逃げ
「慧が来ない?」
私の報告を受けた捺先輩の声は、皆の雑談で和やかな空気の流れる部室同様に緊張感のないものだった。
「……はい、体調不良のようです」
私は努めて冷静に続けた。
でもそれは本当の情報ではない、とまでは報告しない。確証がない以上、いたずらに不安を煽っても仕方ない。私が慧を疑う原因となっているあの後ろ姿は、私しか見ていないから。
それでも、私の頭にはどうしても最悪の想像が浮かんだ。一切の自信を失くした抜け殻みたいな背中。考えたくないがあれは私の目には、慧がまるでこれから少しずつ野球部から離れていく予兆のように映ったのだ。
でも、それはあくまで私の思い込みでしかない。そんなただの妄想を相談したところでどうしようというのだ。
「そう、分かったわ」
淀む私の思いとは裏腹に、まるで意に介していないように報告を了承して捺先輩は着替えを始めた。
それで良い。慧も明日になったら案外ケロっとした顔で練習に参加するかも知れない。私は無言で一礼し、捺先輩や支度を始める周囲のチームメイト同様着替えに取り掛かる。
「ねえ、華凛」
その時、捺先輩が私を呼び止めた。今会話を交わしたばかりなのに何か別の用件でもあるのだろうか――そう思って見た先輩の顔は、今までの弛緩した顔ではなかった。
「悪いけど……慧のこと、それとなく見ておいてくれないかしら」
瞬間、声色が変わった。ある種の緊張感を帯びた声。まるで試合中のよう。
私は直感した。もしかしたら先輩もまた察したのかも知れない。慧の不参加は体調不良ではなく、どこか別の理由から来ているのだと。
「……分かりました」
私は一礼し、今度こそ支度へ戻った。着替えながら、ただの返事にしては深々とお辞儀をし過ぎたことに気付いた。
その日の練習中、そして帰宅してからも、慧の後ろ姿は私の頭から離れなかった。光景がフラッシュバックする度に不安がよぎっては消えていく。胸が苦しくなる。
やっぱり本人と話をしなくてはダメだ――私は明日も慧に声を掛けにいこうと強く決意した。
それから、慧の練習欠席は続いた。
放課後に教室へ向かっても、既にその姿はない。休み時間に立ち寄っても、うまい具合に教室にいない。携帯で連絡を取っても当たり障りのない返事ばかりではぐらかされる。まるで消耗戦のように、その空虚なやり取りは続いた。
私の心は揺らぎ始めた。
慧を練習に参加させたい。野球部の一員として共に戦いたい。
でも、それは本当に慧のためなのか。
慧はずっと辛かったのではないのか。それを我慢して無理やり私のワガママに付き合ってきたのではないのか。慧が本当に野球をやりたいのなら、こんな逃げ回るような真似はしないのではないのか。それならもう、慧の自由にさせてやった方が良いのではないのか。
でもそれは違う。その考えは、慧をどうしても入部させたかった自分の気持ちに対する逃げなのでは――
混濁する無為な思い。私はどうすることも出来ず、ただ時間だけが過ぎた。
刻々と、春の大会が近付いていた。