香椎東対柳川女子⑱
「次が控えてるわ。とりあえず出ましょう」
捺の号令が掛かったのは、試合後の整列を終えて皆がベンチへ引き揚げた瞬間だった。チームを纏める主将は、直前までの熱気をあっさりと仕舞って事務的に振る舞う。香椎東の敗退により次なる持ち主を待つベンチでは、早急に片付け作業が行われる。
慧は自分の荷物を纏めたうえで、座席の下や隅の部分を徹底的にチェックした。たった一つのボールに至るまで忘れ物は無いかどうか、細かく確認する。
その働きの甲斐あってか、さしたる混乱も無く速やかにベンチを綺麗にすることが出来た。皆はそのままベンチ裏の狭い通路を通り、球場外へと向かう。皆が歩くことで通路に短く出来た列の最後尾に、慧は付いて行った。
やがて球場外に脱出した一行は、その外周部分、通行人の邪魔にならない空きスペースに荷物を下ろす。そのままチーム全員で円陣を組んで、その場に腰を下ろした。
邪魔にならないよう隅に寄ったものの、道を通る人は見当たらない。そのせいか辺りはとても静かだった。せっかく試合後の喧騒が忘れさせてくれそうだったのに、それが無くなるとまた試合のことを思い出してしまう。
「お疲れ様。惜しい試合だったわ」
そんな慧の思考を遮ってくれたのは捺だった。淡々と喋り始める様子は普段の彼女と全く変わらない。ふと周りを見回すと、話を聞こうと真剣な表情のメンバーもいれば、放心したように俯いているメンバーもいる。話し手とは違い、受け手の姿勢のほとんどは普段とは少し違った。
「結局一点も取れなかったけど、県内最強のピッチャーを程々に追い詰めることは出来たんじゃないかしら」
私なんか敬遠されちゃった、と捺は無邪気に舌を出す。その姿からは悲壮感が全く伝わってこない。
「……でも」
その陽気な調子を遮るようにポソリと呟く声が円陣に響く。スピーカー役を務めていた捺は口を止めて、その続きを待った。
「あれはちょっと打てなかったなあ。本当に全部の球が超一流、って感じだった」
ゆっくりと述懐を始めたのは直子だった。すっかりしおらしくなったその雰囲気は、普段のイメージに似つかわしくない。
「ああ。ストレートだけじゃねえ、変化球のキレがどれも半端無かった。スライダー、シンカー、カーブに緩い球……まだあったか?」
直子の感想に同調した清は、今日の対戦を思い出すように指を折って数えた。
「……恐らく、各個人への配球を洗い出せばもう少しあるでしょうね」
「そうだね……わたしも色々投げられたけど、どれも打てる気がしなかったよ……」
清の問い掛けには千春と文乃が重い口調で答えた。この激戦に疲弊したのだろう、二人とも顔に苦悶の色を浮かべていた。
慧は改めて皆の様子を窺う。普段と全く変わらないように見えるのは、捺とその横にいる梓くらいのものだった。その他のメンバーは、大なり小なり疲労が見て取れる。
「ま、トップレベルは伊達じゃないってことね。並のチームならストレートだけで抑えられてたかも知れないわ」
捺はあくまでサバサバした様子で、各人の感じたことを纏めようとする。
「まるでウチは並のチームじゃない、みたいな言い方っすね」
しかし直後、それを遮る声が円陣中に響き渡った。皮肉を込めたような薄笑いと共に、俯けていた顔を上げたのは豊だった。
「変わんないっすよ、他のチームと。むしろウチくらいじゃないっすか、こんなバタバタ三振食らうのは? 三振だけで一巡なんかしちゃってるし、合計数なんか数えたくもないっすね」
豊は明らかにこの試合結果に不満を持っているようだった。この場の誰よりもカリカリしている雰囲気が慧にも伝わってくる。
「……いいえ。そうとも限らないわ」
湿った空気を裂く凛とした声。真っ直ぐな瞳で豊を見据えるのは華凛だった。
「アレは明らかに常識を超えていた。まともにやり合うには天神商業レベルの打線が必要だと思うわ……私達は、ギリギリの戦力でやれることをやった筈よ」
ゆっくりとした華凛の話し方は、どこか自分に言い聞かせようとしているようにも聞こえた。ふと、慧は華凛に向けていた視線を下げた。
華凛の手は震えていた。懸命に拳を握り、どうにか震えを止めようと堪えている。
そうなのだ。華凛はこの試合、最後の打者だった。悔しくない筈が無い。
しかし、華凛に向けた同情の気持ちを慧はすぐさま塞いだ。華凛がここまで気持ちを堪えているのも、もとはと言えば自分がーー
「確かにそうかも知れないっすね。でも、それじゃあ結局、ウチらじゃ勝てないってことになるじゃないっすか」
そんな慧の思いなど知るよしもなく、豊は声のトーンを上げる。華凛を始め、誰も豊の言葉に口を挟む者はいない。場は再び静かになった。
「……それに、あの投球はピッチャーだけのものじゃない。キャッチャーあってこそのものっすよ」
豊は悔しさを押さえ込むように唇を噛む。
「それもインサイドワークだけじゃない……あの打撃は一人だけランクが違った。隠れたチームの心臓っすよ、アレは」
豊は相手ピッチャーでは無くキャッチャーへと目線を移した話をする。同じポジションだから、ということがあるのだろうか。
「確かにそうね。あのキャッチャーが打線と配球を支えていた。しかも、まだ一年……負けてられないわね、豊」
「⁉」
不意に捺から名指しされたことが想定外のことだったのか、豊は目を丸くする。
「……ハッ、その前にチームで負けてちゃ世話ないっすよ」
吐き捨てるようにそれだけ言ってそっぽを向く。豊はそれきり黙ってしまった。
その瞬間、慧は豊が唇をもう一度噛むのを見た。そこには明確な悔しさの感情があった。
外からは見えない他のメンバーの感情も、きっと似たようなものの筈だ。この場の誰もが、悔しい思いを抱いているに違いない。
それなのに自分には、そんな気持ちは無い。ただビクビクしながら試合に参加して、気が付いたら大変なことをしでかしていた。
邪魔にならなければまだ良かったのに。自分はただいるだけで、自分に関係の無い所で試合が終わってくれていれば。それなら試合に出るというこの重苦しい作業も少しは報われたかも知れなかった。
「それにしても、まさか慧があんな見事なバッティングをするなんてね」
不意に、捺が自分の名前を呼んだ。心臓が一際高く脈打つのが分かった。
「相手は県を代表する怪物なのよ。自信になるんじゃないかしら」
捺はニヤニヤしてこちらの顔を覗き込んでいる。気恥ずかしくなって、つい目を逸らした。
あの瞬間は、何がなんだか分からなかったんだ。自信なんてつくわけが無い。
頭の中に、いくつかの場面がもう一度蘇ってくる。遮二無二バットを振って、何故かそれがボールに当たって、脇目も振らず駆け出して。そしてその後、直子先輩がきれいな音をーー
そこまで思い出してから、視界が濁っていくのに気付いた。
それと同時に起こる、呼吸器の異常。
嗚咽。
「ご、ごめ……」
流れ出した涙は止まらない。放っておくと永遠に溢れそうな程に。
言葉が出てこない。器官の痙攣で発声がままならない。
「な、さ……」
それでも、慧は必死に言わなければならない衝動に駆られた。
「ごめ、なさ……」
自分がたったの一言を言い終わらない間に、周りから色んな人の声が聞こえる。それは励ましの温かさを持っているものばかり。そんな優しさの溢れる声を聞いて、最早誰の顔も見ることが出来ない。
慧は泣いた。ミーティングが終わるまで、震えながらただ泣き続けた。