こそこそ
踏みしめる木目調の床、そして目に映るところどころ歪んだ並びの机と、恐らく前日のものであろう落書きがそのまま残っている黒板。たったの一日間隔を空けただけでも、教室のオブジェクトは随分と懐かしく感じる。
そんなみずみずしさをよそに、慧は息を潜め、存在を誰にも悟られないように授業を受け、昼食をとり、また授業を受けた。
理由は単純だ。練習を休む。それも、誰にも打ち明けずにひっそりと。対面すればまたややこしくなるから。
誰にともなく気を配っていると、いつの間にか放課後となっていた。努めて誰とも関わらないようにするのは案外骨が折れる行為だが、集中すればあっという間だ。慧は教室の壁掛け時計を見て短く息を吐いた。
しかし冷静に考えれば、校内の全員に見つかってはいけないというわけではなかったのかも知れない。
そう、悟られないようにすべきは――
「慧」
反射的に首をすくめてしまった。不意に後ろから届いたその声は、まるで自分を咎めに来ているような気配があったからだ。
恐る恐る振り向くと、そこには華凛が立っていた。
「どう、調子は?」
正面から向き合った華凛の目はしかし、慧が感じた声のイメージとは異なっていた。いつもの凛とした強さよりも別の色の方が濃いような、まるで何か不安でもあるかのような憂いの目。
しかし、慧はそれを詮索する気になれない。むしろ、意識して向き合わないようにした。全力で視線を逸らす。
「う、うん、ぼちぼち……」
絞り出した言葉は、半分本当で半分嘘だった。いや、今の言葉に真実の成分は半分も含まれていないのかも知れない。
「今日は練習出られそう?」
華凛からの二つ目の質問。
苦しい。
これから回答することは、恐らくこの友人の意思に背くことだろうから。
ああ、だから今日は誰にも会いたくなかった。こんな思い、したくなかった。
訪れる逡巡。
それでも言葉は外に出ることを選んだ。
「まだ……ちょっと悪いから、今日も練習、休むよ……」
嘘だ。
でも、嘘じゃない。きっと嘘じゃない――慧は心でそう呟き続けた。
華凛は暫く無言だった。息が詰まる。身も心も圧迫されるような間。一刻も早く逃げ出したい――そんな思考は、すぐに遮られた。
「そう、分かったわ。捺先輩には私から伝えておくから」
ゆっくりと告げてから最後に「お大事に」と華凛は言ってくれた。丁寧に、穏やかな口調で。
「ありがとう……じゃあ、これで」
小声でそれだけ言い残し、慧は早足でその場を立ち去った。
これで良い。
これで良い、これで良い、これで良い――歩きながら慧は呪詛のように自らを肯定し続けた。
こうやって回避し続ければ、誰にも迷惑を掛けずに済む。
ミスした瞬間のあの会場中からのどよめきと視線、そしてベンチからの視線。思い出したくもないあれをもう浴びなくて済む。
そこまで考えたところで、足は校門を通過した。
瞬間、慧ははたと立ち止まった。
不意に湧いた疑問、矛盾。
自分が嫌なことは、本当に『皆に迷惑を掛けること』なのか。
歯の奥にものが詰まったような感覚で、慧は随分と早い家路についた。
去っていく後ろ姿は儚げで。
いつも以上に弱々しく。
ただ、不安定だった。
「慧……」
私は視線を外すことが出来なかった。
その姿が視界から消えるまで、いつまでも。
いまにも倒れてしまいそうなその姿をいつまでも、いつまでも、ただ立ち尽くして、いつまでも見ていた。