キャッチボール
登場人物
若月慧
高校一年生。友達作りのため高校で部活を始めようと目論む。
伊勢崎華凛
高校一年生。慧を野球部に誘う。理由は謎。
天宮捺
高校二年生。野球部の部長を務める。
近藤千春
高校二年生。野球部の副部長、生徒会副会長を務める。無類のきれい好き。
「キャッチボール……?」
「そ。せっかく利き腕決まったんだし、それはやっとかなきゃ」
「そ、そう、ですか……」
当然と言わんばかりに腕組みし捺は言う。慧は、捺のその高いテンションに圧倒され相槌を打つしか出来ないでいる。
学校から少し離れたとある敷地を練習場代わりとして活動する県立香椎東高校女子野球部。その新入部員たる若月慧は苦心の末利き腕を決める事に成功した。およそ標準的な運動能力を持つ人間なら行う必要の無い、自然とクリアされるような手順のはずだが、慧はそれをしなければならない程に運動とは縁遠い属性なのである。
試行の結果、自らが左投げである事が判明した慧。左腕での投球が上手くいった事で満足感に浸っているが、しかしそんな慧に対して早くも次の指令が飛んでくる。
「硬球だし最初は怖いかも知れないけど慣れたら楽しいから」
「は、はい……」
「適当にカーブとか投げて遊んでみたりね。コツ掴めばけっこう曲がるのよーこれが」
「はい……」
「あ、そうそう! そのグラブ結構性能良いのよ。前の先輩がいっしょうけんめい型つけてた逸品なのよね。ちゃんとポケットで取れば良い音するわよ。でもこんな熱心にやっといていざ引退となったら持って帰らないでわざと部室に置いていくっていうから意味わかんないわよね。あとね……」
「は、はあ……」
まるで近所のおばさんのようなテンションで捺が喋る。意味の分からない単語が出てきたが、質問はせず空返事を続ける。
「……ま、そんなとこね。とりあえず私は華凛としてみたいから、慧は千春とお願い」
ひとしきり喋り倒して満足したらしい捺は華凛の方へ向かう。華凛は無言で首肯し、二人は少し距離を置いた状態で正対した。
「んじゃ、よろしくお願いします」
「宜しくお願いします」
互いに一礼した後、捺が華凛にボールを投げつける。先程慧が行った全力投球とは対照的に力み無く、軽く腕を振っただけの捺。しかしそのボールはまるで地上から見上げる飛行機の進行のようなゆったりした力強さを伴っていた。華凛はそれを平然と受け止める。パァンと甲高い音がした。
「これは……」
「どう? そのミット、取りやすいんじゃない?」
「……はい。とても!」
にこやかな笑顔を見せた華凛が捺へボールを返す。こちらもヒョイと投げただけながら捺に勝るとも劣らない威力で捺のグローブへ吸い込まれて行く。
「……」
慧は二人がボールを投げ合う様をじっと見ていた。その動きは洗練されており、素人の自分のそれとは根底から違うとはっきり認識出来た。しかしそれ故か、それは見ていて引き込まれるようなオーラを纏っており、まるでひとつの芸術作品かのようだった。慧はしばしの間、二人のゆったりした躍動に見とれていた。
「さて。では私達も始めましょうか」
そんな慧に千春が横から声を掛ける。グローブとボールを手にして慧に移動を促す。
「は、はい……」
充分なスペースを取るために捺と華凛から離れ、千春と少し距離を空け正対する。
「初めてというのは分かっていますので、加減して投げますからご安心ください」
優しい笑顔で千春は語りかける。
『キャッチボール』というものがどういうものかは、いかな野球経験の無い慧でもおぼろげなイメージはあった。加えて今まさにすぐ隣で行われている華凛と捺の所作を目撃した慧はそのイメージを確固たるものにしていた。
――やっぱりあんな感じでやれば良いんだよね……あんな軽々と出来るかな……。
「では行きますよ。リラックスしてくださいね」
「は……はい!」
体育会系の部活は『出来ない事』に対して何かと容赦の無いものというイメージを抱いていた慧は、そんな素振りをまるで見せない自身に対する千春の気遣いに感動を覚えた。返事にも自然と力がこもる。
――投げる方はいい感じにいける……取る方は手加減してくれるから大丈夫……うん、これなら大丈夫!
先程の投球である程度自信をつけていた事もあり珍しく乗り気になっていた慧は意気揚々と千春の投じるボールを待ち受けた。
しかし。
「……ひゃっ!?」
直後、慧は頭を抱えてしゃがみ込み、向かって来るボールを避けていた。
「まずい……!」
その様子に素早く反応した千春が即座に走り出し、慧を通り抜け、自身の投げたボールを拾い上げた。転がり続けたボールは完全に停止していたが、その位置はやがて道路に飛び出る直前まで迫っていた。
「危なかった……人はいないので道路に出たところで大事ではありませんが、周辺へ危険を及ぼすのは良くない事ですからね」
この練習場には網が張られていない。彼女達が使用しているボールは硬球の為、非常に危険な環境である。千春が焦って駆け出したのもその為であった。事なきを得た千春は短く息を吐く。
「本当は網を張れれば良いのですが……っと、それはまた別の話でした。大丈夫でしたか? 私としては加減したつもりでいましたがどうやら配慮が足りていなかったようです。申し訳ありません……」
丁寧な口調で千春が慧の様子を伺う。しかし慧の心臓は物凄いスピードで鼓動を繰り返していた。
――こ、こんなの……無理……!
千春の投げたボールは確かに手加減されていたのだろう。辛うじてながら道路に飛び出なかったのはその証拠と言える。
しかし、そんなボールでさえ慧にとっては充分な脅威となっていた。まるで生き物が敵意を持って自分に襲い掛かって来ているように慧には感じられた。体育の授業、ドッジボールでボールからひたすら逃げていた苦しい思い出が慧の脳裏に浮かんでいた。あの時と同じ恐ろしさが今のボールにはあった。
「すいませんでした……もっと近い位置からゆっくりやってみましょう」
千春が提案する。怯えきっている慧を優しく起こし、大股三歩程度の距離を取る。
「このくらいから投げてみますね」
「は、はい……」
投げなくともトス程度で充分届くような距離。そこから千春は慧へそーっと、腕を大きく回すのでなく手首のスナップだけでボールを投げる。胸元に到達したそのボールを、慧はグローブをかざしてキャッチした。
「……あっ」
それは直前まで怯えが抜けていなかった慧でも怖がらずに掴む事の出来る優しいボールだった。
そして、そのボールをキャッチした慧に異変が起きていた。
グローブの中にボールが寸分の誤差なく収まる感覚。それがある種の快感となって慧に訪れる。グローブの中を覗き込むと、ちょうど掌の斜め上、親指と人差し指の間の部分に収まる形となっていた。
「どうです。気持ち良いでしょう?」
千春からの呼び掛けに気付いた慧は高速で頷き返す。それほど今の感触は慧にとって衝撃的だった。
「今ボールを掴んだ場所が、所謂ポケットと言うものです。その位置でボールを取ることでファンブルする心配なく確実にキャッチする事が出来ます。さしずめグローブの芯、と言った所でしょうか」
千春の説明に無心で聞き入る。おもむろにグローブを見詰め、ポケットと千春が呼んだその箇所を一度左拳で触るように叩いてみる。
一度では飽きず、二度、三度と叩く。そこからもう一度ポケットを見詰め、周りを触り始める。
「……どうやらその感触が気に入って貰えたようですね」
微笑みを浮かべる千春の声に慧はハッと我に返る。自分でも気付かない程夢中でグローブに触れていたらしい。
「あっ、い、いや、あの……」
気恥ずかしさを隠すべく何か言おうとするが、言葉にならない。
「さあ、今度は私にボールを返してください。この位置に頂ければ嬉しいです」
慧の様子を意に介さない千春が返球を要求してくる。胸の前に構えたグローブは、ここへ投げてきて欲しいという意思表示だ。
慧はその位置を見詰める。心臓がドクンとひとつ鼓動する。
つい今しがたは自信を持っていたものの実際にはまだ一度しか投球は行っていない。不安が再びよぎる。
しかし、投げる側ならボールに怯える必要は無い。多少楽観的になった慧は同時に相手を待たせるのも悪いという気持ちも発生し、やや急いで投球動作に入る。千春が構えるグローブを凝視し、そのままボールを投げる。
「……!」
千春の表情が変わる。ボールは見事にグローブに吸い込まれた。
「……素晴らしい。非常に良いフォーム、球筋です」
目を細めてそう言った千春はゆっくりボールを返してくる。さっきと同じ所で取ってやろうと身構えた慧の思いとは裏腹に、ボールはポケットからずれた部分に当たった。
「痛っ……!」
思わず声を上げる。その拍子でボールを落としてしまう。
「大丈夫ですか……?」
千春が駆け寄って来る。
「今取った部分はちょうど掌の部分ですね。その部分は革が薄いので、そこで取ると確かに痛いはずです。ましてや硬球ですからね」
「はい……い、いたかった……です……」
感想を率直に述べる慧。まだ痛覚の残る右手をグローブ越しにさする。
「こればかりは慣れていくしかありませんね。慣れればポケットで取れるようになりますから」
励ますように言って慧から離れる。
「少しずつ距離を空けて行きますね」
気付けばボールも千春が拾っていた。千春スタートで再びキャッチボールが始まる。
「んっ……!」
千春が投じたボールに意識を集中し、グローブを掲げる。今度は上手くポケットにボールが入る。心地良い音が響く。
ホッと一息ついた慧はそのまま千春へボールを投げ返した。それはまたしても千春の胸元へ到達した。
「ナイスコントロール!」
千春が嬉しそうに声を掛ける。慧は思わず自分まで嬉しくなった。
その調子で暫くの間キャッチボールは続いた。どれだけの時間が経ったか分からない程、慧は夢中で捕球、投球を繰り返していた。
「そろそろ引き上げようかしら」
捺の声で千春の動きが止まる。
「もう良いのですか、捺」
「うん、私達はオッケー。非公式練習なのにいろいろやってもしょうがないしね……そっちは?」
「あなた達が切り上げるの言うのなら、こちらもそうせざるを得ませんね」
「あら、まだし足りない?」
キャッチボールを終了しようと慧に近付こうとした千春の僅かな逡巡を見逃さなかった捺が小悪魔のように問い掛ける。
「……いえ、私も子供じゃありません。終わる時はきっぱり終わります。でも……」
まるで肯定と取れるような返事をして千春は続ける。
「若月さん……彼女は確かに素人ですが中々筋は良いように見えました。特にコントロールが良い」
それを聞いた捺は瞬間目を丸くし、やがてニヤリと微笑んだ。
「まだ短い距離しか投げられませんが、成長次第であるいは」
「そう……楽しみが増えるわね」
「ええ」
二人しか聞き取れないボリュームで短いやり取りを交わす。やがて千春は捺から離れた。
「若月さん、私達も終了しましょう!」
「は……はいっ……!」
千春は自らの声かけを合図に今度こそ慧に近付いて行く。突如名を呼ばれた慧はビックリして大声で返事をする。
千春は慧に近付きながらキャッチボールを続け、やがて数歩分の歩幅程度の距離になる。そこでボールを受け取った千春は慧へ素早く投げ返す。
「……!?」
驚いた慧は慌ててボールに反応する。
「キャッチボールの最後はクイックで締めます。ボールを取ったら出来る限り早く私に返してください」
いきなり追加課題を振られた慧は混乱しながらも言われるままに千春へ投げ返す。それを千春はすかさず返す。慧も捕球後、自分が出来る範囲の最速で返球するが、千春のそれは慧の何倍ものスピードで行われた。
そうしてクイック投球を行うこと十数秒。
「……はい、終了です」
「……っはあ! はぁ、はぁ……」
キャッチボールはここに終了した。素早く捕球し送球する事に神経をすり減らしていた慧の元には疲労が一気に訪れた。
「ありがとうございました」
笑顔で千春が挨拶する。慧も息をつきながらどうにか返事をする。
「……あ……あり、がとう……ござい、ました……」
「お疲れ様。ひとまずこんな感じで今日の体験練習は終了とするわ。明日からはもっとちゃんとした練習するからよろしくね」
「……は、はい……」
捺の笑顔に慧は思わず返事をしていた。ふと捺の横を見ると、嬉しそうに微笑んでいる華凛の姿があった。
「お疲れ様。慧」
「う、うん……」
明日からも部員として一緒にやっていこう、というニュアンスに聞こえた捺の言葉に対し、疲労していたとは言えあっさり賛同してしまった事が腑に落ちなかった。しかし華凛の一声で知らずそんな気持ちが紛れ、皆に着いていく形で校舎への帰路に着いた。
まだ寒さの残る夜、慧は布団を頭まで被って横になっていた。うつろな思考で今日一日の出来事を振り返る。
「なんでキャッチボールしてたんだろ、わたし……」
当初は文芸部に入部する計画を立てていたのは間違いなかった。しかし、気付けば何故か野球部に入部し、グローブ片手に硬球を使ってキャッチボールまでした今日の一連の流れを思い出し、布団の中で地団駄を踏むようにモゾモゾする。
「なんでこんなことになってんだろ……もう……」
今からでも勇気を振り絞って退部を申し入れるべきか――そんな事を考えていた慧だが、今日一日の疲れからかすぐに眠気がやって来る。
薄れ行く意識の中でしかし、僅かばかりの達成感から来る僅かばかりの高揚が確かにあった事を、慧はの脳の裏で思い出していた。