香椎東対天神商業2
登場人物
若月慧
高校一年生。文芸部へ入部する決意を固めたものの、野球部へ入部させられてしまう。部員勧誘に頭を悩ませる。試合に出たくないと思っているが人数がギリギリのためどうしようもない。
伊勢崎華凛
高校一年生。慧を野球部に誘う。周囲の視線を奪う容姿の持ち主であり中学時代は名のある選手だったらしい。ただし硬式野球は高校から。部員勧誘に頭を悩ませる。
天宮捺
高校二年生。野球部部長。楽天的な性格。文乃へ部員勧誘のボード作成を依頼する。行動派かつ意地悪な面あり。新チーム初の練習試合にウキウキ。
林直子
高校二年生。基本的にテンションが高い。あっさりした性格。新チーム初の練習試合にウキウキ。
近藤千春
高校二年生。野球部副部長。真面目な性格。夏の大会では二番センターだった。生徒会の活動が忙しい。
西川文乃
高校二年生。夏の初戦では七番セカンドだった。美術の才能がある。恥ずかしがり屋。
吉田清
高校二年生。部内で一番の大柄。
大崎梓
高校二年生。夏の初戦では六番ライトだった。
物静かで謎が多い。
新チームでは投手を務める。
中川幸
高校三年生。眼鏡をかけている方。おっとりしている。野球部は引退し塾通いの日々。
佐倉千秋
高校三年生。眼鏡をかけていない方。おっとりしており後輩の面倒見が良い。野球部は引退し塾通いの日々。
杉山豊
高校一年生。大切にしている熊のぬいぐるみを捺に奪われ交換条件として練習試合に助っ人参加。中学時代はキャッチャーだった。
平悠莉
中学時代の捺、直子のチームメイト。天神商業へ進学し、一番手ピッチャーの座を掴み取る。香椎東に練習試合を持ち掛けた張本人。
吉松蓮花
天神商業の二番バッター。
恐らく世の女子高生の平均くらいであろう身長にスレンダーな体型。ヘルメットからはみ出している後ろ髪をなびかせ、少女は左打席へ入る。
吉松蓮花。重量打線と名高い天神商業の二番打者を務める。本日初めて踏み入れられる左打席で軽く地ならしする彼女を、豊はホームベースの後ろから観察していた。
一番の上条はうまいこと抑えられたものの、気は抜けない。どう攻め方を組み立てるか。その思考で頭がいっぱいになっている豊に考える隙を与えないと言わんばかりに、蓮花は地ならしを終えて構えに入る。
「っ――!」
豊は思わず息を呑んだ。力みの無い洗練された所作。優美さ漂うその佇まいはしかし、豊の胸に言い知れぬ恐怖の感情を芽生えさせた。言いようのない圧迫感に、思わず豊はホームベースへと目を下ろす。口から軽く息を吹き出し、迫り来る負の感情を心の奥底へと受け流す。
――この感じ……やば系、っすね。
ひとまず感情のコントロールを終えた豊は改めて切り口を探す。とりあえず外から入っておくか。何ならボールになっても良い。いや、むしろボールになる変化球で出方を見ておくか。
――ダメっすね。どうしたもんか。
落ち着きは取り戻したものの、初球の入り方にどうしても逡巡してしまう。考えの纏まらない頭でふと前方に目をやると、そこにはマウンド上で顔色ひとつ変えることなく静かに佇んでいる梓の姿が映った。
その静謐さに豊は目を見開いた。蓮花の放つ禍々しい気さえも包み込むような、泰然自若の気配を梓は有していた。
「……堂々としたもんっすね」
思わず呟いてから一度ホームベースに目をやり、キッと前方を見据える。迷いは消えた。バシンとひとつミットを叩き、外角いっぱいに構える。
――どうせ打たれるときは打たれる……まずは思うままに、攻めてみますか!
豊の思いに呼応したのか定かではないが、ゆったりしたワインドアップのフォームから放った梓のボールは、構えるミットそのままの位置に到達した。音鳴り良くボールはミットに収まる。
「……ボール!」
若干の間を置き、勢いのある球審のコールがこだまする。豊の構えた位置はストライクゾーンすれすれ、審判の判断次第ではストライクと取られても良い位置だった。しかし豊は判定に不満を見せる素振りをすることなく、すぐに梓へと返球する。
――良い反応っすね。
ボールがベースを通過する瞬間、蓮花のバットが僅かながらピクリと動いたのを豊は見逃さなかった。
――じゃあ次は、これっすね!
素早く二球目のサインを送る。コクリと頷いた梓は、同じテンポで二球目を投じた。豊はボールの軌道を注視する。内角寄りの甘いボール。蓮花の足がここぞとばかりに勢い良く踏み出す。バットがしなるように体に巻き付いてボールを叩かんと現れてくる。
「来いっ……!」
直後、豊は短く叫んだ。蓮花が息を呑んだ気配を豊は感じ取った。蓮花にとって打ちごろのコースと思われたであろうボールは向かう道を蓮花の体の方へ転換してきた。ボールの正体は、左打者の内角へ切れ込む、カットボール。
「よしっ、詰まれ!」
バットの根元に当たったボールがどん詰まりのゴロになる画が豊には見えた。
「なっ……!」
しかし、事は豊の思い通りにはならなかった。
体の内側のさらに内側から鞭のように伸びて来るバット。刹那の間にバットの根元はボールからするすると逃げて行き、その代わりに登場した芯がボールと正対し、そのまま弾き返した。
直子に指示された位置取りで中腰の体勢を取っていた慧は、その瞬間を目撃した。
何かの動物の鳴き声のような甲高い音がした直後、打球はまるで遠くからやって来て目の前を通り過ぎる新幹線のような重厚感と速さをもって、センターを守る直子の前にワンバウンドで到達した。臆することなく捕球して瞬時に内野へと返球する一連の動作を、慧は首の動きだけで追っていた。足は動こうとしない。
天神商業、二番打者の吉松蓮花がチーム初安打となるセンター前ヒットを放ち、状況はワンアウトランナー一塁となった。一塁ベース上でヘルメットを被り直す打者走者、そして打席に入ろうとする次打者を見ながら、慧は自分の足が震えていることにようやく気づいた。
「あ……あんなのが、こっちとんできたら……とれないよ……とれるわけない……」
心臓も足と同じように震える。遥か遠くに離れているはずの打者が怖い。今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。いっそフェンスにもたれておけば多少気持ちが楽になるだろうかと後ろを振り返ろうとした。
「ケイーー!」
直後、自らを呼ぶ声を耳にする。すがるようにその方向を向くと、直子の大きい身振りが目に飛び込んで来た。
「こ、ここ……?」
身振りのままに慧は立ち位置を変える。やがて直子がオーケーサインを出した。
「外野って、けっこうせわしなく動くんだなあ……」
本日二度目の立ち位置変更を終えた慧は改めて前を向いた。
「えっ……!?」
その位置は、前打者よりも数歩前進した位置だった。次打者が右打者のため、ライトである慧はより前でポジションを取る、という直子の狙いだが、慧から見える景色は恐怖そのものだった。
とにかく近い。たかが数歩の移動のはずが、打者との距離がかなり縮まったように慧には感じられた。
「無理……むりむりむり、むりだよ……!」
フェンスまで駆け出したくなる気持ちだったが、震える足は言うことを聞いてくれなかった。
「さあ! このあたしがバックスクリーンまで放り込んであげるから覚悟しなさい!」
威勢の良い声がグラウンドに響き渡る。
「ここバックスクリーンないわよ。高校グラウンドだし」
「うぐ……ふ、雰囲気よ、ふんいき!」
ショートを守る捺から飛ぶ冷静な突っ込みに熱っぽく応戦する三番打者は、今日のホスト役を務める悠莉だった。捺と言い合ったそのままの勢いでズカズカと右打席をならす。
――威勢は良さそうですが、さて……。
その脇で、豊は冷静に打者の様子を観察する。蓮花による強烈な打球を目の当たりにしたが、思考は既に切り替わっていた。
――さっきのバッターを差し置いて三番……恐らくかなりの能力があると見えますが、心の内は読みやすそうっすね。まずは……これ。
迷い無く初球を決定した豊。送られるサインを確認した梓は、セットポジションから第一球を投じた。
「わっ……!」
思わず悠莉はのけ反る。初球は内角のボール球。見方によってはビーンボールを疑われるレベルだ。
「やってくれるじゃない……」
剣呑な雰囲気が悠莉から発せられる。どうやら挑発行為と受け取ったらしい。豊はすぐさま二球目を要求する。ランナーを目線で牽制しつつ、梓は二球目を投げ込んだ。
「とんでけ……!」
外角寄りのボールに、悠莉は思い切り踏み込んで行く。ボールを遥か彼方に飛ばさんとバットが唸る。
しかし、それを嘲笑うように、ボールはさらに外へと逃げていく。
「っ……!」
挑発に乗ってくることを見越したスライダー。無理に引っ張りの打球を放とうとする悠莉の、完全な逆を突いた。
「ちっ――!」
刹那、悠莉はバットの向き先を変えた。レフト方向への引っ張りからライト方向への押っつけへ。悪魔のような方向転換を展開し、放たれた打球は一二塁間を襲った。
心臓がひとつ大きく高鳴り、思わず吐き出しそうになる。金属音を上げ、打球が今まさにこちらに向かって飛んで来ている。慧は迫り来るボールを目で追うことしか出来ない。頭は真っ白になり、身体はミリ単位も動かず硬直する。
「文乃、いけー!」
そんな慧の耳に不意に届く大声と共に、ボールを凝視し狭くなっている視界の端から突如現れ打球をかっさらう者がいた。
「んっ……!」
その正体は、セカンドを守る文乃だった。捺の声に呼応するように懸命に左手を伸ばし辛うじてボールを捕らえると、すぐさま半時計回りで二塁ベース方向へと送球。
「でかした文乃!」
カバーに入っていた捺は送球を受けるや否や、眼前に迫る蓮花の身体を横に避けつつ一塁へ転送した。その流れを慧はただ懸命に目で追った。
「くっ……!」
ファーストの華凛が懸命に身を伸ばし捕球するものの、それより一瞬速く悠莉の足がベースを駆け抜けた。弾かれたように、セーフのコールと共に塁審が両手を横に広げる。
「あぶなーっ、今のが抜けないのね……」
どこか悔しげな表情で悠莉は一塁ベース上へと戻る。そこへ、二塁ベース上でアウトになった蓮花がゆっくりと近づいた。
「ユーリ、全力疾走は控えて。ケガが怖いから」
ポソリと悠莉に一言だけ告げ、ベンチへと下がる。
「ハイハイ、わかってますよ……」
どこか不服そうに悠莉はコクコクと頷き、離塁を始めた。
牽制球が来ても無理なく帰塁出来る程度のリードを横目で確認し、華凛はファーストミットを掲げながら投手方向へ構えを取る。
――どうりで、やけにファーストランナーが簡単にアウトになったと思ったわ。
ロージンに手をやる梓の姿を見ながら華凛は直感する。
自分達はあくまで調整相手なのだ。こちらがどれだけ全力で向かって行っても、相手は香椎東でなくトーナメント表における次の対戦相手の事を見据えている。これは、そういう試合なのだ。どうしようもない現実に華凛はひとつ息を吐く。勿論それは当然だし、分かっていたことだった。
しかし。
「……やっぱり嫌ね」
現実を確認した時、華凛の胸にふつふつと湧き上がるものがあった。
「よ、よかった……もしここまで来てたらどうなってたか……」
慧は地獄から生還したかのような安堵のため息をつく。
「よかったなーボール来なくて」
ふと、背後から声がする。驚いて振り向くと、そこには直子の姿があった。
「な、なな、なんでこんなところに……」
「カバーだよ、カバー」
直子は慧のうろたえを気にする様子なく説明を始める。
「外野ってのは、ミスしてボール逸らしたら後ろに誰もいないんだ。だから出来る限り、外野同士でカバーする。今度右中間にでもボール飛んだら、あたしのカバーよろしくな。場所によっちゃケイちゃんにそのまま捕ってもらうけど」
「は、はあ……」
説明を終えた直子はいたずらっぽく笑みを浮かべながら持ち場に戻ろうとする。
しかし直後、険しい顔つきで慧の方を振り返った。
「……まずい。ケイちゃん、後ろだ」
「え? あ、はい……」
直子の表情が様変わりした理由が分からず、慧はただ指示に従い、遥か後方へと立ち位置を変更した。それは先程の左打者よりも後ろの位置取りだった。
「やった、これだけ遠ければちょっとは怖くないよ……」
慧は気分良く打席へと目をやる。しかし次の瞬間、直子の豹変の理由を悟った。
背筋がゾクゾクと疼き、大いなる緊張に包まれる。
「な、なに……このヒト……!」
遥か遠くの慧までも届くプレッシャーが、今、打席に立った四番打者から放たれていた。