さわがしさ
登場人物
若月慧
高校一年生。文芸部へ入部する決意を固めたものの、野球部へ入部させられてしまう。
伊勢崎華凛
高校一年生。慧を野球部に誘う。周囲の視線を奪う容姿の持ち主であり中学時代は名のある選手だったらしい。
天宮捺
高校二年生。野球部部長。楽天的な性格。
近藤千春
高校二年生。野球部副部長。生徒会副会長。
林直子
???
若月慧は考えていた。
やってみたい事が目の前にある時、必ずやりたくない事が側につく。この事象は一体何なのだろう。やりたくない事には大体何かしらの強制力が働き、やらざるを得ない状況になる。そうするとやりたい事が何も出来ず、立ち行かない状況に陥る。何故こうなるのか。答えの出ぬ問題に慧は頭を捻り続ける。
「……」
慧は現在の状況を再確認した。慧は今、自らの意思と関係ない力で野球部の部室へと近付いている。本来なら教室に残り、新しい学友と共通の趣味で盛り上がっていたかった。しかしこの状態では最早それは行えない。
「……」
慧の手を引き無言で廊下を歩く同級生の生徒、伊勢崎華凛。この背の高い少女こそが、慧をこの思考へ陥らせるきっかけを作った張本人である。華凛の誘いを断れなかった事に起因して今の状況がある。あの時自らの意思を明確に示していればこのような葛藤は無かったはずなのだ。
「……」
見れば、無言で慧の手を引き続ける華凛の左肩にはショルダーバッグが掛かっていた。野球というスポーツ自体はもちろん、その道具についても疎い慧だが華凛のそれは恐らく着替えなど野球用具格納用のバッグなのだろうとなんとなく直感した。
対して慧は今日もまた、何の道具も持ち合わせていない。そもそも前段階で華凛とは熱意が違うのだ。
――まあ……それはあたりまえか。
自分をこの部に誘ってきたのは華凛であり、誘われた自分はあまりやる気が無いのだから意識の違いは当然だと慧は諦めの思考に落ち着いた。しかし、どうしても腑に落ちない事があった。
――でも、華凛ちゃんはなんでわたしを……。
一度は意識の底に追いやられた事項が頭をよぎる。何故華凛は自分を入部させたのか。昨日華凛はその問いに答えてくれなかったが、やはり慧としてはこの一点が気になった。自分が野球部に入ったのは華凛に請われたからで、自分である必要が無ければそもそもこうしている事も無いはずだ。慧は今一度華凛にその理由を尋ねようとした。
しかし、まるではかったようなタイミングで華凛が会話を始める。
「さっきの子、仲良さそうだったじゃない」
慧は意表を突かれ、しどろもどろに返答する。
「は、話したのはさっきが初めてだったんだけどね……」
「そう」
「話してみたらなんか趣味が合ってて……つい盛り上がっちゃって……」
「へえ……何の話?」
「えっ? えーっと……さ、最近の、本の話、とか……」
「ふーん、アンタ本読むのね」
「う、うん……」
「良いのあったら何か貸してよ」
「えっ!? ……い、いい、けど……」
「……なに、私が本を読むのがそんなに意外?」
「あ、や、そ、そんなわけじゃ……」
慧はたじろぐ。華凛の様子は、先輩達と接している時間が長かった昨日と違い、良く言えば肩の力が抜けた、悪く言えば少々図々しい、そんな雰囲気を醸し出していた。本を読むイメージなど清楚な華凛にこの上無く合致するものだが、先輩に対するどこか肩に力の入った礼儀正しい姿勢からうってかわってフランクな接し方をされると、それが既知のものとは言え慧が戸惑うのも無理はなかった。
しかしいずれにせよ、単純にオススメの紹介を請われれば黙っているわけにはいかない。直前に自らがしようとした質問も忘れ、慧は華凛に本を用意する意思を示した。
「……こ、今度、持ってくるね」
「ふふ、ありがと」
短く笑みを浮かべる華凛の横で、今日は帰ったら自らのコレクションからの厳選作業を行わなければならないと決心した。
「……着いたわね」
そうこうしている内に二人は部室の前に辿り着いた。まだ昨日今日の出来事で慣れていないからか、妙な緊張感が漂っているように慧は感じた。そんな様子をよそに華凛は昨日のような調子でドアをノックし、続いて一声掛ける。
「失礼します」
すっかり礼儀正しいモードに切り替わった華凛は中からの返事を待たずにドアを開ける。ドアは昨日同様鍵が掛かっていない。千春にどやされる捺の様子が思い起こされ、いたたまれない気持ちになる慧。華凛はドアの鍵を気にする素振りを見せずに黙って部室内に歩を進める。慧もその後に続いた。
「……!」
直後、二人を迎えたのは想定外の光景だった。あれだけ整然としていた部室が見る影も無く、乱雑な様相を呈している。ロッカーはいずれも開け放され、中央の机には本が散乱している。
「い、一体何だっていうの……」
「こ、これって……」
部室の異変に二人揃って声を上げる。そのあまりの変わりように、さすがの華凛も冷静さを保てないようだった。焦るように周りを見回す。
「あっ、あそこ……!」
慧は思わず大声を出した。何か動いているモノに気付いたのだ。ドアから向かって左側に位置する本棚の方から絶え間無く物を漁る音がしており、そこにはひとつの人影があった。
「う、動かないで……!」
華凛が声を絞り出して人影を威嚇する。しかしその腰は引け、体は震えていた。慧はそんな華凛の更に後ろに回って怯えきっている。
やがて人影が慧と華凛にその姿を現した。
「ん……?」
立ち上がった影は二人と目が合った。
華凛よりやや高い背丈に、お世辞にも整えられたとは言い難いボサボサとした長髪をたたえている。全体的に身だしなみはしっかり整えられているものの、その長髪のおかげでどこか野性味溢れる印象を与えている。校章は青、つまり二年生である。目が見えていないのか、細い目をさらに細めてこちらを覗くように見る。
「一年生……? もしかして入部希望かな?」
入部希望、というフレーズに華凛が反応する。
「い、いえ……希望では無く、既に先日入部をさせて頂きました」
上がっていた心拍数を抑え込むように華凛が回答する。質問の内容からその人物が野球部の部員であるという事に確信を持ったのか、華凛は安堵の溜め息を吐いた。慧は後ろで華凛に倣うように息を吐いた。
「なら後輩ってことじゃん! ついに現れたか……いわゆる救世主!」
突如としてテンションを上げる二年生女子に慧と華凛は反射的に半歩後ずさった。
「あたしは林直子! よろしくおふたりさん」
「伊勢崎華凛です。宜しくお願いします」
「わ、若月、慧、です……」
「はい、どーもね。なら手始めにちょっと手伝って欲しいことが……あるんだよねえ……」
そう言いながら林直子と名乗ったその女性は辺りを見回す。そこには凄惨を極めた部室の姿が横たわっていた。
「こ、これを、片付ける、と……」
「……イエス!」
珍しく返事がたどたどしい華凛に直子は全力で答えた。
「分かりました。しかし何故、部室はこのような状況に……?」
切り替え早く、早速机に散乱した本を手に取る華凛に直子が語る。
「いやー、国語の教科書どっかに置いたはずなんだけどね。今日授業あったのに持ってなくて困ったよホント」
「そ、そうですか……教科書は見つかったんですか?」
「いや、なかった。これはもう家だね!それしか考えられない」
「そうですか……」
飄々とした直子の様子に圧倒される華凛。そんな様子を見ながら、慧はこの乱雑な部屋をどこから片付けるべきか思案していた。しかし間髪入れず直子が呼び寄せる。
「ちょっとこっち来て!」
「は、はい……!」
反射的に小走りで直子の元へ駆け寄る。そこにひとつの本が差し出された。
「これ読んだことある?」
「……」
見れば、大分昔の野球漫画のようだった。今は存在していない出版社のコミックスである。
「よ、読んだことない、です……ずいぶん昔のですね……」
「そうそう! そーとー昔のね。あたしが前置いといたのがこんなところにあった。懐かしいなーと思ってね」
「はあ……」
「この熱血展開が面白いんだって! そしてなんと言ってもたったのひとコマで笑いを取れるこの画風! ほら、このコマとか」
前時代的なその漫画を熱心に薦める直子に圧され、しぶしぶページを覗き込む慧。しかし、そのコマの可笑しさに思わず吹き出してしまう。
「こ、これは……おもしろいですね……」
「でしょ!? ひとコマで笑いを取れるのもそうないよ」
「ほ、ほんとに、おかし……」
慧は腹部の痛みを堪えるのに必死だった。その横で直子もゲラゲラ笑う。
「あ、あの……片付けは……」
笑いから抜けられない二人を心配そうに見ながら華凛がおずおずと割り込む。しかし一向に止む気配が無い。
「はぁ、はぁ……いやヤバい」
直子がようやく回復の兆しを見せた。
「どうよほら、一回見てみなって」
「い、いや私は……」
しかし、その回復は華凛をも毒牙にかける為のものだった。華凛は三歩程も後ずさりをして拒否の姿勢を見せるが、直子は容赦なく距離を詰める。そして華凛の両手に件の漫画が手渡されようとした時。
「…………直子!!!!」
これまた容赦の無い怒号が部室内に響き渡った。直子の動きが急停止する。
その声は、部室の入り口に仁王立ちしている部内きってのきれい好き、近藤千春から発せられたものだった。
「……いや、教科書があると思ったんだって!」
「知りません。こんなに散らかす必要はどこにも無い筈です」
「ぬぬ……」
直子に辛辣な対応を取りつつ、みるみるうちに部屋中に散らばった物という物を端から片付けて行く。慧と華凛の出る幕も無く、やがて部室は本来の整然とした姿へと戻った。
「これで良し、と」
「す、すごい……」
その手際の良さに、思わず慧は感嘆の声を上げた。
「でしょ? もう整理整頓といったら千春様の右に出る者は……」
「調子に乗るんじゃありません!」
「はい……」
勢いづく直子を諌めた千春は慧と華凛に向き直る。
「すみません……昨日から度々騒がしくしてしまって」
「いえ。にぎやかな方が楽しいですから」
「この直子が、本当に粗相を……」
「別に二人には迷惑かけてないよ!」
「充分に迷惑です!」
「ぬ……」
「……まあこのように騒がしい人間ではありますが、実力は折り紙つきです。彼女もセンターなので伊勢崎さんとは話が合うかも知れません」
「……!」
華凛が驚いたように息を呑む。
「ああ、そうそう。捺から聞いたよ。凄腕のセンターだったんだよね。よろしくね、かりんち!」
「か、かりんち……?」
「あだ名だよあだ名。そうカタくなんないで」
「あ、ありがとうございます……」
あの華凛が押され気味。現在進行形で珍しいものを目の当たりにしている気がした慧が目を丸くしていると、直子は慧に向き直った。
「ケイちゃん」
「は、はいっ……!」
「いや、普通か……?」
反射的に返事をする慧を気に留めず、直子は顎に手を掛ける。
「まぁいいや。よろしくケイちゃん」
「は、はい……よろしくお願いします……」
慧には特に捻りの無いあだ名が付与されたが、どうやら直子はそれで満足したらしい。一仕事終えた表情をして華凛と慧の肩を交互に叩く。独特のテンションに二人は困惑しながら笑みを作ったが、それは愛想笑いと言えるレベルのものだった。
やがて部室のドアが開かれ、一人の女生徒が姿を現した。
「あら、直子。来てたのね」
その姿は野球部の部長たる天宮捺のものだった。
「んー、ちょうどあいさつ終わったとこ」
「そ。紹介の手間が省けてよかったわ」
捺は事もなげに言い、肩に掛けた鞄を下ろし、着替えとおぼしきジャージを取り出す。
「さ、今日はロードワークよ。みんな準備しましょ」
「えー、それか……」
直子が渋い表情になる瞬間を目撃した慧を言い様の無い不安が包む。
――ろーどわーく……ってなに?
言葉の意味は分からないが、恐らく良いものではないと本能が告げた。