突然の出会い
登場人物
若月慧
高校一年生。友達作りのため高校で部活を始めようと目論む。
「ちょっと」
唐突に声がして慧は思わず体を震わせた。
喧騒の中にあってもよく通る、強さを感じる声。
不特定多数の人間がいるこの状況で声に反応してしまったのは、直感的に、これが自分を呼び止めるための声であるということが察せられたからだ。
しかしながらこの声質の持ち主は恐らく自分が苦手な類いの人間であろうということも、慧は同時に予感していた。
誰に対しても、例え初対面の人間に対しても思った事は包み隠さずズケズケと言うタイプ。そういう人間から「ドジだよね」とか「トロいなあ」だとか言われ続けた過去の記憶と共に、嫌な予感がやってくる。
しかし反応してしまったからにはそのまま無視、というのはあまりに不自然。声をかけられてからこれまでの思考を挟み、それでも可能な限り素早く。しかし端から見ればどこか怯えたように。慧は後ろを振り向いた。
「あっ――」
思わず声が出る。その姿は、慧が予想していたものと少し違っていた。
一目にはやや細身に見えるが、それは慧よりも高い身長がそう見せているのであり、単に華奢なわけではないことはすぐに分かった。肩にかかる長さで良く整えられた髪から清潔感が漂う。
その立ち姿から発せられる雰囲気は清楚かつ優美。慧が思い描いた、たちどころに他人の意見を否定しやたらと攻撃的な接し方をしてくるタイプの人間というイメージとは違っていた。多少ながら、慧は安堵することができた。
ふと、慧はこの間、彼女の瞳から目を離せずにいることに気付いた。
真っ直ぐにこちらを見据えてくる澄んだ瞳。その美しさに、そしてどことなく感じられる儚さに慧は知らず惹かれ、何も言葉を発することが出来ず、ただ黙って瞳を見つめ続けていた。
「何黙ってじーっと見てるのよ」
瞳の主からの突っ込みが入り、思わず我に帰る。実際には秒単位の時間ながら体感では随分長い間見入っていた気がして、気恥ずかしくなる。
「す、すいません……」
辛うじて謝罪の意を伝えたのち、状況を打破するべく、基本的に受け身である慧にしては珍しく自分から会話を始める。
「ど、どうしてわたしに声を……」
「その前に、私のこと分かる?」
「えっ……?」
予想していない切り返しに慧は一瞬固まる。しかしすぐに思考が再開し問いかけに返答しようとするも、言葉が出てこない。
慧はこの女子を知らない。しかし向こうがそう尋ねてくるということは、恐らく向こうはこちらを知っている。その相手に対して「あなたのことは知らない」と言ってしまうことは何か良くないのではないか。
「やっぱり」
目の前の女子は溜め息混じりに言葉を発した。回答を探すための沈黙が長かったため「自分のことは知らない」という結論だと判定されたのだろう。
「私は伊勢崎華凛。一応同じ中学なんだけど」
「えっ」
想像もしていない回答に、上手くリアクションがとれない。伊勢崎華凛と名乗るこの女生徒は慧と同じ中学の出身であると言ってきた。彼女の胸に付いている校章の色は緑。
この学校は校章に緑、青、赤という三つの色を使用することで生徒の学年を判断する。三年生が卒業すると次の一年生がその色を受け継ぐ、という形でローテーションされる。ローテーションの順序は緑、青、赤と決まっているため、自分達の色と順序が分かっていれば生徒の学年を判断できるという仕組みだ。
慧たち新入生は緑の校章を付けているため、今年に関しては一年生が緑、二年生が青、そして三年生は赤となる。つまりこの生徒は慧と同じ一年生である。ということは中学時代も同級生だったはずなのだが、慧にはこの女生徒に関する記憶は無い。
「アンタ、同中ならせめて顔くらいは覚えておきなさいよ」
「え、あ、ご、ごめん……なさい……」
またも沈黙を不知と判断されてしまったようだ。反射的に謝罪する。
慧は人付き合いがあまり得意では無い。初対面の人間が相手だと特に緊張してしまい、思い通りに話すことが出来ない。それが続くあまり、自分と関わりのない人間は無意識のうちに避ける癖がついてしまっていた。
それならば、万一でもこの影が薄い自分に対して話しかけて来るような人間は絞られるはず。可能性は低いが、せいぜいかつてのクラスメートといったところであろう。しかしこの女生徒とは中学時代に接点が無い事は確実なのだ。
ならばなぜこの眼前の華凛と名乗る、いかにも自分とは住む世界の違うオーラを放つ人間は、高校になってわざわざこうして話し掛けてくるのか。慧はその一点が無性に気になり、つい先程と同じ質問を繰り返していた。
「あ、あの……なんでわたしに声を……?」
そう問いかけても返答はない。声を掛けておきながらその理由を明かさないとはどういうことなのだろう。次第にやきもきしてくるが初対面の相手に対してどういう接し方をしていくか指針がないため動き出せない。
「アンタ、部活は何するか決まってるの?」
「えっ……?」
また質問を質問で返された。対面以降何度目かの予想外の問い掛けに慧は一瞬固まりかける。しかし今回は踏みとどまり、すぐに回答を用意する。そこに関しては、先程己の中で決定した確固たる決意があるのだ。
「……わたしは文芸部に入ろうかなって」
慧は華凛にそう告げる。今こうして対面するまでは、正にこれからの文芸部での生活に想いを馳せていたところなのだ。故に目の前の初対面の相手に対しても詰まることなく滑らかに発言することが出来た。
しかし華凛は、その渾身の回答を握り潰す勢いで自分の意見を重ねてきた。
「私と一緒に野球部に入るわよ」
「え…………や、野球部!?」
普段はリアクションの薄い慧もこれには驚愕せざるを得ない。
なぜ自分は面識の無い人間から野球部へ勧誘されているのか。なぜ自分なのか。そして、よりによって野球とは。
「わ……わたし運動は苦手で……それに、なんでわたし……」
あまりにも唐突な提案に混乱を隠せない。頭の中で様々な思いが錯綜し、処理しきれない。
「アンタは不健康そうなんだから少し運動したほうがいいの」
でもわたしは文芸部が――という返しが喉元まで上がってきたものの、それを吐き出すことが出来ない。
「え、ええと、い、伊勢崎、さん……」
苦心して相手の名を呼ぶ。
「華凛でいいわよ」
あっさりと返される。これでは何に対して苦心していたのかが分からない。
「じゃ、じゃあ、華凛、ちゃん……」
「うん。私は慧って呼ぶから」
「えっ、なんで名前知って――」
「アンタねえ、こっちから声かけてるんだから。名前くらいちゃんと知ってるわよ」
それはそうか、と慧は心の中で納得する。そして肝心の話題を切り出そうとするが、文芸部に入るということは華凛の誘いを断るということである。この「断る」という行為が慧にとって最も苦手な行為のひとつであり、それゆえ話を切り出せずにいた。
「と、いうことで。早速部室に行きましょうか!」
威勢よく動き出そうとする華凛に焦り、慧は反射的に言葉を発してしまう。
「あ、あの、わたし文芸部に入りたくて……」
「ん?」
声が聞こえたのか、華凛は歩き出していた体を慧へ向け直した。そして腕組みをしながらうなり始める。こちらの思いを汲み取ってくれるのだろうか。慧は淡い期待を抱いた。
「そうね。それなら掛け持ちしたら良いと思うわ」
「か、かけもちって……」
それでは野球部への入部は逃れられないということにならないか。抱いた期待はやはり淡かったのだと慧は心の中で嘆息した。
「文芸部へ行って、掛け持ちオッケーか聞いてみましょう」
言うや否や華凛は歩き始めている。慧は慌てて後に付いていった。
歩きながら、どうせ文芸部の部室には行くつもりでいたのだからちょうど良いかと慧は考えていた。あわよくば文芸部部長に是非ともと入部を請われその権力を以て野球部入部を断れないだろうか、との皮算用まで行っていた。
「ごめんなさい。うちの学校は部活の掛け持ちは禁止されてるの」
しかし、文芸部部長の一言によってまたも構想は打ち砕かれた。
「仕方ないですね……分かりました。ありがとうございます」
いかにも誠実な態度で、何故か華凛が部長に断りを入れ慧の手を引いて部室を後にする。
あまりにもあっさりした別れ。華凛の歩くスピードはどんどん増していく。この、超特急で物事を進めていく様に圧倒され、もはや慧に反対活動を行う力は残されていなかった。
さようなら、わたしの文芸部――慧は心の中で涙した。
「ここね」
いつの間にか、野球部の部室に着いていたらしい。文芸部の部室とはどうやらすぐ隣の棟だったようだ。
華凛がドアをノックしようとする。その前に、慧は先程の出会いからずっと疑問に思っていたことを改めて聞いてみた。
「か、華凛、ちゃん……」
「ん?」
「……どうして、わたしを誘ったの?」
「…………」
少しの沈黙のあと、ヘンテコな回答が返ってきた。
「今はヒミツ♪」
「ひ、秘密って……わざわざ秘密にするようなこと、なの……?」
「今言っても面白くないでしょ」
「そ、そういう問題じゃ……」
「とにかく、ドアの前で立ち話もあれだし。入るわよ」
華凛がドアをノックする。
しばし訪れる沈黙。もしもこの場で走って逃げたなら、あるいはこの現状を回避出来たかもしれない。しかし慧は、華凛の横にとどまり続けた。華凛の行動を、待ち続けていた。慧はこの、主張しない、人任せな自分の性分を恨んだ。
「失礼します」
華凛がドアノブに手をかけ、開ける。そこに待つは鬼か悪魔か。いずれにせよ、慧の頭には何一つ良いイメージが湧いてこなかった。