香椎東対柳川女子⑮
「すげえ……すげえすげえすげえ!」
清の大声がベンチ内に響き渡る。普段なら顔をしかめたくなるその声量を気にする者は誰もいなかった。それほど今の香椎東ベンチには興奮が渦巻いている。
それもそのはず。皆の眼前で起きた光景は、誰も予測していないものだったのだ。
「あのヤロー、なんであんな完璧に打ち返せたんだ!?」
「出来すぎっすね、いくらなんでも……」
清と豊が口を揃えて驚きを表現する。
皆が不思議に感じるのも仕方ないことだった。相手は香椎東ナインをことごとく抑え込んだ県内屈指の右腕。一方、慧は野球を始めて数ヶ月のいわゆる初心者である。そのため、味方でありながらナインは慧が玲央に対抗できる可能性を全く考慮していなかった。
「……恐らく、油断ね」
全てを見透かしたような声を発したのは、捺だった。
「慧はこの打線の中で最も経験が足りない。それは雰囲気から向こうにも伝わってる筈よ。でも慧だって私達と一緒にしっかり練習してきたーー恐らく慧自身も破れかぶれでしょうけど、向こうの油断と本人の努力が上手いことかち合ってくれた、ってところでしょうね」
皆は捺の推論を黙って聞いた。捺は言葉を続ける。
「でも、たったそれだけであんな完璧な一打が生まれるとは考えづらい。恐らくあのピッチャー……」
ひとつ呼吸を置いて放たれた次の言葉は、香椎東ナインを驚愕させた。
「どこか痛めてるわ」
その発言に誰も声を上げることができない。少しの間を空けて、呻くような言葉を発したのは清だった。
「痛めてる……って、ホントか……?」
直球だけでなく様々なキレのある変化球を目の当たりにした清はいかにも信じられないといった様子だ。
「その影響で、若月さんには棒球が来たと……?」
その横から千春が静かな口調で問いただした。捺は無言で頷く。
「しかし、これまでの投球からはそのような様子は察知出来ませんでしたね……変化を強いて挙げるなら前の回から投球スタイルが変わった点、でしょうか」
「そうね。そこが怪しいわ」
千春の言葉に捺は鋭く飛び付いた。
「これは完全に直感でしかないけど、私の打席で貰ったラストボールからあのピッチャーはどこかおかしくしていたと思う。だからこそ私はみんなに待球を指示したわけだけど」
捺の言葉を受け、ひとつのシーンを思い出す者がいた。それは華凛だった。
「……確かに、その直後の私の打席でボール球が二球続いたことには違和感がありました。まさかその原因は……」
「そう。痛みのせいで微妙な制球が効かなかったんでしょうね」
華凛の告白にも捺は同調する。
「……ま、あくまで推測だけどね」
最後に捺は一言付け加えた。メインスピーカーの不在で場に静寂が訪れる。ただただ圧倒的だった玲央が今まさに陥っているとされる状況は、にわかには信じがたいもののように皆には感じられた。しかし一方で、そう考えると辻褄が合うのもまた事実だった。
「いずれにしてもチャンスだわ。直子、頼むわよ」
「任せとけ!」
直子は弾かれるように打席へと向かう。僅かな望みだが、ここから反撃が成るかもしれないという一握の希望がナインの視線の先に再び現れようとしている。
心臓の鼓動は収まらない。
慧は理解した。自らがいる場所を。
凡退して納まるベンチから眺めていたいつもの光景に、今、実際に立っている。しかし、その居心地は全く想像してしないものだった。
今いるのは完全なる表舞台。争いの中心。その圧迫感は守備についた時以上だった。慧は直感的に悟る。ここには安穏などない。
全力で走ってきたことによる肉体的な疲労とは明らかに異質な感覚が慧の全身を支配する。
ーー怖い。