のっているはずだが
体が急く。全天候型ドームだというのにそこかしこに漂う熱気にあてられる。「プレイ!」場内にけたたましく響く主審の宣言はもはや律儀に聞いてなどいられない。フライング気味に投球動作に移り、待ち焦がれた、恋焦がれた全国の舞台での第一球をキャッチャーミットにぶつけた。
壁や屋根に当たって反響する大歓声。そしてそれと共に判明したのは指の掛かりの好感触。つまり、今日の調子はすこぶる良いということ。
天神商業に入学してから初めて立つ全国の舞台。相手は全国屈指の激戦区である近畿を制した大阪・江坂高校。そんな相手とベストコンディションで戦える。これはもう、あまりにも恵まれ過ぎていて、神に感謝しなければなるまい。信仰心など普段は欠片もないが。
「――だって、こんな最高の舞台で、最高の相手をねじ伏せられる機会なんてそうそうないものね!」
歓喜の叫びはボールをより加速させた。このあたしの得意球、ツーシーム。『蛇』と名付けて愛でているこの必殺ボールを惜し気もなく放ち、カウントを有利にしていく。指の掛かり具合はいつしか快感に変わった。
しかし。
「なっ――⁉」
痛烈な打球があたしのグラブを掠めてセンターへと抜けていった。ノーアウトランナー一塁へと状況が変わる。
どうやら単調になり過ぎたらしい。努めてクールダウンし、二番バッターに初球を投じる。
「う、うそ……⁉」
直後、思わず声に出して叫んでいた。初球攻勢は三遊間を綺麗に抜いていくヒット。一番、二番共に『蛇』に対して芯を外されることなくヒットゾーンへと打球を運んだ。ノーアウトのまま、あっという間に得点圏へとランナーが侵略してきた。
不気味。あたしはふとそんな風に思った。いかな強豪だろうと、このボールは初見で打てるものではない。そう、あの憎たらしいアイツ以外は。
「……ていうか、あたしのボールを打てたんだからちょっとは嬉しそうにしなさいよ。ムカツク」
知らず、独りごちていた。思わずロジンに手が伸びる。
ランナー共の「打てて当然」と言わんばかりの無表情が無性に腹立たしい。これが練習試合ならもっと分かりやすく怒りを表現するところだが、カメラも回っていることだし止めておく。多少の呟き程度なら誰にも聞かれないから特に問題ないはずだ。ロジンを勢い良く地面へ叩きつけ、気を取り直した。
「……ん?」
続けざまにプレートへ足を掛けようとしたところで、あたしは主審が大げさに両手を広げていることに気づいた。加えて、本来しゃがみ込んでいるはずのキャッチャーがこちらに向けて走ってきている姿も目に入った。
「あんまりカッカしちゃだめだよ。もっと落ち着いて」
やがてマウンドに辿り着いた女房役のあやねは、普段通りのおっとりした声で囁いてきた。
「べっ、べつにカッカなんてしてないわよ……」
「いや、してるよ。分かるもん」
呆れたようなため息をつかれる。あやねの洞察力には一目置いているのだが、何でもかんでも言い当てられるとしゃくだ。
しかし、それとは別の観点で今はあやねに感心せざるを得なかった。何せこれはあやねにとっても初の大舞台なのだ。あたしは思ったことをそのまま口にすることにした。
「……それにしても、よくそんなに落ち着いていられるわね」
「あれ、もしかして緊張してるの? 柄にもなく?」
「う、うっさいわね!」
条件反射で反論する。だって緊張などしているはずもないのだから認めるわけにはいかない。
「おっけー、調子出てきたね」
あやねはクスリと笑った。
その時、気づいた。荒れた自分が普段の自分に戻っている。あやねが戻してくれた。
こういうところが、巧い。
「ところでユーリ……こいつら、けっこう危険かも」
ここからが用件なのか、不意にあやねの声色が変わった。
「やっぱり、あやねもそう思うのね」
「うん。だって、ボール自体は最高のものが来てるんだもん。さすが大阪の高校だけあってそもそものレベルが高い。簡単じゃないよ」
熱気から切り離されたような重い空気がマウンドに漂った。底の見えない相手にどう対応していくか。それだけを必死に考える。
沈黙を破り、あやねが口を開いた。
「……あれ、使っちゃう?」
その問いにあたしは即答出来ない。
あれは憎きライバルに引導を渡すための最終兵器。それゆえ秋の大会でも極力使用を控えていたのだ。それなのにこんな序盤で使ってしまうのか。
「待って。あれはまだダメ……別の方法で……」
あやねに回答しながら記憶が渦巻く。「色々と事情があって参加出来ていない」ついさっき聞いたあの冷ややかな声が耳に蘇る。それはせっかくあやねが追いやってくれた苛立ちも蘇らせた。あたし達高校生に与えられた残り時間は限られている。それなのに平気で出場を辞退するなんて。
有り得ない。許せない。だからこそ次に当たる時は全力で潰さねばならない。
「ユーリ、気持ちは分かるよ。でもね」
ふと、あやねの声が耳に届いた。冷静さを取り戻させる声にはしかし、ほんの僅かだけ不安の色が混じっている気がした。
「……でも、『蛇』と配球だけで凌ぐにはけっこうキツい相手かも」
あやねは俯いてそう言った。
あやねの分析力は絶対だ。それをもって導き出された答えがそうなら、あたしも受け入れなければならない。
――つまり、力を隠していてはそもそも目の前の勝利を奪い取ることが出来ない、ということ。
「……しょうがないわね、どのみち先制点はやれないし。それに、テレビ越しに今の力の差を見せつけておくのも良いかも知れないわね」
「おっけー、決まりね」
あやねはマスクを被り直してさっさと引き揚げていく。その足取りは心なしか、いつもより軽やかに見えた。
「アンタ、なんか楽しそうね」
思わず呼び止める。振り向いたマスクの奥には、柔らかな笑みがあった。
「だって初めての全国大会なんだもん。今の全力でいってどこまで通じるか、知りたいじゃない」
あやねは本当に楽しそうだった。あたしは丸め込まれただけで、もしかして単純にあの球を試したいだけなのでは。つい、そう疑ってしまう。
しかし、「知りたい」という気持ちはあたしも同じだった。純粋に、全力をぶつける。この高揚感に代えられるものはない。
ボールを握る右手には自然と力がこもった。