香椎東対天神商業19
「ここまで、ってどういう意味だよ!」
悠莉の声にすぐさま反応したのは直子だった。しかし、思わず声を発しそうになったのは直子だけではないはずだ、と豊は思った。悠莉が何を言わんとしているか、理解が難しかったからだ。
「言葉通りの意味よ。もう試合終了ってこと」
さも当然と言わんばかりに悠莉は言い放つ。納得のいかない様子をありありと浮かべ、直子はすかさず食って掛かった。
「いやいや、まだ八回と九回が残ってんじゃん。勝手に終わらされても困るんだけど!」
「あら、知らないのね。練習試合なら七回までで終了することは珍しくないわよ」
「なんだって?」
「いや……それは確かに聞いたことあるわ」
二人の会話に割って入ったのは捺だった。なおも反論を重ねようとする直子を制し、短く唸る。
悠莉が言ったことは事実だった。かつて女子野球は七イニング制、つまり七回を最終回とするルールを採用していた。現在は九イニング制がルールとして浸透しているものの、時間の都合や調整の都合など、様々な理由から練習試合においては七イニング制を用いることはままあることらしい。豊は高校野球について調べた時にそれを知ったのだ。
「そちら様にそう言われれば、こちらとしては従うしかないわね」
鼻息の荒い直子とは対照的に、捺に毒気はない。しかし直後に剣呑な表情を作る。
「でも、そういうのは最初で言っとくべきだと思うんだけど?」
「……うっさいわね! こっちにも事情ってもんがあるの!」
「そう。ま、それならこっちに都合よく解釈しておくわ。九回までやったらそっちの勝ちが怪しかった、とか」
「勝手にすれば」
悠莉はプイとそっぽを向き、自軍のベンチへ戻っていった。
やはり腑に落ちないといった様子のメンバーもいる中、かくして試合は八対四、天神商業の勝利で幕を引いた。
「なんだよあいつ、きったねー! やり方こすいんだよなー」
「良しとしましょう。この切り上げ方、これは私達があの天神商業を追い詰めた証、と取れるのではないですか」
未だ興奮のおさまらない直子を宥めるのは千春だった。
「そうかも知れないけどさ、なんかモヤモヤするなー」
「……ほんとに追い詰めたと思ってるっすか?」
追い詰めた、という言葉を聞いて豊は堪え切れず冷たい声で割り込んだ。顔を俯けたまま、ゆっくりと次の言葉を発する。
「連中、回を重ねる毎にこっちの攻めに対応してきてたっすよ。三巡目のバッティングがあちらさんの本当の姿なら、今度は到底抑えられないっすね。堀川だけじゃない。誰ひとりとして、っす」
冷えた風が香椎東ベンチを撫でて行く。沈黙の中、豊の声だけが響く。
「それに比べてうちらの打線は向こうの継投にいいようにやられてる、ときてる。どう考えてもチーム力にはかなりの差があると思うんすけどね?」
豊の独演に誰も口を挟む者はいなかった。やがて訪れようとする沈黙を、豊に向けて一歩踏み出した足音が拒否した。豊が顔を上げると、捺の姿があった。
「確かに、あなたの言う通りだわ」
「分かってるじゃないすか。これだけ強いチームにはどうやったって勝てない」
「……そうかもね」
再び流れる沈黙。ひとつ息を吐き、それを破ったのは捺だった。
「……どう? 楽しかったんじゃない?」
唐突な問い掛けに豊は目を見開いた。捺は気にせず続ける。
「これだけ強いチームとやって、確かに最後は力の差を見せつけられたけど……それでも懸命に相手の穴を見つけ出そうと梓を巧みにリードしていた。それはなんのためでもない、ただこの試合に勝ちたかったから。そして心底野球を楽しんでいたから……違うかしら?」
豊は何も言えず、ただ捺を見詰め続ける。
「天神商業との差は痛感した。だから、私達はこれから練習してレベルを上げようと思う」
――そうっすか。頑張ってください。
息を吐くようにさらりと言えるはずのその台詞は、何故か豊の脳内で生まれたきり、どこにも出力されることはなかった。
「あなたがどれだけウチに必要かも、そしてあなたがどれだけ野球をやりたいのかも、良く分かった」
――だから、入部はしないって。
普段なら間髪入れずに出来たはずの返しが、止まる。豊は自分でも気づかないうちに立ち上がり、両拳を握り締めていた。
「……どれだけウチに必要か、って」
ようやく出た言葉は、本当に言いたいことなのかどうか、自分でも良く分かっていなかった。
「それ、見極めてた、ってことすか。汚いっすね。最初から、勧誘する気マンマンじゃないっすか」
「うん。でも今は堂々とお願いできる。だってあなた、野球をやりたいはずなんだから」
豊は改めて捺を見据える。また軽口を叩いて拒否することを試みる自分がいたが、それらは謎の力でブロックされ、脳から外に出ることはなかった。
「きたない……汚いっすね」
視界の中心に捺を捉えたまま、同じ言葉を呟いていた。
汚い。この言葉を豊は今、別の意味合いで使用していた。
勝手だと、豊は言いたかった。
果たして捺のどこが勝手だったのか。
「ほんとに……きたない、っすね」
それは、豊が心の片隅に、隅っこの更にまた隅に放り投げて封じ込めていたモノを、本人の許可なしに強引に引っ張り出したからに外ならなかった。
もう、豊は内側から湧き出るモノに抗うことは出来なかった。
「……いいっすよ。やります。やるからには倒しますよ、天神商業」
捺の表情がみるみる明るくなるのが分かった。それから凄まじいスピードで距離を詰められ、次の瞬間ホールドされていた。
「やったやった、ありがとー! これからよろしくね!」
ひたすら繰り返される頬擦りに困惑しながら、豊の中に懐かしい感覚が甦る。そうか、仲間というのは、こんなにも暖かいものだった――。
豊は自分より背の高い捺の腰に腕を回し、ゆっくり、強い力で抱き返した。
そして、捺の耳元で一言。
「でも約束。アレは勿論返して貰いますから」
捺の動きがピタリと止まる。豊はいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「悠莉」
自らを呼ぶ声に気づいた悠莉はグラウンドから校舎脇の水道へと向かう足を止めた。
「あら、帰ったんじゃなかったの」
「みんな先に帰したわ」
「あたしもいるぞー」
悠莉の視線の先には捺が、その横には直子が立っている。
「あっそ。でも、何か話すことなんてあるかしら? あたしはまだやることあって忙しいんだけど」
意図せず突き放す口調になっていることに、悠莉は発言してから気づく。しかし、そんな彼女に返ってきた答えは意外なものだった。
「いえ、一応例を言っておこうと思ってね。私達にとって、今回の試合はとても良い経験になったわ。ありがとう」
悠莉は大きめと自称する目を思わず見開いてしまった。やがて小さく咳払いを一つして、今回の意図を明確に告げる。
「べ、別にアンタたちのためにやったんじゃないからね。あくまで調整にちょうど良いと思っただけなんだから!」
「調整目的なのは当然だと思うし、こっちとしては別に関係ないわよ……もっともそこについては全員が同じ気持ちではなかったけれどね」
横の直子が苦笑する。捺もそれにつられたかニヤリと笑みを浮かべ、話を続ける。
「次の試合はいつ?」
「来週」
「そう。組み合わせはどうなの」
「あたし達のところは割りと良いわ。目ぼしい学校はだいたい別ブロックに行ってる。柳川女子や和白なんかがいたら厄介だと思ったけど」
強豪どものユニフォームを思い浮かべ、溜め息をつく。
「柳川女子と和白は今も強いのか」
ふと、直子が言った。
「ええ。二校ともまた力をつけ出したのは最近なんだけど、侮れない存在だわ。柳川女子には絶対的エースがいる。和白は最近監督が代わって、一気にチーム力が上がっているわ」
夏の大会から既に退場している香椎東にとっては関係のない話、かと思ったらそうではないのだろうか。捺と直子はまるで自分達のことのように言葉を失っている。やがて出会うかも知れない強大な相手の存在を憂いているのだろうか。
「……ま、私達のことは帰ってまた考えましょう」
髪をかきあげ、沈黙を破った捺が悠莉に向き直った。
「悠莉、頑張ってね」
「やるからには優勝しろよなー」
「もちろんそのつもりよ!」
悠莉は二人に向かって力強く親指を突き立てた。しかし、これだけは言っておかないといけない。悠莉は二人の目を見て、しかし逸らしてしまう。言葉だけはどうにか出そう。そう決意し、言った。
「あ……アンタたちも……頑張りなさい、よね……」
つい細々とした声になってしまう。内容を聞き取ったらしい二人は苦笑し、一言だけ返した。
「了解」