華凛ちゃんは挑発に乗りやすい
最近にしては珍しく、長い雨が降った。
登校時点で小雨だったそれは、昼食時には強い雨へと変わっていた。
今日はグラウンド使用日にあたるが、これほどの雨ではとても屋外での練習など不可能だ。そうした場合、屋内での体力強化メニューへと移行するのが通例である。
しかし、主将である捺はチームの現状を危惧した。秋の県大会で敗退してからまだそこまでの期間が経っているわけではない。必然、メンバーの疲れは未だに残っている。ならばこれがひとつの機と捉え、昼休みには練習自体を休みにするという決断を下し、全員へその意思を伝えた。
そして放課後。
休みの連絡を受けた慧の心は軽い。チャイムが鳴った途端に手際良く帰り支度を始める。
誰にも言えないがここ数日は本当に辛かった。あの試合は自分のミスで負けた。誰が何を言おうと、それは事実として残っている。
野球部のメンバーは皆、優しい。試合後はこぞって励ましの言葉をかけてくれたし、普段はどうしても畏怖してしまうあの清までもが今回は照れくさそうに『ドンマイ』と言ってくれたのだ。
しかし慧は怖かった。
それは結局うわべではないのか。自分がミスをしなければもしかすると勝っていたかも知れない。どれだけ皆が取り繕っても、それは大きな可能性としてある。それならば、怨嗟の思いが皆の中に潜んでいてもなんの不思議もない。
だいたい自分は野球を始めてまだ数ヵ月の素人だ。これならまだ、野球を知らなくても運動神経の良いやる気ある人材を連れてきた方が幾分かマシだーー今、皆にはそんなふうに思われているのではないか。
鬱々とした想像はきっとこのままどこまでも続く。しかし、降り注ぐ雨はそんな心を洗ってくれる。体も休まる。本当に嬉しい。今日はさっさと帰って、溜めていたマンガでも消化しようーー
「慧、ちょっと」
そんな慧の思考は、不意に訪れた良く通る声に遮られた。声のした方へ振り向くと、教室の外から華凛が手招きしている。
「ど、どうしたの……?」
わたしはこれから帰るつもりなんだけどなーーという二言目をどうにか心に仕舞った慧は、急いで鞄を背負って教室を出る。直後、華凛が発したのは意外な言葉だった。
「今日、これからゲーセン行かない?」
「げ、ゲーセン……?」
慧は思わず聞き返した。その言葉の意味は慧ももちろん知っている。老若男女問わず多くの人間が訪れることで日夜活気に溢れる『ゲームセンター』の略語。しかしまさか華凛の口からその単語が出るとは思いもしなかった。
「そう。今、新作が出てるのよ。前からやってみたいとは思ってたけど、行く機会がなくてね」
華凛は事もなげに答える。新鮮だ。まさか華凛の日常生活における行動の中にゲームセンターへ行くという選択肢が存在していたなんて。
「……わ、わかったよ……行こう」
慧は華凛の提案に賛同することにした。このような面を知ってはどことなく断りづらい。それに、ゲームセンターなら慧も好きだ。案外楽しめるかも知れない。
「決まりね。じゃあ行きましょう」
華凛はひとつ頷き、軽快な足取りで校門を目指す。かくして、二人は街一番の遊技場へ向かうのだった。
「これこれ。最近バージョンアップしたのよね」
華凛は部活中には見られないリラックスした表情で踊るようにフロアの奥に位置するひとつの筐体の前へと立った。そこには物騒なデザインをした宣伝用の台紙がところ狭しと踊っている。
そのエキゾチックな風景に、慧は見覚えがあった。それは今流行りの格闘ゲームだった。数多の作品が世に出ているこのジャンルにあって、最大級のシェアを誇る人気作の最新バージョン。人間だけでなく四足歩行の猛獣、果ては戦車や大木などといった動物以外のモノまでプレイヤーキャラとして操作できる破天荒さが人気の秘訣だ。
「じゃ、早速やりましょう。もちろん一人プレイじゃなくて勝負だからね」
そう言うや否や華凛は筐体の反対側へと回った。
完全にやる気だ。いったいどれほどの腕前かは分からないが、ここまで来た以上、慧もそれに応じなければならない。華凛がプレイを始めたことを確認しコインを投入する。慧から乱入する形でゲームがスタートした。
そこからおよそ一分。
「や、やるじゃない……」
慧の方へと戻ってきた華凛はよほど苦しいのか、呼吸が乱れていた。額には、この涼しい店内にあってなおうっすらと汗が滲んでいる。
「でも、見てなさい……次はこうはいかないんだからねっ……!」
大袈裟に慧を指差し、また反対側へと戻っていった。
第一試合は、控え目に見ても慧の圧勝だった。一試合、計三ラウンド、華凛は慧に対して何もできなかった。それもそのはず。慧もまたゲーム全般を得意分野としているのだ。
「いい、今度はこっちがアッサリ勝ってやるんだから!」
筐体の向こう側から大声が聞こえる。続けざまに華凛の使用キャラが乱入してきて、そのまま試合がスタートした。第一試合同様、テンポ良く慧の繰り出す技が決まっていく。一ラウンド目は危なげなく勝利し、二ラウンド目も難なく華凛が操作するキャラを沈黙させた。
そして三ラウンド目。
「あっ、しまっ……!」
慧は思わず短い悲鳴をあげた。試合自体は問題なく慧の勝利、それも相手から一切のダメージを受けないパーフェクト勝利という勝ちの最上級を手に入れた。
しかし慧は試合直後、誤って『挑発ボタン』なるものを押してしまった。筐体脇に設置してある簡易説明書によると、このボタンは文字通り単純に相手を挑発したい時に用いるものらしい。ご丁寧にも、そのボタンは一作目から存在する伝統の機能として紹介されている。となれば、シリーズに精通している様子だった華凛がこの要素を押さえていないはずがーー
「な、なかなか達者じゃない……挑発までしてくれちゃって……」
「ひっーー!」
慧は思わず二度目の短い悲鳴をあげる。いつの間にか華凛がすぐ側に立っていた。
これだけやれるってことは経験者なのかしら、とブツブツ小声で呟く華凛の目は虚ろになっていた。唇や全身がわなわなと震えているのが分かる。これは怒っている。間違いなく。
「か、華凛ちゃん、ごめん……最後のアレはわざとじゃ……」
「今度こそボコボコにしてやるからね! 覚悟しなさい!」
そのリアクションからこちらの話などまるで聞こえていないことが分かる。このままでは、華凛のボルテージだけが独り歩きしていってしまう。
「ほう。若月サン、格ゲーやるんすね」
「⁉」
不意に、耳に馴染みのある声が熱の溢れる場に涼しく響いた。二人はハッと振り返る。
「伊勢崎サンまでいるじゃないっすか。二人とも、たまの休みに羽を伸ばしに来たんすね」
声の主は豊だった。飄々とした様子で歩み寄ってくる。
「ゆ、豊ちゃん、どうしてここに……」
「いやね、練習休みになったんで遊びに来たっすよ。二人で来てるんなら呼んでくれれば良かったのに水くさいっすね。といっても、こういうところで遊ぶだなんて知りませんでしたが」
豊もどうやら自分たちと似たような理由でこの場を訪れたらしい。確かに、せっかくなら同じ一年生同士ということで声の一つでもかければ良かったのかも知れない。
「で、でも、良かったよ。遊ぶメンバーが増えて……」
この騒々しい店内ではいささか聞き取りづらい小さな声になってしまう慧だが、その目には僅かに明かりが灯る。
そう。この状況は慧にとって救いの手となり得るのだ。豊ならあるいは華凛の沸騰を止めてくれるかも知れない。豊の独特な物腰は、どこか皆を落ち着かせる空気を持っている。この危険な状況でも、豊が現れたのならきっと鎮火してくれるだろうという期待を十分に抱かせてくれる。
「ところで二人ともこのゲームやるんすね」
豊は何気ない様子で、慧が座っている筐体を指差した。画面ではちょうど手放ししていた慧のキャラがCPUにKOされ、タイトルコールが再び流れ出したところだった。
「ええ。やるわよ」
何か問題でも、と言わんばかりに華凛は豊を睨み返す。今にも誰彼構わず噛みつきそうな空気を発していた。
豊ちゃん、なんとかしてーー慧は天に祈った。
「いえ、このゲームなら自分もイッカゴンあるんでちょうど良いと思っただけっすよ」
しかし、豊の反応はそんな慧の思いに黄信号を灯すものだった。華凛を睨み返す豊の声には剣呑な響きが含まれている。『ちょうど良い』とはどういう意味だろう。慧の中で嫌な予感が強くなっていく。
「どうっすか、伊勢崎サン。自分と勝負してみますか」
慧は悲鳴を上げそうになった。よりにもよって豊は自ら華凛へ挑戦状を叩きつけた。相当な自信があるのか、豊に臆する様子は微塵もない。
「……面白いじゃない。今の私に勝負を挑むなんてね。その度胸だけは買うわ」
無論受けてたつ、と言わんばかりに華凛は鼻を鳴らす。その様は獲物をとって喰らう虎の如しだ。
「最近は練習に試合に、忙しかったっすからね」
「そうよ。たまには発散していかないとね」
「ええ。それにしても一年生どうし、こうやって水入らずってのもオツなもんっすね」
「そうね」
一見和やかな会話とは裏腹に、筐体を中心とした一画は危険な空気に包まれる。慧の目は、二人の視線がぶつかった瞬間に散る火花を捉えた。
「ちょっと‼ 今のはナシでしょ‼ ふざけないでくれる⁉」
「ふざけてんのはそっちでしょ‼ 勝つためならなんだってやるのが勝負として当然でしょうが‼」
筐体を挟んで行われる罵声の浴びせ合いは、騒音著しい様々なゲームにも全く負けていなかった。
水入らずとはいったいなんだろう。いや、内輪の集まりだから意味として間違ってはいないのかーー慧はそんなことを考えながら、二人のやり取りをいつまでも見ていた。燃え盛る二人を冷やせるものは、もはや何もなかった。未成年がいられるギリギリの時間まで続いた二人の戦いを慧は最後まで、最終的には無心になって見届けた。
三人が退店した後には、くたびれたようにオープニングムービーを垂れ流す筐体が残るだけだった。