香椎東対天神商業6
「いけー梓ー! つづけー!」
俄然意気の上がる香椎東メンバーの声が威勢良く三塁側ベンチから響く。ワンアウトランナー一塁。一塁ベース上にはチーム初安打を放った千春がいた。千春は両手を見つめ、その感触を思い出す。
――今回はたまたまコースが甘くなったから良かったものの、そう毎度毎度打てる球ではありません。ここがひとつの好機となるはず。頼みますよ、梓。
千春は目線を掌からマウンドへと向け、離塁を開始した。牽制球を警戒した小さめのリードだ。悠莉はそれをチラリと見やり、ゆっくりとセットポジションに入った。
瞬間、千春は息を呑んだ。こちらを覗き込んだ悠莉の顔が、笑っていたのだ。
直後悠莉は投球を開始する。その笑みは絶対に抑えられるという自信の表れだろうか――しかし、そのボールは、悠莉の目論みを嘲笑うかのように弾き返された。打球は一二塁間をゴロで抜けていく。
「なっ……!」
あまりにあっさりと打たれ、悠莉は思わず声を上げる。その打球は、まさにこの試合で悠莉と息詰まる投げ合いを演じている梓本人のバットから放たれたものだった。
「やるー! さすが梓!」
「職人だねえ」
歓声が飛ぶ三塁側ベンチを背に、悠莉同様唖然としていたのは次打者である豊だった。
――なんつー淡々としたヒット……こんな簡単に打てるものなのか?
本質の掴めない梓のプレーに困惑しながら豊はそのまま打席へと向かう。
その打撃は相当なセンスを持っていることをうかがわせた。それは本来なら中軸を任せたい程のものといっても過言ではない。投球に専念させるために下位を打たせているのだろうか。豊は打席に立ちながらこの打順の意図を読もうと考えを巡らせた。
「チャンスよー! うてうてー!」
一際大きくなった歓声が、豊を唐突に現実に戻した。豊は考察を強制終了させんと首を横に降り、思考をクリアにする。捺から授けられたアドバイス、そして今目の前で繰り広げられた上級生による実践の光景を今一度頭に流す。
しかし、その横から一際物騒さを増した声が割り込んで来た。
「こうポンポンとヒットが出たら舞い上がる気持ちも分からなくはないわ……でも!」
マウンドが音を立てて踏み鳴らされる。お世辞にも機嫌が良いとは言えない様子の悠莉が仁王立ちしている。
「あくまでもまぐれなんだから……それを今から分からせてあげるわ!」
効果音が聞こえそうな程の勢いでホームを指差す。豊はその煽りを受け止めることなく、先程流した映像をひたすら繰り返し脳内で見ていた。良いイメージは出来てる。あとは現実に反映させるだけだ――心の中でそう呟いた。
その最中、悠莉は容赦なく第一球を投じる。豊の目が大きく見開かれた。
「ここだっ……うおっ!」
しかしその目に飛び込んで来た映像は、曲がりうねる濁流のような光景だった。イメージとのあまりもの乖離に豊は腰を抜かしそうになる。
――な、なんだこのボールは……! やっぱり難しいじゃないか! どうやってあんな簡単に打ったんだ! 詐欺だサギ!
心の中で上級生に思いの丈を訴え、一呼吸つく。しかし、やがて吹き出して来るのは安堵ではなく冷や汗だった。
――やばい、やばいヤバい……どうやって打つんでしょコレ……。
心の声が止まらない。焦る豊を追い詰めるように二球目がやって来る。まるで手が出なかったが、幸いにもボールとなってくれた。
豊は思わず安堵のため息をこぼす。その背中に送られる声援はますます大きくなっていた。
「がんばれー!」
「てめー打てよオラァ!」
思い思いの声が背中を叩く。豊はその想いを受けながら、頭の過去ログを必死に検索していた。
――何かなかったか……こういう時、良い切り抜け方……。
直後、ひとつの項目が検索に掛かる。豊はそれを確認し、瞬間的にファーストとサードのポジショニングを横目で確認した。それは自分にとって賭けだが、やるしかない。
豊の決意と悠莉の投球は同時だった。迫り来るボールを縫い目まで直視し、頬に一筋の汗が垂れる瞬間に豊はバットを水平に構えた。
「あーっ!」
うねり狂うボールは、コツリという音と同時に生気を失い、力なくグラウンドに転がった。弾かれたように悠莉、キャッチャー、サードがボールへ駆け出す。サードが真っ先にボールへ到達したものの、既に豊を含む各ランナーは進塁を果たしていた。
「ムキーッ! ずっこい! ムカツク!」
悠莉は地団駄を踏む。その他の守備陣は皆一様に驚きの表情を見せていた。それほど完璧に決まったセーフティバントだった。
「ま、こんなもんっすね……! そうっす、困ったらこれっすよ……!」
心臓の鼓動は高鳴っている。しかし、まさにしてやったりだった。これで全ての塁が埋まった。
ワンアウト満塁。香椎東ベンチは一層の盛り上がりを見せていた。
――え。
――これ、どうすればいいの?
ベンチ内を包み込む歓声の中にあって一人、慧は目の前が真っ白になっていた。震える足は一歩一歩進むのがやっと、滲む手汗でバットを握っているのがやっと。まるで囚人のように背中を丸めてバッターボックスへと引きずられるように向かった。