香椎東対天神商業7
「ちょーーーし乗んじゃないわよアンタたち! 絶対に一点もやらないんだから!」
マウンドに戻った悠莉は金切り声で喚いている。無名校の下位打線にまさか三連打を浴びるとは夢にも思わなかったのだろうか、誰の目から見ても明らかなレベルで取り乱している。
逆に香椎東にとっては下克上の大チャンス。県大会一回戦負けの高校が優勝実績のある高校に勝つということは、例え練習試合であっても充分に金星、大金星であるということはなんとなく理解出来る。
しかし、慧にとってそんなことはどうでも良かった。ただひたすら、この息苦しい打席から一刻も早く退きたいと願う一方だった。
「もおーこっからは本気なんだから! 覚悟しなさいよ、ねっ……!」
決死の形相から、慧の目からでも分かるほど力んだボールが投げ込まれた。
「ひっ……!」
そのあまりもの迫力に、慧はボールを直視することすら出来ず大きくのけ反り、勢いで尻餅をついてしまった。ガスバーナーのような音を立ててホームベースの真上を通過したボールは障害なくキャッチャーミットに到達する。慧はツーテンポほど遅れてようやくそれを認識した。
――こ、こんなのを、打つの……? む、無理だよ……ぜったいむりだ……。
一球見ただけで既に半べそ状態。バットを拾い、力なくゆっくり立ち上がる。
「……まさか、アンタ」
ふと、マウンドから声がした。何か戸惑うような、それでいて確信に近づくような声。
「……素人?」
悠莉が言い放つ。慧としては別に隠していたわけではないが、バレてしまった。自分がこの日のために招集されたただの数合わせのような存在だと、悠莉はそう認識したに違いない。
「そうか、そういうことね……捺、かわいそうに……この日のためにいっしょうけんめい涙ぐましいスカウト活動を頑張ってたに違いないわ……」
悠莉は大袈裟に天を仰ぐ。かと思ったら、急にいたずら好きの子供のような悪い顔を作った。
「でも、このタイミングで素人に回ってきたのが運のツキね! あっさり片づけさせてもらうわ……!」
練習以外ではこれが初打席。
それがこんな、超強豪校の実力派ピッチャーだなんて運がなさすぎる。どうしたら良いのか、分からない。
「慧ー! なんなら振らないで帰ってきていいわよー!」
「振れ振れー! 適当に振り回せー!」
ベンチから、ネクストバッターズサークルから、多種多様の声が発せられる。しかし混乱はそれで収まるはずもない。それどころか、より大きな渦となって慧を呑み込もうとしてくる。
「もう、なにもしないでアウトでいいよ……打てるわけないんだし……」
誰にも聞こえない程度の小声で呟く。様々な感情で心の目が回っている慧とは対照的に、マウンド上の悠莉は落ち着きを取り戻していたようだった。
「いいわよ、黙って立ってさえいれば……そうすれば、すぐに終わらせてあげるからっ……!」
セットポジションからの動作ながら、満塁であるのをいいことにクイックモーションは行わない。腕の振りも緩く、完全にコントロール重視に切り替えているようだ、と慧は直感で悟った。
しかしそんなボールでも、慧の目には剛球に映った。ボールはまたも真ん中を通過し、二球でツーストライクに追い込まれる。
打てっこない。目の焦点が合わず、俯いてしまう。
「慧! 振れ! 打てる打てる!」
しかしその時、そんな慧に強烈な声が刺さった。
その声にまさか、と思い慧は顔を上げ、声のする方を見た。声の主は慧の直感の通り、華凛だった。真剣な表情で慧を見据えてくる。
華凛の目は言っていた。これまである程度の練習はしてきた。普段通りやれば打てる。
慧の脳裏にはこれまでの練習の日々が浮かんだ。その中で受けてきた華凛のアドバイスも同時に思い出された。打席中体を支配し続けていた緊張も、この瞬間だけは意識から消えていた。
慧は小さく頷いてバットを上段に構える。頭の中は『練習の通りやってみよう』との思いで満たされていた。構えた直後、視界の隅にチラリと見えた華凛は小さく頷いてくれた気がした。
「これで……終わりよっ!」
悠莉が三球目を投じた。先ほどと同じようなゆったりしたフォームで。
「やれー!」
「……行け!」
ベンチから一層の歓声。慧はその声に乗せられるようにスイングする。
思いを込めたそのスイングはしかし、悠莉のコントロール重視のボールに触れることなくフォロースルーへと到達してしまった。やはりど真ん中のストレートだが、バットに当てることは、叶わなかった。
「ストライク! バッターアウト!」
球審のコールが響き渡る。状況を理解した慧は、背中を丸めてバッターボックスを出て行った。
「うぅ……」
バットを振ることすらままならない混乱、ボールに当てることすら出来なかった悔しさ、緊張から一時解放された安堵、様々な感情を織り交ぜながら慧はヘルメットを置いた。
「ドンマイ」
不意に肩が叩かれる。慧の横に並んだのは華凛だった。
「華凛ちゃん……」
華凛の存在を間近に感じ、慧は安堵の気持ちが大きくなるのを感じた。
「綺麗なスイングだったわ」
「華凛ちゃん、ありがとう……わたし、華凛ちゃんの声が聞こえたときだけはなんだか緊張が解けた気がしたんだ」
「そ、そう……それは良かったわ」
率直な言葉を放つ慧から顔を隠すように、華凛は顔を背ける。慧も二の句は告げない。二人の間にふと漂った沈黙が慧には心地よかった。
「あーーっ!」
直後、金切り声と甲高い金属音が同時にこだまする。慧から三振を奪い気を取り直したであろう悠莉から鮮やかなレフト前ヒットを放ち走者二人をホームへ迎え入れたのは、前打席で屈辱の空振り三振を喫していた直子だった。