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ハードシップメークス  作者: 小走煌
1 はじまり
5/227

外に出て

登場人物


若月慧(わかつきけい)

高校一年生。友達作りのため高校で部活を始めようと目論む。


伊勢崎華凛(いせさきかりん)

高校一年生。慧を野球部に誘う。理由は謎。


天宮捺(あまみやなつ)

高校二年生。野球部の部長を務める。


近藤千春(こんどうちはる)

高校二年生。野球部の副部長、生徒会副会長を務める。無類のきれい好き。

 県立香椎東高校には教室棟と部室棟が存在する。

 教室棟には各教室や職員室、理科室、音楽室等が存在し、部室棟には各部活の部室が割り当てられている。

 体育会系や文化系、大小様々な各部活の部室。その中でも一際内装が充実し、快適な環境が保たれているのが野球部の部室である。

 その部室において、今まさに新一年生二名。若月慧と伊勢崎華凛の入部が正式に決定した。

「……よし。これで部員は十名。夏の大会に参加できるわね!」

 野球部の部長である捺が鼻息を荒くする。

「先輩方も喜ぶでしょうね」

 副部長である千春が『先輩』を気遣う一言を横に添える。その一言が気になった華凛が捺に問い掛ける。

「……先輩、と言うと三年生ということでしょうか。三年生の方も野球部にいらっしゃるんですか?」

「ええ。ふたりいるんだけど、ふたりとも部長とかあまりやりたがらない人だから。そこは二年生の私達がやってる、ってわけ」

「そうなんですね」

「去年の三年生が引退してからは部員が八人になっちゃってね。そこからは大会にも出られなくて。友達とかに助っ人頼んだけど結局ダメでね……ここ最近は活動も細々としたものになってたわ」

「では、今の三年生の代になってから公式戦には出ていない、という事ですか?」

「そうなのよ。私達はまだ一年あるから平気なんだけど先輩たちは可哀想でね……最後くらいどうにかしてやりたいと思ってたわ」

 大会に暫くエントリー出来ていないという野球部の苦しい現状、三年生に対する心境を捺はしみじみと語る。

「だからこそ、ふたりが入ってくれることで先輩たちはとても喜んでくれると思うわ」

「……そうなれば、こちらも嬉しいです。是非力になりたいと思います」

 華凛は捺に対して静かに、力強く告げた。

「……」

 ――先輩、どんな人なんだろう、わたしと気の合う人がいいな。それで話が弾んで、わたしを見出だして文芸部に連れてってくれないかな。

 決意を新たにする華凛の横で白馬の王子様へ願い事をするかのような妄想にふける慧だが、捺の一言で現実に引き戻される。

「それじゃあせっかくだし、予定はなかったけどちょっと行ってみましょうかね」

「そうですね。新入部員も入ってくれた事ですし」

 捺の発言に千春も同調する。

「何かあるんですか?」

「ええ。ちょっと練習にね」

 華凛の問いに捺は何の気なしにそう答えた。

「練習……ですか」

「あら、嫌だった?」

「いえ、そういうわけではありませんが……今日は着替えなど何も用意していないので。見学なら可能ですが……」

 ――ほんとは見学も可能じゃないけどなあ……。

 本日何度目かの心の呟きを行った慧だが、そこでふと華凛と視線が合う。

「私だけでなく、慧も着替えは持っていませんし」

 ドキッとする慧だが、続く華凛の言葉で野球をするための道具を何も持たない自分を気遣うための目配りだったと気付いた。慧は心の中で息をつく。

「ああ、そういうことなら大丈夫。スペアのジャージをストックしてあるわ」

 そう言いながら捺はロッカーを開き、緑色のジャージを二着取り出す。

「引退した三年生のお下がりなの。色的にはちょうどあなた達と同じね」

 捺はにこやかにそう言いながら、慧と華凛にそれぞれジャージを手渡す。

「よく着替えを忘れてくる人間がいるものですから、予備として置いてあるわけです」

 千春が付け加える。慧は何となく、ふと捺に視線を向けるが、捺は自分じゃないと言わんばかりに首と手を素早く左右に振っていた。

「この件は確かに捺ではありませんね。まあ、部に在籍していればすぐに分かりますよ」

 含み笑いをしながら千春が言う。

「そ、そう、なんですね……」

 きっとおっちょこちょいな人なんだろうな、と思った慧はその感想を言葉に出さず、相づちだけを打つ。

「それに、今日の練習は見学じゃなくて参加してもらった方が良いわ。練習といっても私と千春しかいないものね」

「ええ。本来であれば今日は休みの予定だったんです。皆家の用事やクラスの用事などで都合が悪く、グラウンド解放日でもありませんから。私と捺は新入部員をいかにスカウトするかという話をするために部室に集まろうという話はしていましたが」

「そうでしたか……グラウンド解放日とは?」

「学校のグラウンドを自由に使える日ね。ウチは男子の野球部、サッカー部、女子サッカー部があるから曜日で使える日を分けてるの。男子の野球部が一番権力があるから二日間、それ以外の部活は一日ずつね」

「私達は金曜日が割り当たっていますが、今日は月曜日の為グラウンドは使えないという事です。その上皆の都合が悪いとなれば、無理に練習とするより休みにした方が良いだろうと考えました」

「そうだったんですね……では、一体どこで練習を?」

 捺と千春の回答に華凛は質問を重ねる。慧はその会話を、権力で決まるとはせちがらい、などという場違いな感想を抱きながら黙って聞いていた。

「そうね。それは行きながら説明するわ。ほら、着替えた着替えた!」

 慧の感想は知るはずもなく、華凛の質問にのみ回答した捺は自らも着替えの体勢に入りながら二人を急かす。

「ちょっ……じ、自分で着替えますので!」

 華凛にじゃれつく捺。その後ろで千春の怒号が響いた。

「捺、着替える前にカーテンを閉めてください!」


 グラウンドでは男子サッカー部が練習を行っていた。半ば怒鳴っているかのような指示、逞しい体つきの高校生が目まぐるしく動く様は近くで見ると思いの外迫力があることに慧は驚嘆した。

「月曜日は男子サッカー部の日なのよね」

 捺が歩きながら言う。

 四人はグラウンドの隅に設置されているバックネットを目指して歩いている。捺と千春は何かを入れた袋を持ち、慧と華凛は手ぶらである。

 グラウンドはサッカー部が使用しているため横切ることが出来ず、目的地に辿り着くには旋回して行く必要がある。しかし、サッカー部が練習すると長方形であるグラウンドの上半分が埋まるため、サッカー部の練習スペースを抜けるまではファールラインぎりぎりの部分を歩かねばならないのだ。

「捺、遠回りした方が良かったのではないでしょうか」

「せっかくだし、間近で見てった方が楽しいでしょ。この格好なら何も言われないし」

 四人とも制服からジャージに着替えている。捺と千春は青色、慧と華凛は緑色だ。ジャージ姿でグラウンドを歩いているならばそれは運動部だと、サッカー部の部員も把握しているらしい。四人はかなりフェアゾーンに近づいて歩いているが、その影響か、誰も何も言わない。

「ウチの男子サッカー部は割りと強豪らしいからね。どう、面白いでしょ?」

 捺が振り向きながら一年生ふたりに話しかける。

「……はい!」

 慧は明るく答えた。

 ――スポーツって、見る分にはけっこうおもしろいんだ。今まで気付かなかったよ。

 そんなことを考える自分に慧は驚いてしまった。確かに、選手の一挙手一投足に興奮するものがある。これまで知らなかった新たな興味に目覚めつつある慧の横で、華凛もまた興味津々な目付きをしていた。

「けっこう迫力あるわね」

「だよね。すごいなあ……!」

 思わずこれまでと調子の違う勢い良い返事になる慧に、華凛は驚いたような表情を見せた。

「慧……アンタ結構楽しそうね」

「えっ!? ご、ごめん……」

「何も悪いことしてないんだから謝ることないわよ。ただちょっと意外だなって」

「そうだね……こうやってスポーツを見るの初めてだけど、わたしもこんなにおもしろいものだとは思わなかったよ……」

「慧は観戦派なのかしらね」

「あっ、わたしマネージャーなら出来るかも!」

「それはだめ」

「うぅ……」

 興味のある事柄を共有出来たからか、自然と舌も回り華凛との会話のテンポも良くなっていた。そうしているうちにいつの間にかサッカー部の練習スペースを抜け、野球部が使うバックネットへと辿り着いていた。

「さて、と」

 バックネットの裏へ捺が歩いて行く。千春がそれに続き、慧と華凛はさらにそこに続いた。

「ここが、我ら野球部の倉庫です」

 バックネット真裏のスペースを大きく陣取る錠前付きの倉庫。慧と華凛は思わずその巨大な物体を見上げて立ち尽くし、思わず感嘆の溜め息を漏らした。

「でも残念、そっちじゃないのよねえ」

 その大倉庫の横に密かに設置されているこじんまりとした倉庫の前に捺は立っていた。

「そっちは男子の方の野球部の倉庫なのよ」

「そ、そうでしたか……」

 大倉庫との落差に愕然とした様子の華凛。しかしすぐに冷静さを取り戻す。

「ま、まあ、女子野球が栄えていると言っても、男子の人気が衰えたわけではありませんからね」

「それにウチの場合は、去年から約一年間大会に出ていないという些か宜しくない実績があります。良い部室を与えられているだけでも有難いと言わざるを得ませんね」

 華凛と千春がどこか哀しいやり取りをする。捺が錠前の鍵を開けながら話を纏める。

「まあ狭いことは狭いけど、必要分の道具はちゃんと入ってくれるから良いのよ。ちょっと待ってて、ね……と」

 頭を下げ、腰を曲げて倉庫に入っていく。暫く待ちが発生するかと一年生組は構えていたが、十数秒と掛からない内に再び姿を現す。

「はい、華凛。これ」

「……!」

 捺が華凛に手渡したのは、ファーストミットだった。グローブの一種で、一塁手が使用するための物である。

「中学でもそうだったかもだけど、高校になるとファーストミットとキャッチャーミットは部で管理してることが多いのよ」

「そうか……高校ではファーストに挑戦するのでしたね」

「ウチのファーストを託すわけだから。早いとこ、この感覚に慣れとかなきゃね」

 捺と千春の言を受け、華凛はミットを受け取る。左手にはめ、一度バシンと右手でミットを叩いた。

「……ありがとうございます。大切に使わせて頂きます」

 先輩に感謝の意を述べる華凛の瞳は一層輝きを増した。その様を慧はじっと見ていた。さすが、華凛はどんな画もサマになる。

「んで、慧はこれ」

 惚けていた慧は捺に突然物を手渡され驚き慌てる。取り零しそうになったそれをどうにか持ち直し、体に引き寄せる。

「ここ、これは……」

「とりあえず今使えるグラブよ。これまた去年引退した三年生のお下がりだけど」

「ファーストミット、キャッチャーミットのような特殊な形をしたミット以外は、おおよそこのように通常の形となります。グローブをはめた事はありますか?」

 千春が親切に伝えてくれていることは伝わって来るが、専門用語が少し入るととたんに理解が追い付かなくなる。とりあえず聞かれた質問に答える。

「え、ええと……ありません、けど……」

 答えながら、捺から受け取ったグローブをとりあえずはめようとするも、上手くフィットしない。

「あれ、あれ……?」

 何度トライしてもはまらない。その様子を見て捺がはたと気付く。

「あら……あなたもしかして左利きなの?」

 捺に言われ慧は動作を止める。

「えっと……お箸は左です。書く手は小学校一年生の時に右に直されました」

「ああ、じゃあやっぱり左なんじゃないかしら」

 なんでそんなことが分かるんだろう、と慧は手元を見る。そこで違和感に気付いた。

「ん……?」

 手渡されたグローブをよく見る。本来小指が入るべき箇所にずっと親指を入れようとしていたことにそのタイミングでようやく気付いた。

「あっ……!」

 とたんに気恥ずかしくなり、顔が赤くなる。しかし捺は特に気に留める様子は無い。

「左利きだから無意識に右手にはめようとしたのかしらね……」

 自問自答するように言う。千春が慧に質問する。

「ボールを投げる時は普段どちらの手を使っていましたか?」

「……」

 慧は答えられない。野球をやったことが無いだけでなく、そもそもボールを投げたことなど無い。もちろん幼い頃や体育の授業などで経験はあったかも知れないが、現在の慧はそれを全く覚えていない。

「分かったわ。それなら両方で試してみましょう」

 捺はポンと手を打つや否や、次の行動に移った。

「それなら左利き用のグローブも用意しなきゃダメね」

 そう言い残し、再び倉庫へと入って行く。数秒後、倉庫から出てきた捺の手にはひとつのグローブが握られていた。

「これは左利き用のグローブだから。こっちも持っていきましょうか」

 新しいグローブを受け取る慧。今慧の手にはふたつのグローブが存在する状態となった。

「あっ」

 捺が何かを思い出したように慧の手をとった。

「……?」

「ほらグローブはめて、はめて」

 強引に慧の手にグローブをはめる。慧はポカンとして捺にされるがままとなっていた。やがて作業が終わった捺に両手を持ち上げられる。

「ほら、グローブマン!」

 捺は得意気に慧の手を背後から掴んで上下左右に振り回しながら華凛に突撃する。

「ちょ、ちょっと、捺先輩……」

 華凛は苦笑いしながらも体は乗り気で、真剣な目つきで慧に扮した捺のグローブパンチラッシュを両の手で素早く防いで行く。その様子を見て、これまで度々捺をたしなめていた千春は呆れ果てたように呟いた。

「……くだらない」

「あら、一緒にやる?」

「や……やりません!」

 呟きが怒号に変わった。その隙を見て、今まで攻撃を受け流すだけだった華凛は慧の腕を掴み取り動きを押さえることに成功した。華凛は、慧の両腕を押さえ込みながら捺に尋ねる。

「ところで、グローブを持ち出すと言うことはどこかにグラウンドがあるのでしょうか……」

 キャッチボールにせよ何にせよ、ボールを使用した練習をするにはある程度のスペースがなければならない。今、このグラウンドにはそんなスペースは無いためボールを使用した練習は出来ないのではないかと危惧した華凛の問い掛けだが、捺はよく聞いてくれたと言わんばかりの表情で答えた。

「ふふっ、実はね……」

「そうです。ここから少し離れたところにちょっとしたスペースがあります」

「あらっ……」

「もったいぶってもしょうがないでしょう。早く行かないと時間が無くなってしまいます」

「は、はい……」

「では行きましょう。私についてきてください」

 捺が二の句を告げる前に練習場の存在を明かした千春が、そのまま次の行動を開始する。捺はしょんぼりしながら千春の後に続く。

「さ、私達も行きましょう……ん?」

 慧を促した華凛は、次の瞬間申し訳なさそうな表情になる。

「い……痛い……」

「ご、ごめん……」

 華凛に長時間腕を握られていた慧は、半ば泣きべそをかいていた。


「さっき一緒に遊べなかったから妬いてるのね……」

「違います!」

 捺のぼやきに、先頭を早足で歩く千春は鋭く突っ込みを入れる。グラウンドを出てから十分程が経過していた。

「距離は少しあるんですね」

「そうかしら。私はそこまで感じないわね」

「そうですか……」

 慧は捺と華凛の会話を黙って聞いていた。十分という時間ひとつとっても、人によって感じ方が違うのだということを慧はこの会話によって改めて考えさせられていた。

 ――人によって感覚はさまざま。わたしは今練習場に行きたくないけど、この中には早く練習したくてウズウズしてる人がきっといるんだろう。……あれ、もしかしてわたし以外はみんなそう?

 などと、考え事と呼ぶには検討の余地がありそうな思考を行っていると、千春が振り向く。

「着きました。ここです」

 慧と華凛は立ち止まってその場所を見渡す。

 住宅街を潜り抜けた場所に位置するそれは、所々に草が生え隅の方には土管も設置されている、正に空き地だった。広さは学校グラウンドの半分も無い。

「キャッチボールは出来ても外野の練習は出来なさそうね」

 慧にだけ聞こえるようなボリュームで、華凛は呟いた。

「残念だった?」

 捺が華凛に問う。

「……いえ」

 華凛はしかし表情を曇らせることなく言った。

「練習出来る場所があることが、まず有難いことだと思います。それに金曜日は学校のあの広いグラウンドを使える。充分です」

 捺は驚いたような表情になり、そこからニンマリとした微笑みの表情へと変わる。

「いい子ね、華凛」

 ワシワシと華凛の頭を撫でる。

「ちょっと……捺先輩……」

 迷惑そうな、嬉しそうな表情を華凛が作る。

「それじゃ早速やりましょうか」

「そうですね」

 捺と千春がそれぞれ持っていた袋に手を入れる。そこから出てきたのはグローブだった。

「……よし、と」

 薄茶色のグローブを左手にはめた捺は、グローブの中に握らせていたらしいボールを手に取り、一回、二回とグローブに叩きつける。

「華凛、ちょっと相手してくれる?」

「……はい!」

 捺が華凛を指名した。そのまま何かしら事が始まりそうな雰囲気であったが、しかしその雰囲気を作り上げた捺本人がストップをかけた。

「……っと思ったけど、こっちが先か」

 そう言いながら移す視線の先には慧がいた。

「……は、はい?」

 捺が自分を見ていることに気付いた慧は思わず声に出して視線への返事を行った。捺がつかつかと慧の元へ歩み寄る。

「まずあなたの利き腕を決めなきゃね」

 そう言って捺は、慧が既に手から外していたグローブを引き取り、左手にはめるグローブ、つまり右利き用のグローブを改めて慧に手渡した。

「これから両方の手で投げてみて、より遠くへ投げられた方を利き腕にしましょう」

 捺は人差し指を立てて説明する。

「ええ。良いと思います」

 千春が同調する。華凛もその意見に賛同の意を示す表情を作る。

「ということで、まず右で私に向かって投げてみて」

 捺からボールを手渡される。受け取った慧はそれをじっと見つめていた。

 ――硬い……野球のボールってこんなに硬いの……?

 初めて手にする硬球。それは慧にとってとても硬く、また、このサイズでは有り得ないという程重く感じられた。

 ――こんなのが体に当たったら、痛いどころじゃないよこれ……。

 握るだけで、その道具がいかに危険なものか伝わってくる。慧はそれに対して、怯えの感情が芽生え始めていた。

「そんな緊張しなくていいわよー」

 逡巡する慧に対して捺が声をかける。慧がハッとして声の方を向くと、いつの間にか捺は慧からかなり遠くに離れていた。あるいは慧がそう感じただけで、慧以外の人間からすればそんなに遠くない距離なのかも知れない。

「私に向かって思い切り投げてみなさいー」

 捺の声が届く。慧の目には、捺がとても小さく映っていた。

 あんなに遠くまで投げないといけない。この状況に慧は目眩がしながらも、ただ投げるだけ、投げればそれで良いのだから多少は気が楽だと思い直すことにした。

 ――よし……やってやる……!

 慧は捺の立っている方向をキッと見据えた。おもむろに振りかぶるポーズを取る。勢いそのままに、豪快に腕を振る。

 ――いっ…………けええええ!!!!

 あくまで脳内だが、全力で叫ぶ。自身のありったけを込めた大遠投の結果を目に焼き付けようと慧は即座に前方に目をやる。

「あ、あれ?」

 思わず慧は呟いた。眼前にボールは見当たらない。自分の投げたボールは一体どこへ消えたのかと訝しむのと同時に。

「ちょ、ちょっと……!」

 という声が斜め後ろの方から聞こえた。慧が右側から振り向くと、華凛が駆け足で背後へ回り込む姿があった。

「……?」

 何をやっているのだろうと慧が不思議に思っていた直後、華凛が地面を転がる物体を拾い上げる。それは、今しがた慧が遥か遠くに投げたはずのボールだった。

 ――えっ、なんで? 向こうに投げたはずなのに……。

 慧が目指していた方向を再び見ると、捺が笑いながら近寄ってくる。

「慧」

 困惑する慧に、ボールを取った華凛が声をかける。

「アンタ、ボール後ろに飛んでってたわよ」

 そう言いながら、慧にボールを差し出す。

「えっ!?」

 どうやら、前に向かって投げたつもりが出来ておらず、手から早く離れ過ぎたボールは後ろの方へ転がっていたらしい。混乱する慧の元へ捺がやって来た。

「いや面白かったわー、やろうと思って出来るものじゃないわよ」

 ケラケラと笑う捺。心なしか笑い過ぎで涙目になっているように見える。

 そんなにおもしろいのか。慧は堪え切れず落ち込んでしまう。ふと横を見ると、千春が真剣な表情で考え込んでいた。

「恐らくリリースが早いのでしょう。自分の視界の上の方で離す感覚でやってみてはどうでしょう」

 親切にアドバイスをくれる千春。しかし、それがどういう感覚か慧はイマイチ掴めない。それよりも、自分が行った事に対する羞恥心で眼前の話をまともに聞けていなかった。

 ――なにこれ……そんなつもりじゃなかったのに……こんなこともできないの、わたしは……。

「慧」

 自棄になっている慧の思考に声が割り込む。声の主は、華凛だった。

「いい、よく聞いて。千春先輩が教えてくれた事を試すの。あと、リリースっていうのはボールを離すタイミングのことだから」

 そう言って華凛は、慧の手に触れてきた。

「まずボールの握り方。鷲掴みにするんじゃなくて、親指と人差し指と中指で握るの」

 華凛は慧の手にボールを握らせる。口で説明した通りの握りを形作る。

「これでよし。次は投げ方ね。腕を後ろで回す時は手の甲を空に向けるの」

 そのまま華凛は慧の右腕を掴み、自分が言った事をそのまま慧の右腕に実演させた。

「逆の手は水をかくように旋回させて、胸の前に持ってくる」

 そのまま慧の背後へ回った華凛は左腕も掴み、体を密着させた状態で言葉の内容を実際の動作で再現する。惚けた状態でされるがままになっていた慧だが、この動作がそのまま投球動作となっている事に遅まきながら気付いた。

「あとは千春先輩が言った通り、自分の視界の上の方でボールを離すの。よく分からなかったらとりあえず前で離すように意識したら良いと思うわ」

 そう言って華凛は慧から離れる。

「か、華凛、ちゃん……」

 どうして、と続けて言おうとした慧を華凛は言葉で制した。

「……私が誘ったんだから、やり方を教えるのは当然でしょ」

 珍しく視線を逸らし気味に華凛は言った。慧には、華凛の顔が僅かながら赤くなっているようにも見えた。

 慧は華凛のその行動に驚きを隠せずにいた。捺のリアクションから察するに、自分のした動作は野球をしている人間から見れば有り得ないものだったのだろう。こんな失態を晒した以上、笑われ、貶され、バカにされておしまい。それが常だと、慧はそう思っていた。それなのに、目の前の同い年の少女はそんな素振りを一切見せずに手取り足取りアドバイスをくれた。

「華凛ちゃん……」

「い、いいから早く試す! 捺先輩。すいません、もう一度お願いします」

「はいはーい。ごめんなさいね慧。悪気があるわけじゃないから」

 目はウインク、右手は謝罪のポーズを取りながら捺が再び離れて行く。

「……さ、慧。もう一度」

 華凛に促され、握ったボールを一度見る。

 ――もう一度、教えて貰った通りに。

 慧は前を向いた。ひとつ深呼吸をする。

 ――よし。

 振りかぶりの動作を作り、脳内で華凛のアドバイスを再生する。それを体で模写し、そのままの勢いで慧はボールを手放した。ボールは今度こそ前に飛んだが、ほとんどボテボテのゴロと言って良い程度のものだった。

 それは慧の思い描いた理想とはかけ離れた結果だった。ノーバウンドで捺のグローブへ収まるイメージが見事に覆された。

 ――そっか……そりゃそうだよね……。

 一度感じた可能性を、現実で跳ね返された反動で慧は更に気持ちを沈める。

「おっ!いいんじゃない」

 その慧の顔を上げさせたのは捺の声だった。目的地まで届いていないボールを前進して拾い上げる。

「この調子で次は左、行ってみようか」

 そう言って拾ったボールを慧に向かって転がす。華凛がそれを拾い、左利き用のグローブと一緒に慧に手渡した。

「……」

 慧は無言で受け取る。

 こんなこと、無理してやりたくない。すぐにでもおしまいにして帰りたい。それが本心であり、その気持ちで今も立っているという事は間違いない。

 しかし、その一方、どこか心の奥底で、一度底まで落ちた気持ちがまた浮上しようとしているのを感じた。

 ――次は左で、もう一度。

「さっきみたいに。出来る?」

 グローブを受け取りながら俯いたままの慧に、華凛が問い掛ける。

「……やってみる」

 慧は顔を上げた。無言で頷く華凛をよそに、頭の中で先程の教えを反芻する。腕が逆になったが、不思議とイメージはしやすい。

「ん……」

ひとつひとつ動作を脳に描きながら、実行していく。次の瞬間。

「……えええいっ!!」

 慧は猛る獣のような勢いで腕を振った。ボールを離すのでなく、投げた。

「ぼ、ボールは……!」

 勢い余って倒れそうになった慧はハッと顔を上げボールの行方を追った。ボールは、ひとつ、ふたつバウンドし、捺のグローブに収まった。それは、ノーバウンドで捺の元へ届かせるという慧のイメージとはまたも反したものだった。

 しかしそのボールは、綺麗な線を描き、少しも横に逸れることなく捺の元へ辿り着いたのである。

「……うん、良いじゃない!」

 捺が笑顔を見せる。そのまま慧の元へ走り寄り、勢いよく慧の頭を撫で回す。

「初めてでこれだけ出来れば上出来よ!とりあえず利き腕は左で決定で良さそうね」

 興奮気味にまくしたてる。慧は少し混乱気味に、頭をぐしゃぐしゃにされながら横の方をちらりと見た。そこには千春が腕を組んで頷く姿があり。

 そしてその隣に、華凛の笑顔があった。

 そこでようやく、自身の行いがひとまず良い結果であった事を悟った。

 慧はひとつ息を吐く。客観的に見れば、ただボールを投げたというだけの事である。恐らく大半の人にとっては何の苦労も無く行える、些細な事。

 しかし慧は今、天にも昇る心持ちになっていた。これまで滅多に経験しなかったある種の達成感に包まれ、いつまでも浸っていたいという気持ちになっていた。先刻の沈みきった気持ちは今一時の間、忘れ去っていた。

 ――よくやった、かな……? うん、きっとそうだ……わたしはよくやった、はず!

「よし、じゃ次はー」

「……!」

 しかし、世の中はせわしない。現実は次から次へと課題を与えてくるのであった。

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