いなれわとこ
登場人物
若月慧
高校一年生。友達作りのため高校で部活を始めようと目論む。
伊勢崎華凛
高校一年生。慧を野球部に誘う。理由は謎。
天宮捺
高校二年生。野球部の部長を務める。
わたしは野球などしたくもありません。
なので、もうここにはいられませんしいる必要もありません。
文芸部に入部届を出すためすみませんがこれで失礼します。
――なんてことが言えたらなあ……。
捺に握手を求められている慧。脳内では実にサバサバと断りを入れることが出来たが、現実では差し出された手を前に固まっている。
これに応じれば最後、過酷な運動部生活へ引き込まれる未来が容易に想像出来る。
――めくるめく野球の道……だめだ、ぜんぜんめくるめかないよね……。
他人に流されやすい慧はしかし、その未来を想像し、流されるままに手を取るといういつもの行動が取れずにいた。建前と本心が拮抗している。
「……もしかして、私、嫌われてる?」
捺が申し訳なさそうに笑う。気づけば捺の行動に対して固まってから数秒の時間が経過していた。
――せめて今の気持ちを説明しないと。でも説明したらイコール断りになるんじゃ……?でもずっと黙ってるし、何か言わないと……!
葛藤の中、これ以上の沈黙は気まずいと慧が口を開く。
「あ、あの……」
それと同時に華凛が動く。
「いえ。私が強引に連れてきたのでまだ戸惑いがあるんです。少々人見知りですので……決して嫌われている、というわけではありません」
「そう。二人は仲良しさんなのね」
「いえ、そういうわけでは……」
華凛が言葉を詰まらせる。
――ほんとだよ。さっき会ったばっかだよ……!
慧もまた、心の中で激しく突っ込みを入れる。
「そういうことなら、私に緊張しても無駄よムダムダ。もっと楽にして」
捺が慧の背中をバシンと叩く。
「は、はい……」
「そうだ! せっかく来てくれたんだしお茶でも淹れるわ。ちょっとそこに座ってて待っててね」
二人を中央のテーブルに座らせ、捺は鼻歌交じりに勢いよく部室を出ていく。部屋には慧と華凛の二人だけが残された。
「す、すごくテンションの高い人だったね……」
「そうね」
華凛がくすりと笑う。
「今度こそ部外者だけになっちゃったけど、いいのかしらね」
「そ、そうだね……」
「それにしても、お茶なんてどこから淹れてくる気なのかしら」
「た、確かに……」
「まあとりあえず待ってましょうか。そんなに長時間の離席ってわけでもないでしょうし」
「う、うん……」
ふたり揃って椅子に腰かけている。しばしの沈黙。しかし、そう時間もかからない内に彼女が戻ってきて、再び慧の頭を悩ませるだろう。
――逃げるなら今か。
慧が懲りもせずそんなことを考えて始めた、その矢先。華凛がスッと立ち上がった。
「……!」
あまりのタイミングにビクッとする慧とは対照的にずいぶん落ち着いた様子だ。
「せっかくなんだしいろいろ物色してみましょう。ただ待ってるのもつまんないし」
そう言いながらドアから向かって左側の壁に歩き出す。
「あっ、この漫画全巻揃ってるじゃない! 前から一気読みしたかったのよね」
慧がホッとしたのも束の間、華凛が何かを見つけてはしゃぎ出す。よく見ると、ドアから向かって左側には本棚が配置されていた。こちらも綺麗に整理されている。
改めて部屋を見回すと他にも大小様々な家具が揃っており、いずれも手入れが行き届いているようだ。まるでここで生活でも出来そうだと慧は感嘆した。
「これはいずれゆっくり読むとして……」
華凛は漫画を棚に仕舞い、次々と部室の備品を物色する。その様子はどこか生き生きとしていた。
「そ、そんなにいろいろ漁って、大丈夫かな……」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと気をつけて触ってるし」
「う、うぅ……」
華凛の返しは特別厳しいものではなかったが慧はそれだけでたじろぎ、引き続き物色を続ける様子を見て止めるでも一緒に参加するでもなく立ち尽くしていた。
――それにしても華凛ちゃん、さっきまではすごく礼儀正しい感じだったのに……。
捺と会話をしていた華凛は落ち着き払って丁寧、まさに外見通りのイメージだったが今の華凛はどこか荒々しい、自分に話し掛けて来た時のそれだと慧は感じていた。
――やっぱり先輩には気を使ってああいう態度になるのかな……。
体育会系の部活はそういう上下関係も大変そうだと慧がひとり心の中でどんよりしていた時。
「この立派な机には何が仕舞ってあるんでしょうね」
華凛は例の重役机に到達していた。
「とりあえず、いろいろ拝見、と……」
華凛が引き出しを一つずつ開けていく。
――そ、そんな勝手に開けちゃ、まずいのでは……!?
慧は心の中で華凛の行為を止めようとしたが、先程一度撥ね付けられているため言葉には出来ない。
「あまり大したものは入ってないわね……あれ?」
華凛の表情が怪訝そうなものに変わる。
「ど、どうしたの……?」
「一番上の引き出しは鍵がかかってるわ。わざわざ鍵をかけているということは、何か入ってるんでしょうね」
――ずっと昔にしまっちゃってそのままなだけじゃないかな……。
慧は心の中で意見するが、華凛には勿論聞こえない。
「まあ物盗りに来たわけじゃないから別に良いんだけど。とりあえずこんなとこかしらね」
華凛が重役机から離れようとした、その時。
「な、なんですかあなた達は!」
まるで怒っているかのような、威勢の良い声とドアが豪快に開け放たれる音がほぼ同時に聞こえてきた。
「また私達の部室を勝手に使って……! いくら鍵が掛かっていないからと言って勝手に立ち入って良いものではありません!」
険しい表情でがなり立てる。その人物は「まるで」ではなく「明らかに」怒っていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。私達は……」
唐突に怒鳴られている状況に困惑しながら華凛が説明を始めようとする。
「おだまりなさい! 今日という今日は言い訳も通じません! さあ、どこの部の者か正直に名乗りなさい!」
声の主はおかまいなしに続ける。
慧は震えていた。なぜいきなりこんなにも怒られなければいけないのだろう。何もしてないのに。突拍子も無く訪れた状況に思考が停止する。そんな慧の様子を知ってか知らずか、冷静な態度を取り戻した華凛が言う。
「……分かりました」
「そうです。それが正しい」
女子生徒はふふんと鼻を鳴らす。一呼吸置いて華凛が説明を始める。
「……私達は野球部に入部しようと思い、この部室を訪ねました」
「……えっ」
「そこには部長である捺先輩がいらっしゃったので少しお話をしましたが、今はお茶を淹れるということで外出されています」
「にゅ、入部希望者……だったの……?」
女性は唖然とする。その時、ドアが再び開いた。
「おまたせ!給湯室が混んでてね……あら?」
正体は帰ってきた捺だった。部屋の様子を見て何かを悟ったように表情を変える。そのジトッとした目は慧と華凛を怒鳴りつけた人物に対して向けられていた。
「千春……あんたこの二人を侵入者と勘違いしたわね?」
テーブル席には四人が腰掛け、捺の淹れてきたお茶を飲んでいる。
「ほ、本当に、すいません、でした……」
女性が再三の謝罪を行う。
「い、いえ、私達は気にしていませんので……」
華凛が応対する。
――まったくもう、ほんとに怖かったんだからね……!
慧は心の中で微かな反撃をする。
女性の名は近藤千春。捺と同じ二年生で野球部の副部長、更には生徒会の副会長も担当している。と、部室に戻ってきた捺から二人に説明があった。その後二人と挨拶を交わし、着席して皆でお茶を飲んでいる。
「本当に、大変失礼を……」
「いえいえ、お気になさらず……」
余程の罪悪感があるのだろう。もう何度目かのやり取りを華凛と繰り返す。
「……だいたい、あなたも毎度不用心が過ぎます。部外の方に留守を任せるなんて何を考えているのですか、捺!」
千春が捺へと怒りの感情を向ける。
「ごめんごめん、今後は気を付けるから」
「その台詞は何度も聞いています!」
まるで悪意なく、あっけらかんと返す捺を厳しく制す。
「それに、居眠りするのは自由ですがその時は鍵を掛けてください! ノックされたら起きてください!」
「いやごめんなさいね、以後気を付けます」
飄々とした風に捺が返事をする。
「全く……言いましたからね!」
千春は呆れたように説教を止める。
「本当に、お恥ずかしい姿を見せてしまって……この部長は脇が甘いところがあるもので」
「何よ、そんなことないわよー」
捺が膨れっ面になる。
「ふふっ」
華凛がくすりと笑い、言葉を続ける。
「ところで、そこまで部室の施錠に気を払うことには何か理由があるのですか? 例えば、空き巣が多いとか」
「実はそうなのよ。私達も頭を悩ませているわ」
捺が答える。
「その割には警戒が足りていませんよ。捺」
千春が釘を差す。捺はばつが悪そうな表情で舌を出す。
「……去年の三年生が引退した頃から、何者かが部室に侵入し物品を盗む事案が発生しています。またそれだけでなく、この部室を一種の溜まり場のように使う輩も存在します。この部室は他の部室よりスペースもあり過ごしやすい事、また三年生の引退により人数が不足してしまった事から、私達野球部はあまり活動していないように見られていたのでしょう。嘆かわしい事です……ただ、当の部員が施錠を蔑ろにしていた事情もありますが」
千春は捺を横目でちらりと見る。捺はまるでタイミングを計ったかのようにそっぽを向く。
「しかし、私達も決して遊んでいるわけではありません。確かにこの部室は他の部室に比べて充実した環境ではありますが、それが空き巣や溜まり場を許して良い理由にはならない。それ故私達は、そんな輩と戦う事にしました。最も、盗人払いに熱を入れているのは私ぐらいなものですが」
自嘲気味に笑う。捺が独白に割り込む。
「それに、千春は無類のきれい好きなのよ。部室の掃除も千春が全部やってるわ。その熱意がどれ程のものかはこの部屋を見てもらえば分かると思うけど」
捺は自慢気に語る。慧も華凛も驚きの表情になった。入室した時に感じた体育会系の部活に似合わぬこの雰囲気は、千春によって生み出されたものだったのだ。確かにこの人なら、こんなに綺麗な室内を演出出来るのも納得だ。しかし、一人でこの部屋をチリひとつ残さず掃除する手間と時間を想像し、慧は気が遠くなる思いを感じた。
「ま、まあ、そういうわけもあり」
少し照れたように千春が続ける。
「この部屋が見知らぬ誰かに汚される事は我慢なりません。その為にもこれからも注意を払っていこう、というところです」
そう言って千春は独白を締めた。慧は心の中で拍手を送った。一方、華凛は千春に対して質問を投げる。
「しかし、この部室だけがそのような襲撃を受けているのですか? 他の部室でもそういった事があるのでしょうか」
「うーん、確かにウチは家具とか実用的なもの揃えてるしねえ……」
「一度侵入が出来てしまうと癖になる事がありますからね。そこから常態化してしまったと考えられます」
考え込む捺をフォローするように千春が回答する。
「……しかし、初回の侵入を許した際、最後に部室を出たのは誰だったでしょうね。捺」
千春はまたも捺を横目で見る。まるで睨んでいるかのような視線に、捺は首を竦めた。
「す、すいません……」
ボソボソ声で捺が謝罪する。
「まあ、過ぎた事は良しとします」
ひとつ息を吐いて千春は慧と華凛に視線を向ける。
「ところで、あなた達が今年の新入部員なのですね」
やや前のめり気味になる千春に対して華凛が言う。
「先程来たばかりなのでまだ正式に手続きはしていませんが、そのつもりです」
――約一名、そのつもりじゃありません……!
慧は叫ぶがそれは心の中だけであり、やはり誰にも届かない。
「あの伊勢崎華凛が我が校に入学していたとは……正に恐悦至極と言ったところですね」
千春がしみじみと言う。
「いえ、そのような事を言われるレベルではありません……」
華凛は謙虚に受け答えをする。先ほどから驚かれてばかりの華凛に慧はただ感嘆するほかない。そんな慧の方に千春が向き直って言った。
「あなたも中学から野球を?」
慧は瞬間固まったが、まずは質問に答える。
「い、いえ……」
「そうでしたか。では、野球に興味があるのですね?」
「……」
興味がない、なんて直球なことは言えない。言いたいけど言えない。
「えっと……わたし、その……」
慧は葛藤した。断わりたい気持ちは消えていない。できるだけやんわりと、納得してくれるように。
「わ、わたし……運動が苦手で……」
「あら」
慧の一言に捺が反応する。千春が続く。
「運動嫌いを克服するために野球を選ぶとはお目が高い」
「……?」
慧は何か嫌な予感がした。話が自分の伝えたい事とは違う方向に捉えられているのではないか。
「今は空前の女子野球ブームだもんね」
捺が同調する。
「ブームを超えて定着してきた感すらありますね。女子プロ野球でも試合結果だけでなくキャンプ情報、FA、ドラフトもスポーツニュースで報道されますし。これは一昔前では考えられなかったことだと聞いたことがあります」
「夏の大会も盛り上がるしね。まあ女子野球の全国大会は男子と違ってドーム球場なんだけど」
「毎年ドラマティックな展開がありますね」
「そうそう、去年なんて凄かったわよね!」
「私も見ました。というより、捺も含め部員皆で見ましたね」
「そうだったわね」
華凛は捺、千春と会話を弾ませている。
――そうなんだ……そういえばお父さんも昔は女子野球はこんなに注目されてなかったって言ってたな……。
テレビを見ている父との団欒を慧は思い出していた。
「今でこそ当たり前のように女子野球が身近にある環境ですが、プレイする身としてはこれ程有難い事も無いのかも知れませんね」
千春がしみじみと語る。
「ということで、昨今の女子野球はスポーツ界全体から見ても正に花形。スポーツを嗜みたいのなら、手始めにやってみて損は無い筈です」
「うん。オススメよ、野球。楽しめると思うわ」
――あっ……やっぱりなんかおかしい。
捺と千春による立て続けの呼び掛けで、慧の不安は確信となった。慧の考えは誤解されている。野球部に入らない理由を述べたつもりが、野球を始める理由として捉えられてしまったのだ。慧は焦り、突貫的に思考を始める。
「あ、あの、えっと……」
思いとは裏腹に言葉を詰まらせる慧に対して捺が言葉を重ねる。
「大丈夫、ウチは未経験者大歓迎だから。皆で楽しく! がこの部のモットーなのよね」
やはりあらぬ方向で納得されてしまっている。このままでは断りきれない状況に陥ってしまう。
「で、でも……本当に何も出来なくて……」
「大丈夫大丈夫、ちょっとやればすぐ出来るようになるわよ」
捺はあっけらかんと言う。
「そ、そう、ですか……」
「そ。どんなボールもたちどころにキャッチ! ってね」
野球を知らない慧だが、捺のその言葉に、広大な芝生を駆け今にも頭上を越えようかというボールを颯爽とジャンピングキャッチし観客を沸かせる自分の姿を妄想した。
――いやいやいや……のせられちゃだめだ。絶対そんな簡単じゃないんだから……。
慧は甘美な妄想を断ち切り、今度こそしっかり自分の意思を伝えようとした。
「あ、あの……!」
「慧」
その瞬間、これまで話の聞き手に回っていた華凛が口を開いた。
「確かに、強引に誘って悪かったと思ってる」
突然の独白に慧は思わず言葉を飲み込み、黙って華凛を見つめていた。
「けど、先輩方の言う通り、野球は楽しいと思うの」
しみじみと語る華凛。慧は何も言葉を挟めない。
「……騙されたと思って一緒にやってみない?」
華凛より、改めての正式な勧誘。慧をその澄んだ瞳できっと見つめてくる。刹那の時間、慧は華凛に瞳を奪われ、目を逸らすことが出来ずにいた。
やがて我に帰った慧は華凛から視線を外し気恥ずかしそうに俯く。そうして暫しの間を作った後。
「う、うん……」
口ごもりながら。
「わ……わかり、ました……よ、よろしく……おねがい、します……」
華凛の呼び掛けを承諾した。
「よしきた!」
「やりましたね」
捺と千春がハイタッチする。
「悪いようにはしないから。これから宜しくね」
「宜しくお願いしますね」
「は、はい……よろしくお願いします……」
捺、千春と握手を交わす。慧の心臓の鼓動は、この時点でかなりのスピードになっていた。
――ああ、なんでこんなに押しに弱いんだわたしは……!あっさりいきすぎだよ……!
混乱する慧に、華凛が囁く。
「……ありがと。これから宜しくね、慧」
更なる鼓動が慧を包む。
「う、うん……よろしく……」
辛うじて返事をするも、脳内では後悔の言を並べて続けていた。
――しまった……しまった……まずってる……ぜったいまずってるよこれ……。
かくして慧は、華凛と共に野球部へ入部する事となった。
心の中を支配し続ける大きな不安と共に。