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ハードシップメークス  作者: 小走煌
7 秋の大会
75/227

香椎東対柳川女子⑯

「済まない、完全に不注意だ。まさかあのレベルの打者に一発貰うとはな……」


 不注意だなんて。

 姉さんなら、どんなに手を抜いてもあんなバッターに打たれるわけありません。


「とにかく同点のピンチだ。しかもノーアウト……自ら招いた危機でこんなことを言うのもなんだが、ここで点を与えるわけにはいかない。こちらも点が取れていないだけに、尚更な」


 姉さんがチームのことを優先する気持ちは痛いほど分かります。

 でも、良いです。点くらい。

 だって。

 だって姉さん、こんなに辛そうじゃないですか。


「皆の守備は信頼している。しかしここは打たせるわけにはいかん。全て三振を狙っていくぞ」


 無茶です。

 今この場に立っているのも辛い程の痛みを、姉さんは抱えているんじゃないですか。

 止めましょう。これ以上無理をしては。


「この状況ではパスボールのリスクを抑える為に使用を控えたかったが、ここが踏ん張りどころだ。落ちるボールも積極的に使っていこう。ここ一番で負担を掛けて済まないが、蘭奈のキャッチングを信頼している」


 負担。

 負担というのは、その人にとって辛いことを指すんです。わたしは、姉さんのどんな球を何千何万と受けても何も辛くない。

 でも、それによって姉さんが痛むのは、辛い。堪えられない。


「姉さん……」


 教えてください。その痛みがなんなのか。

 そしてこの場は他のピッチャーに任せましょう。姉さんがチームを優勝へ導きたいという気持ちは知っています。わたしがこの場の誰よりも。

 でも、姉さんが全てを背負い込む必要なんて何もないんです。


「…………ここは」


 だから教えてください。姉さんが今、何に苦しんでいるのか。


「…………当然三振を狙う場面です。もちろんどんなボールでもわたしが全て止めます。安心してください」


 もう止めましょう。

 とても苦しそうな息遣い、わたしには分かります。それなのになんで嬉しそうな顔をするんですか。

 なんで。


「ただし、三番の天宮だけは歩かせましょう。あのバッターだけは万一の可能性が有り得ます」


 なんで。

 なんで。

 なんで、なんで、なんで。

 姉さん。わたしは絶対に姉さんを守ります。これ以上姉さんに負担を掛けたくない。


「……ありがとう。蘭奈」


 姉さん。

 わたしは絶対に、姉さんをーー




 踏み出す足が自分のものでない感覚。

 激しく脈打つ身体もまた、自分が操っているものではないような感じがした。その上で、気分の悪さだけはしっかりと残留する。

 気付けば会場はやけに静まり返っている。それは、それだけ今の状況が切迫しているものだということを表していた。

 柳川女子のエース、鍛治舎玲央がこの試合で初めて招いたピンチ。ノーアウト、ランナー三塁。

 逆に、香椎東にとっては最終回にして千載一遇のチャンスということになる。

 そして、慧にとってこの状況は、練習で体験したことがあるものだった。微かな記憶を辛うじて脳から引っ張り出す。

 ノーアウト、またはワンアウトの場合に外野フライが上がれば、三塁ランナーはベースに触れたまま待機する。そして、外野手が捕球した瞬間に本塁目掛けて走り出す。いわゆるタッチアップ。

 ベースランニングの練習で試行したこの状況。慧の頭にはその情景が浮かんだ。

 しかし体験した筈のそれは、今この状況とマッチングしてくれない。何故ーー慧にはその理由が分からなかった。練習の記憶を再生することに成功した脳は、これ以上働いてくれなかった。

 慧の頭の中では、アメーバのような液がただ蠢いているイメージが繰り返し流れていた。薄気味悪い感覚から逃れようと、バッターボックスに目を向ける。

 そこに立つのは林直子。思い切りの良さと高い打力を兼ね備えた、香椎東の核弾頭である。

 慧の目には全てがスローモーションに見えた。相手投手である玲央がボールを放つ動作、そして直子がそれを迎え撃つ動作。

 次の瞬間、慧の耳に音が聞こえた。それは聞き馴染みのある高音だった。

 直後、慧の視界は高々と舞い上がったボールを捉える。永遠にも感じる時間。長い滞空時間を経て、やがてボールは中堅手のグラブに収まった。

 練習で行った、あの仮想が今ここに具現化した。


 瞬間、慧の中で一つの感情が爆発した。


 その結果、慧はボールがホームベースへ向かう光景を、塁上で眺めていた。

 足は、一歩も動かない。

 ただあるのは、一つの感情。

 怖い。

 間に合うか、間に合わないか、判断出来ない。

 キャッチャーが待ち受ける元へ突入するのが怖い。交錯するのが怖い。


 アウトになるのが怖い。


 程なくして、ボールはキャッチャーである蘭奈のミットまで返ってきた。

 会場全体に奇妙などよめきが起きているのが分かる。慧は理解していた。自らの行為がどういう意味を持つのか。

 ただ、震える足を止めることが出来ずにいた。

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