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どこかであるかも知れないと思っていたこと

 街灯が照らす夜道を、慧は俯いて歩いていた。

 足元がおぼつかないのは、その暗さのせいなのか、はたまた別の原因か、あまり良く分かっていない。

 ピリリとした空気は、吸い込むとその冷たさが体内にまで染み渡ってしまいそうになる。確実に迫っている本格的な冬の気配を感じながら、慧はぼんやりと、今日起こった出来事を思い返してみることにした。


 朝。

 目を開けることすら他人の身体を操作しているかのように上手くいかない。全身をくまなく包む毛布の内部にさえ構わず侵入してくる冷気に心が折れそうになる。

 永久にこの場に閉じ籠りたがる気持ちに打ち克つのがどれだけ大変か。これから毎朝、このマックスの憂鬱を押さえつけながら生活しなければならないのかと思うとめまいがする。

 そんなことを考えながらも慧は家を出て、やがて学校を視界に捉えた。これ程までに足取りが重くても学校までどうにか辿り着くのは恐らく学生の性なのだろう、と眼前に迫った校門を見て思った。

 いつの日か学生でなくなったら、今度は社会人の性としてどうにか毎日会社に辿り着いているのだろうか。そんな将来のことなど全く想像出来ないし、考えたくもなかった。

 昼。

 教室の活気は最高潮だった。人の声がそこかしこに溢れてまるで騒音じみている。周りを見回すと、誰の顔も朝と全く変わらない。

 自分は朝の寒さをどうにかこうにか耐えてようやく昼を迎えることが出来たというのに、周りの皆には寒さによるテンションの下落のようなものは見られなかった。

 慧の目には、誰もが超人に映った。自分にとっては憎きものでしかないこの冷気が、このヒト達にとってはなんともないものなのだろう。

 そしてそれはクラスだけでなく部活でもそうかも知れない、と慧はなんとなく思った。

 放課後。

「そろそろボールを使った練習は控えなきゃいけないわね」

「そうですね、寒さが本格化していてここからは常に危険が付き纏います。しかしそうすると、オフシーズン用の練習メニューに切り替えなければなりません。その用意は出来ているのですか、捺?」

「バッチリよ。頭の中では大体仕上がってるわ」

「……流石ですね。時折無茶な発言をしますが、こと部活となるとあなたは充分に部長の役目を果たしていると思いますよ」

「ふふふ、もっと褒めても良いのよ?」

「あまり調子に乗るものではありませんよ」

「むぅ……」

 先輩達のいつもと変わらないやり取りが部室内で飛び交う。やはりここの皆も、寒さをなんとも思わない人種なのだろう。

「慧」

 不意に、背後から声を掛けられる。数少ない一年生メンバーの一人、華凛だ。

「他の部活は良く知らないけど、野球は冬になったら体力強化のメニューを中心にこなしていくのが一般的なの。恐らく捺先輩もそういうメニューを考えていると思うわ。今後は体力的にキツくなるかも知れないけど、頑張っていきましょう」

 その凛とした瞳はやはり普段と変わらない。本当に強い人だと思う。いや、華凛だけでなくこの場の誰もがそうだ。自分だけが、ほんの少しの気候の変化にも簡単に心を折られてしまう程に弱い。

 それでも、少しずつ、あの失敗の傷は癒えている気がする。

 チームを敗退に追いやったあのミス。しばらくの間脳裏に焼きついて離れなかったあのシーンを思い出す頻度はもう大分減っていた。

 それにホッとする反面、人間の恐ろしさというものを感じる。嗚咽すらしたあの出来事が、過去になろうとしている。こうやって全ての出来事が過去になっていくのだろう。なんとなく悲しい気がした。

 そして、練習が始まった。

「えー、そろそろ冬が近いので、ボールを使えるのも今年あとわずかです。今日はせっかくのグラウンド解放日なので、がんばっていきましょう!」

 ウォーミングアップを済ませ、少しずつ熱気を帯びてきたグラウンドに捺の号令が響く。

 今日は週に何回かやって来る、学校のグラウンドを利用出来る日だった。普段と違い外野のノックやバッティング練習も思う存分行える。

 だからといって嬉しいとは慧は思わなかったが、なにせ学園祭の影響でまともにボールを扱えていないのだ。グラウンドを広く使って身体を動かすのは良いことなのかも知れない。

「さっそくシートバッティングやりますか!」

 またも元気の良い部長の声が響き、手際良く準備が行われる。

 人数の関係上、キャッチャーの位置には網が設置された。そして一番手の打者を務める捺を打席へ残して、全員がそれぞれのポジションに就いた。

 定位置であるライトのポジションへ就いた慧は、久々の視点にどこか宙に浮いているような気分になる。しばらく構えていると、やがて打球が飛んできた。

 次の瞬間。

「あっ――」

 思わず声が出た。

 慎重に捕りにいけばなんでもないはずの正面のゴロ。だが今、慧はそれを弾いてしまった。慌ててボールを拾い直し、内野へと転送する。

 何事もなかったかのようにバッティング練習は続けられた。だが、慧の心臓は尋常でない音量で鳴っていた。ミスの原因を必死に突き止める。

 そうだ、きっと球足が予想以上に早かったために恐怖心が出てしまったのだ。今度はしっかり捕るようにしよう――

 どうにかそう結論づけたところで、今度はフライがやって来た。定位置よりやや後方。完全に目を切らずとも追いつける程度の距離。

 しかし、差し出した慧のグラブをかすめ、打球は転々とライト後方へ遠ざかっていった。

 心臓の鼓動はますます大きくなる。今度は捕球うんぬんの話ではない。落下点に上手く入れなかった。頭は最早原因を探ることをしない。ただ急いで離れていくボールに追いつこうとするばかりだった。

 たったの二球で慧は確信した。これまで出来ていたはずのことが出来なくなっている。

 それも、自分だけ。周りの皆にはおかしい点はどこにも見当たらない。

「次、慧、入ってー!」

 そうこうしている内に、自分の番がやって来た。交代でポジションを離れ、急いで打席へと向かう。

 焦って準備を済ませ、バットを構える。そのタイミングを見計らったようにマウンド上の梓はボールを投じてきた。それは実戦で見せるキレのあるボールではない。完全なる練習用の緩い球。

 しかし、バットに当たらない。一球目、空振り。

 続く二球目、空振り。

 三球目。空振り。

 繰り返される空振り。守備時に跳ねた心臓は、またも大きく高鳴った。焦燥の気持ちが急激に膨らんでいく。

「どうしたどうした、慧ちゃん調子出ないねえ!」

「まあ学園祭もあったし忙しかったからね」

 優しい賑やかしの声がまるで冷やかしのように聞こえる。

 頭がぐるぐる回る。


 ほんの少し練習しなかっただけでここまで何も出来なくなるの――?

 学園祭で忙しくなって、練習しなくてラッキーくらいに思っていた。それがふたを開けるとこの有り様。

 これって、ただみんなに迷惑を掛けるだけの存在なんじゃないか。ただでさえ試合に出るのも嫌なのに、その上迷惑を掛けるくらいなら――


「あ、あの……」

 次の瞬間、慧は部長である捺に向かって手を挙げていた。ほとんど無意識に。

「ちょっと、体調が悪いので……早退して、いいですか……」

 言った後で心臓がまた高鳴るのを感じた。皆の視線が怖い。顔を上げられない。

「なるほど、そうだったのね。それはまずいわ。無理しないでしっかり休みなさい」

 いつも通りあっけらかんとした捺の声が聞こえる。他の皆も温もりのある声を投げ掛けてくれる。

 そんな声を背に、少しの安堵と多大な罪の意識を感じながら、慧はグラウンドを後にした。


 視線が暗い足元に戻ってきた。直後、シューズに水滴が落ちるのが見えた。

 そこでようやく、足元が良く見えないのは目に溜め込んだ涙が原因なのだと分かった。

 俯いた目にしがみつけず、涙は次々に落ちていく。なんの涙かは良く分からない。慧の脳裏には今日の練習のシーンと、忘れかけていた敗退時のシーンがひたすらフラッシュバックしていた。

 ただの練習でこれだけしか出来なかったら、また大事なところでミスをする。

 何も出来ない自分は本当に役立たずだ。

 ならもう、試合に出たくない。野球、したくない。


 次の日、慧は学校を休んだ。

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