとくか!」

 慧は瞬間体を震わせた。華凛の参加表明を受けて喜びに浸るのかと油断していたところに唐突に届いた要請であったからだ。慧は必死に言葉を探す。

「え、えと……は、走るって……どれくらいの距離、なんですか……?」

 ロードワークが辛く苦しいもの、というイメージだけは充分に湧いているが、この練習の趣旨をまだ理解しきれていない慧は恐る恐る尋ねる。

「んー、距離ね……どのくらいなんだろう?」

「そうね。学校の周りをぐるっと回るわけだから……どれくらいかしらね」

 首をかしげる捺を千春がフォローする。

「学校の周り、とは言ってもかなりの外周になります。単純に見積もって十五から二十というところでしょうか」

「に、にじゅっキロ、で、ですか……!?」

 示された想定距離に思わず驚愕の声を漏らす慧。慌てて乱れた口調を整えた。

「でもまあ、走ってれば割りとあっという間よ」

「そうそう。ランナーズハイで、ねっ! ていうか、普通に楽しいって」

 ――そうかなあ……さっき嫌がってたような気がするけど……。

 ロードワークの利点を主張する捺と直子に疑念を抱かざるを得ない。どうにか要請を断る姿勢を見せようとする。

「でも、わたし……たぶんついていけない……」

「大丈夫よ。別に罰ゲームがあるわけじゃないんだし」

「えー? それじゃおもしろくないじゃん」

「あら、それなら私とあなたで何か設けようかしら」

「そういうこと! じゃあ帰りにアイスね!」

「あら、いいじゃない」

 二人で盛り上がる捺と直子の脇で伏し目になる慧。そんな様子を知ってか知らずか、華凛が隣に寄り添った。

「先輩に合わせる必要はないわ。あくまで自分のペースで走れば良いんだから、大丈夫よ」

 諭すように慧に告げる。その言葉は実態の見えない不思議な力を伴って慧に勇気を与える。

「そう、かな……やれるかな……」

 ほんの少し前向きな気持ちへと傾いた慧に対して華凛はひとつ頷いた。心配は要らないとその瞳が語っている。慧の不安は、その瞳によって大分取り除かれた。

「そ、それなら……」

 慧は顔を上げて捺を見る。それに気付いた捺は改めて問い掛けた。

「どう、いけそうかしら」

「……はい、やってみます」

 慧はゆっくりと承諾の返事をした。その言葉を聞いた捺は優しく微笑む。

「うん。それじゃあ行ってみましょうか」

「……はいっ」

 決意の表情で部室のジャージに着替える慧。華凛に背中を押されての決心だが、慧の心には耐えられる自信があった。

 そして現在、共に出発したメンバーはもう視界にはいない。ある者は競争意識により、またある者はランナーズハイ状態となり次第にスピードを上げ、並走する者は誰もいなくなってしまった。

「はぁ……っく……」

 呼吸は激しくなる一方。スタート時の自信は完全に消え失せていた。進む足は次第にスピードを緩める。体力的、そして精神的にどんどん追い詰められ、足の動きが緩慢になり。

 ――もう……いや……。

 気持ちの切れた慧はついに足を止めてしまった。両膝に手をつき、まるで大雨に打たれたかのように見紛う程の大量の汗をコンクリートに垂らす。

 スタート地点から二キロメートル程離れた住宅街の片隅。今回のロードワークにおける想定距離からすると最序盤と言えるが、この地点ですら慧にとっては充分過ぎる程の遠距離だった。慧は辛うじて頭を上げ、一区画先に車の停まっていない有料駐車場を見つけた。重り付きのような足を操作し、どうにかその場所にたどり着いた慧はパーキングブロックに腰掛けた。

「はあ、はあ……」

 荒ぶったまま止まない呼吸を続ける。目を瞑り、頭は真っ白になっていた。俯けた顔から垂れる短めの髪からは、液体が絶えず滴り落ちていた。

「こんなの、毎日続けるのかな……」

 平常時とはうって変わって掠れたような音が鳴る自らの呼吸を聞きながら、この辛さが常態化する恐怖を慧は感じた。背筋に悪寒が走る。

「泣きたいよ……こんなの毎日なんて……」

 大いなる不安を覚え顔を上げる。高いビルなど無い平穏な住宅街の隅からは、青い空が広範囲に見えていた。

「……はあ」

 そんな空を目の当たりにしながらしかし、慧は溜め息をついていた。心を支配するのは不安に次ぐ不安だった。次の瞬間反射的に頭を振り、心の曇りを振り払おうとする。しかし雲は残留し続け、髪の汗が代わりに払われた。

「……ん?」

 そのままふと辺りを見回した慧はある事に気付いた。

「ここ……どこ……?」

 見慣れぬ景色や建物。その風景は、慧の記憶にはインプットされていないものである事に気付いてしまった。

「そ、そんな……」

 狼狽える慧。思わず立ち上がり、進行しようとした方向へ歩く。

「こっちも、見たことない……」

 道に覚えの無い慧は引き返し、来た道を戻ろうとした。

「……あれ」

 しかし、その道もまた、慧には記憶のない道だった。慧の体と思考は一瞬停止した。

「え……どこ……ここ……?」

 完全に迷子になっているという事実を、ここに来て慧は実感した。次第に焦りの感情が顔を出す。

「おちつけ……そんなに遠くには来てないはずだから……戻ればなんとか……」

 引き返す行動を選択しようとした慧に一抹の不安がよぎる。

「でも、なんか感じ悪いかな……」

 一緒にスタートした他のメンバーはどんどん先に進んでいる事が想定される。道に迷っているとは言え、この最序盤で引き返してしまってはまるで怠けているように見えないだろうか。

「……でも、このまま進んで本当に道が分からなくなるよりはマシ……だよね。どうせ今からじゃ追いつけないんだし」

 知らない土地で迷子という現状がよっぽど堪えているのか、疲労で逆に頭が冴えたか、いずれにせよ体面よりも状況を改善する事を慧は選択した。

「よし……なら、ちょっとずつ戻ってけばたぶん学校も見えてくるはず……!」

 意を決した慧は、通って来た道の風景、その微かな記憶をどうにかたどりながら来た道を戻る。次第に最初の曲がり角に到達した。

「確か左、だったかな……」

 記憶から方向を決め進む慧。しかし次の瞬間。

「いたっ……!」

 何か強い衝撃にぶつかり、慧は尻餅をついていた。体を巡る痛覚を堪えながら、慧はゆっくり起き上がる。

「あっ……」

 その慧の目に飛び込んできたのは、腰をさすりながら立ち上がる一人の少女。

「おっ、ケイちゃんこんなとこにいたの?」

 随分前に視界から消え、レースを争っているはずの直子の姿だった。

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