-- あの頃
あの頃は、自分のことがまるで機械か何かのように思えた。
「集合!」
ウォーミングアップに精を出していた面々がその声に即座に反応し、サングラスで目を隠した顧問の周りに素早く集まる。
「では今日のサインを決める。キーの後に触った部位、かつ最後に触った組み合わせが有効だ。まずキーは左手首。そして盗塁が鍔、エンドランが……」
集合を掛けた怒鳴り声とは打って変わって声のボリュームを極限まで絞り、円陣の中心でサインの確認をする。ふと周りを見回すと、その内容に既に混乱している様子の顔もちらほらとあった。
彼女にとって、緻密な野球そのものは、どちらかというと歓迎だった。しかし、他の皆がそうかというと、そんなことはない。このチームメイトは皆、おおらかに野球を楽しむ面々だった。打って、走って、守る。ひとつひとつの単純な動作に楽しみを感じ、常に真っ向から敵とぶつかり、勝っても負けても楽しむ。そんなメンバーが集まっていた。
そして彼女もまた、そんな皆との野球を、気に入っていた。
しかし、ある日突如現れた新しい顧問は、その野球観を打ち壊した。
分刻みのスケジュールで行われる厳しい練習。そして綿密に練り上げられた作戦の数々。練習試合の度にサインは細かく変更され、その中には到底実戦で使用しないような作戦も含まれていた。何人かのメンバーは、もはやそれを覚えることすらままならなかった。
そして、ミスをする度にグラウンド中にドスの聞いた声が響き渡った。それはチームを強くするため、負けないチームを作るため、と顧問は言ったが、結果として、ミスを恐れて縮こまる選手を量産してしまった。
明らかに選手の力量に見合っていない細かい野球。彼女だけは唯一その思想に心技ともに適応していったが、しかし彼女にとって、この野球はたまらなく嫌だった。この野球で麻痺して廃れていくチームメイトを見るのがたまらなく嫌だった。まだ野球を楽しめていた頃の皆と、まっさらな気持ちで野球をしたかった。
それでも。それでもこの野球が浸透すればチームは上に行ける。そう信じて、耐えてきた。
迎えた中学最後の大会、チームはあえなく初戦で敗退した。
涙にくれるチームメイトを見て、言い知れない感情が押し寄せて来た。
自分達が信じてきたものは、何だったのだろう。
個を殺して、監督の駒になり切って、それでも得たかったものは何だったのか。
その時、彼女は心を閉ざした。
――こんな思いをするのなら。
――もう野球をすることは、ないだろう。
ところどころにマメの見える掌を知らず握り締めて、涙の現場でそう誓った。
「どうしたの? ぼーっとして」
ハッと我に返り、豊は振り向く。そこには着替えの完了した捺が立っていた。
「……そんなに胸がコンプレックスなの?」
「――!」
瞬間、自分の顔が真っ赤になるのを豊は感じた。
「バカ……違いますよ!」
どうやらシャツを脱いだタイミングで固まっていたらしい。自分でもびっくりするほどの大声で反論してから、急ピッチで着替えを再開する。
「今日からまた一生懸命練習しないとねえ」
「ええ。杉山さんが加入してくれたことで練習にも精が出るというものです」
「そうそう。だから早く着替えてね。せっかく今日はグラウンドを使える日なんだから」
部室には直子と千春、そして捺がいた。他のメンバーは既に部室から出ている。
「……はい、準備オッケーっすよ」
高速で着替えを完了させ、小声で宣言する。
「よし、じゃ早速行きましょう!」
「そうですね」
上級生は待ちわびたと言わんばかりに部室を出てグラウンドへ駆け出して行く。その姿を追いながら、豊はハッと目を見開いた。
彼女達の後ろ姿が、かつてのチームメイト――野球を楽しんでいた頃のチームメイトに、重なった。
「ああ……」
豊の脳内に、かつての光景がフラッシュバックする。
それは、つい先程思い出していた廃れた記憶ではなく。
皆で楽しんで野球をやっていた頃の記憶。
「……そうか」
豊は一つ溜め息をついて、またグラウンドへと駆け出して行った。
「みんな……おかげさまで、自分はまた、野球を楽しむことが出来そうっす」