香椎東対柳川女子⑰
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした観衆の視線は、全て三塁上のただ一人に注がれる。塁上に立ち尽くす少女はただひたすら俯いていた。まるで何かを堪えるように。
「やりやがったな若月、この土壇場で……」
呟く清の声は、静まり返る香椎東ベンチにあって思いの外反響する。手すりに添えた手はわなわなと震えている。
「……どうしてくれんだよ、クソがっ!!」
今度こそ明確にベンチ全体へ響き渡らせた怒声と共に、清は手すりにその腕を叩き付けた。皆は空しく残響する音をただ聞くばかりで、誰も清に対して声を掛けようとしない。
「……」
この静寂を嫌い、華凛は何か言葉を発しようとした。しかし喉や思考が上手く働いてくれない。清の行為は可能であれば制止したいものだったが、怒りにまみれる先輩を咎める事など出来ない。自分の無力に思わず唇を噛む。
一方で、華凛にとっても眼前の光景は信じたくないものだった。この土壇場で直子が放ったセンターフライは、飛距離が無かったわけではない。慧の足があれば生還は十分に可能だっただろう。
それだけに、慧の行為はやってはいけない初歩的なミスとして皆の目に映ったのかも知れなかった。勿論それを許したい気持ちは皆の中にあるに違いないと華凛は信じる。近しく愛しいチームメイトであればなおのこと『次、取り返せ』と激励するのが当然のはず。
しかし、時としてそれは不可能になるということも華凛は理解していた。それは悔しさ故。勝負への思いの強さ故。混濁した気持ちはどうしても罵倒へと向かってしまう。誰しもがその思いを隠し持っているからこそ清の怒りを制止しないのかも知れないと思うと、華凛は身を引き裂かれるような思いだった。
「ーーいえ」
その瞬間、無音の香椎東ベンチに一つの声が響いた。
「まだ分からない。今がチャンスであることには変わりないわ」
声の持ち主は捺だった。ゆっくりと言葉を繋げるその顔には、絶望の色など見えなかった。
そうだ。一人でも諦めていない者がいれば、勝負はまだ分からない。それがチームの要である主将ならば、なおさら。華凛は心を奮い立たせる。
「……私もそう思います」
この状況にあってなお姿勢に変動のない主将に呼応し、今度こそ華凛は声を発することが出来た。決意の声を聞いた捺はゆっくり頷く。
「なんとしても皆でカバーする。良いわね、華凛」
その凛とした瞳と自らの瞳を重ね合わせる。強く成された意志の疎通。
しかしその思いとは裏腹に、無情なコールがグラウンドにこだました。主審による二つ目のアウト宣告。直子の次打者である文乃が凡退したのだ。
「じゃ、行ってくるわ。なんとかあなたまで繋ぐようにする」
既に平静な捺はゆっくりと打席へと向かう。
お願いしますーー心の中で願い華凛は素早くネクストバッターズサークルへ移動する。来るべき時に備え、戦況を見守る。
「なっ……!」
直後、目の前の光景に華凛は驚愕する。捺を打席に迎え入れた途端、キャッチャーの蘭奈が立ち上がった。敬遠。これでは捺が勝負を決めることは出来ない。
しかし、冷静に考えれば当然の判断だった。今打席に立っているのは香椎東で一番の好打者。それは柳川女子バッテリーも最早察知している筈だった。ならば一点もやれないこの場面、優秀な三番打者を避けて出来の悪い四番打者と勝負するのは当然。
「……やってやろうじゃない」
華凛の燃える瞳が眼前の敵をロックする。
相手は今、思うような球が投げられない。勝機はある。凡退を恐れずどんどん攻めていく。
やがて敬遠に必要な四つのボール球が全て投げられた。一塁へ小走りで向かう捺を見送り、華凛は打席に入る。
明暗分かつ最終局面。勝負の第一球。
会場全体に、雷鳴のような轟音が響いた。その正体はキャッチャーミットを叩く玲央のストレート。この状況下で放たれたボールはしかし、試合全体を通しても最上級の質を誇っていた。
その威力を前に、華凛は全身が震えるのを感じた。何者をも恐れぬ勇気を得たはずなのに。
今一度、眼前の敵を見据えた。目の前に立っているのは、正に鬼。
鬼を纏っているのは、信念だった。負けるわけにはいかないという激烈な信念。
ーーだから何だ。
自分で自分を鼓舞し、より一層強く相手を睨み付ける。
土壇場で圧倒的な力を見せ付けられてなお、華凛に諦めの心は微塵も無かった。
四番というチームの心臓に配置されていることへの報いの気持ち。
勝ち進み、かつての戦友と最高の舞台で戦いたいという願い。
そして何より。
ーー慧を助ける。
決意のフルスイングは、華凛のこれまでで最も真実に近づいたものかも知れなかった。
刹那、鈍い音がして打球は上方向に飛んだ。
勝ったのは、鬼の剛力。舞い上がったボールは、前方向には数メートル程度しか進まずやがて玲央のグラブに収まった。
全てのアウトが揃う。
それは、香椎東高校の敗退を意味していた。