部室にて
登場人物
若月慧
高校一年生。友達作りのため高校で部活を始めようと目論む。
伊勢崎華凛
高校一年生。慧を野球部に誘う。理由は謎。
「失礼します」
華凛が威勢よくも礼儀正しさを感じさせる口調で挨拶し、ドアノブを引く。どうやら鍵はかかっていないようだ。一呼吸置いて華凛が足を踏み出す。慧はその後ろに、隠れるように入室した。
「ここが、野球部の部室……」
慧は呟き、覗くように室内を見回した。部室内は広く、十人程度なら余裕を持って入れそうなスペースがある。しかし、向かって右側にずらっと配置されているロッカーが空間を圧迫している。恐らく更衣室を兼ねているゆえの配置なのだろう。新しい備品なのか、ロッカーにはサビひとつない。
正面には窓があり、カーテンが開いている。そこからほんのり暖かい陽射しが部屋に差し込んでいる。
窓のふもとには机がひとつ。まるで会社の重役が使うような重々しいもので、部屋全体の中でも一際大きい存在感を放っている。付属の椅子はなぜか反対方向、つまり窓側を向いている。
その机の手前、部屋の中央には複数人で使用するようなテーブルがあり、いかにも簡易的なお茶会でも開かれそうな雰囲気を醸し出している。
「綺麗ね」
華凛がボソッと呟いた。慧は言葉に出しそびれたものの、頷きで同調する。
慧は、運動部の部室は散らかっていて汚いものだろうと勝手に思い込んでいた。単なる先入観ではあるものの、先程の華凛の呟きには多少ながら驚きの色が見えたのでそれはあながち間違いで無いと想定される。
しかし、この部室の整頓のされようには目を見張るものがあった。煩雑さや埃っぽさなどは感じられず、きちんと整理、掃除が行き届いている。ロッカーさえなければ運動部の部室だと信じられない程だ。運動部未経験の自分がそう思うのだから、華凛はさぞかし驚いたはずだ。慧は華凛をちらりと見る。
――あれ、そういえば華凛ちゃんって中学のときも運動部だったのかな。
ふとそんな疑問がよぎった。野球部に誘ってくる位だから華凛は経験者か何かだろうとこちらも勝手に思い込んでいたが、本人からはその辺りのことをまだ何も聞いていない。
「誰もいないみたいね」
慧の思考は、その対象である華凛によって遮られる。
「そ、そうだね……いいのかな、鍵とかかけてなくて」
「そうよね。こんなきちんとした部屋なのに鍵の閉め忘れってどこか抜けてるわね」
「は、はは……」
抜けてる、という表現が侮蔑にあたるような気がした慧は華凛に完全な同調が出来ず愛想笑いでリアクションを済ませる。
「でも、なんか、へんな感じ……」
慧は今一度部屋を見回し、この状況は妙だと改めて感じる。これだけ整理が行き届いた部室の鍵がかけられていないというのは不用心さを際立たせている。
「まあ、ついうっかり閉め忘れた、ということはあるかもしれないわね」
「そ、そうだね……」
「それはそうとして、困ったわね。誰もいないのに部外者の私達が中で待ってるわけにもいかないし」
華凛がどうしたものかと考え込む素振りを見せる。
その時、唐突に慧の頭の中でキラッと光るものがあった。
――これは、チャンスではないか。
このスキに適当な会話でお茶を濁しつつこの場を切り抜けるか、あるいはすかさずダッシュで逃げるか。いずれにせよ、このまま流されるままに入部することは避けたい。部室に入るまでに消費し尽くしたと思っていた抗う力はしかし、わずかながらに残っている。いつも人に合わせた生き方をしてきた慧はここで意を決して、自分を主張するための戦いに出た。
「かっ、華凛、ちゃん……」
「ん?」
「あ、あの……その……っ!」
モジモジしながらも必死に言葉を紡ぐ。
「どうしたの」
「い、い……」
「……いい天気だねっ!」
華凛はキョトンとしてこちらを見ている。
「きょ、今日……」
続けて話そうとするも、慧は次の言葉を出せない。
「……そうね。それは確かだけど」
華凛は呆れたように同意した。
――あ、あれ?
何か思い描いた構想と違う。なぜいきなり天気の話をしてしまっているのだろうわたしは。晴れているからどうだというのだろう。心の中で自分に突っ込みを入れた直後。
「それが、どうかしたの?」
華凛が同じ趣旨の突っ込みを入れ、訝しげに慧を見る。慧は脳内でパニックに陥った。
――そんなの、わたしだってわかんないよ!
心の中で叫んだ。脳内の混乱は、自身のアタフタした動作となって外部にまで出力された。あまりに絶望的な自身のコミュニケーション力を慧は恨み、柄にもなく自我を出そうとしたことを後悔した。わずかに残っていた抗う力はもう寸分程度しかない。
「大丈夫?」
華凛の視線が半ば哀れみの色を含んだようなものに変わる。これはもう大丈夫じゃないことにしてここではないどこか、いっそ保健室にでも連れていってもらおうか、と慧にとっての妙案が浮かんだ刹那。
これまで窓に向かっていた椅子が、くるっと回転した。
「……!」
二人は思わず身構えた。慧の心拍数が跳ね上がる。揃って椅子の方に意識を向ける。
「人が座ってたのね、気付かなかったわ……」
華凛が呟く。椅子が逆方向を向いていることに若干の違和感はあったものの、二人ともさして気には留めていなかった。しかしそこに人がいるならばドアに鍵がかかっていなかったことも説明がつく。
かくして窓側の椅子に座していたらしい人物は今、二人と正対した。
「こんにちは」
一言目が飛んでくる。華凛は動じず、あくまで冷静に言葉を重ねる。
「こちらが野球部の部室ということで宜しいですか?」
「……いかにも!」
一瞬の溜めを作り、突如姿を現した人物はそう答えた。
「いや済まなかったわね。入室に気付いてはいたんだけど、ちょっと驚かそうと思って……ほら、私少しイジワルだから!」
寝起きのあくび時のように瞳を潤ませながら早口で続ける。
――あぁ、寝てたのか。
不意を衝かれて上がった心拍数がまだ下がりきらない状態ながらも慧は理解した。しかし、初対面の相手に対して突っ込みを入れるほどの胆力は慧には無い。隣の様子を窺ったが、どうやら華凛にも突っ込みを入れる気は無いらしい。
女生徒の校章は青。つまり二年生ということになる。慧と華凛にとっては先輩にあたる。
「ところで」
重役のような女性が続ける。
「見たところ一年生のようだけど……わざわざ入学式終わりにここまで駆けつけて来るということは、もしかして入部希望かしら」
一呼吸置いた後、華凛が明瞭な口調で答える。
「はい」
「あら、それはそれは……二人とも?」
先輩の女生徒は質問を重ねてくる。
――ちょっと待ってください! そのうち一人はまだそこまでの決意は……!
「はい」
慧が主張を頭に浮かべたのと同じタイミングで、再び華凛が返事をした。
「あら……あら、あら、あら……」
重役は下方向へ視線を移し、噛み締めるように首肯を繰り返す。やがて表情がニンマリとした笑みに変わる。
「どうやって新入部員を集めたものかとずーっと頭を悩ませていたんだけど……あっ、もちろん今さっきもね」
なぜか一言、舌でも出しそうな表情とセットで付け加えてくる。おどけているが真面目な人だと慧は素直に思った。隣をチラリと見ると華凛は華凛で何か言いたげな表情をしていたが、リアクションはなかった。
「……そうね、これは非常に喜ばしいことだわ。二人とも、歓迎します。それはもう大歓迎ね!」
テンションが高い。入部希望者が現れたことが余程嬉しいのだろう。慧は愛想笑いを浮かべながら、内部で考えを巡らせていた。
――どうしよう……なんか「やりたくない」って言いづらい雰囲気だ……でもやりたくないものはやりたくないしな……嫌々やっても皆に迷惑かけるだろうし……でも、やりたくない……やりたくないし出来るわけないよ……ああもう……なんでこんな……なんでなんで……!
不満を脳内にぶちまけるものの、それを言葉にすることは出来ない。
――やりたくない……でも、そんなこと言ったら……。
断ることが出来ない慧の性分が顔を覗かせていた。仮に断ったとして、その直後に必ず訪れる相手の冷ややかな視線。それがどうしても堪えられない。たまらなく逃げたい。故に慧はどうしてもそれを言葉にすることが出来ず、飲み込んでしまう。自分の中に押し込んでしまうのだ。
「いやこんなに嬉しいことはないわね……あ、そうだ。自己紹介しておこうかしらね」
重役は立ち上がってこちらへやって来る。
「私は天宮捺。二年生だけど一応部長をさせて貰ってます。これから宜しくね」
華凛に手を差し出す。華凛はそれに応じ、二人は握手を交わした。
その瞬間、少しだけ剣呑な空気に変わったことを慧は察知した。握手を交わした二人の表情が変わる。捺はまたもニヤリと笑みを浮かべた。
「……けっこうな実力とお見受けするわ。これは本当にウチに波が来ているかも知れないわね」
捺は静かに、しかし嬉しそうに語る。華凛が応答する。
「いえ、恐らく先輩が感じた以上に私は今驚いていると思います……宜しくお願いします。捺先輩」
あくまで冷静に振る舞いながらも顔はわずかながら上気している。その二人の様子を慧は黙って見ていた。
――スポーツしてると握手するだけで相手の力が分かるのかな……ふしぎだ。
ひとり唸っていると、捺が返事をする。
「ふふ、これから楽しくなりそうだわ。名前は?」
「伊勢崎華凛です。ポジションは――」
「ん、伊勢崎……? どこかで聞いたような……」
華凛が全てを言い終わる前に捺が割り込む。少しの間うーん、と唸り、やがてすっきりした表情で声を張り上げる。
「確か、去年の中学県選抜メンバーね!思い出したわ……例年以上に優秀な選手が揃ってたみたいじゃない」
「いえ、そこまででは……」
「噂は聞いてるわ。その中で俊足強肩強打と三拍子揃い「福岡ナンバーワンセンター」の称号を得ていた選手が、伊勢崎華凛……あなた、ってことね!」
捺が興奮ぎみにまくしたてる。
「そんな肩書きは仮初めです。周りが勝手にそう呼ぶだけで」
謙遜する華凛は少し恥ずかしそうにしている。
――すごい……かっこいいな。華凛ちゃんには二つ名があるんだ。ナンバーワンセンターか……でもセンターって、そもそもユニットのトップの人がやるものだと思うんだけどな……ん……ってことは、やっぱり華凛ちゃんは経験者、ってことだよね。
アイドル用語とごちゃまぜになりながらとりあえず感嘆し、慧は先程疑問に思っていたひとつの事柄の回答が提示されたことに気付いた。そんなことなど知るはずもなく捺が続ける。
「と、いうことはまずセンターは埋まったわね。直子にはどこをやってもらおうかしら……」
独り言かこちらに問いかけているのか判断しづらい口調で話を進める捺に華凛が反応する。
「あの、ポジションの事ですが……」
「ん?」
「高校では、ファーストをやろうと思っています」
「えっ」
捺が少々驚いたような顔つきになる。わずかに間を空けた後、問い掛けるように続ける。
「そう。まあウチは部員少ないし、和気あいあいやるスタイルだから無理強いはしないつもりだけど。あなたは本当にそれで――」
そう言いながら捺はまるでうかがうように華凛を見る。華凛はその澄んだ瞳で捺を見据える。
瞬間、捺の表情が何かを悟ったようなものへと変わった。
「そうね……分かったわ」
捺の反応を見て、華凛が無言で一礼する。一連の流れを眺めていた慧は、しかしその意味するところがよく分からなかった。
――ポジションは守るところ、かな? なんとなくそうだよね……じゃあファーストって……一番目? 一番最初に守るのかな……ということは、守る順番があるってこと……? なんだかよくわかんないな……。
二人の意味深なやり取りはもとより、そもそも野球を知らない慧は出てきた単語の意味を解釈しようとひとり悶々としていた。その元へ、華凛との会話を終えひとしきり満足したらしい捺が歩み寄って来る。
「あなたも入部希望よね。宜しくね」
捺が笑顔で手を差し出す。突然の呼び掛けに慧はビクッとしてその手を見つめる。
――やっぱり来たか。そんな気はしてたけど……。
瞬間、思考が交錯する。
この手を取ったら最後、もうきっと抜け出せない気がする。
でも、拒否したら、きっと嫌われる。
捺の差し出す手を前に、慧の心は揺れに揺れていた。