プレイボール
ベンチに入り荷物を整え、スパイクに履き替えるとウォーミングアップの時間だ。ベンチを出て土を踏むと、その感触の真新しさに驚く。
後ろを振り向くと、スタンドはなんと満員だった。バックネットも一塁側も三塁側も、多くの人で埋め尽くされている。どういうわけか、香椎東の生徒も多く来ていた。
「やっぱり決勝って違うのね」
慧の隣で華凛が呟いた。
「昨日今日と土日なのに、どうやってわたしたちが勝ったって分かったんだろう……」
「昨日来てた人が拡散したんでしょ。それより、こんなに注目されるなんて思わなかったから燃えるわね」
「うう……」
瞳に輝きを宿す華凛の横で、慧は早速うずくまりたくなっていた。まさかここまで観衆がいるとは予想外だったのだ。ましてや自校の生徒までいる。これでは緊張しないわけがない。
「まあ、私達は私達に出来ることをやるだけよ。行きましょう」
華凛が背中にそっと手を当ててくれた。
その僅かなぬくもりは、怖がる心をほぐしてくれた。華凛はいつも、慧が心の中で困っている時に助けてくれる。エスパーか何かと疑ってみるが、子供じみた自分の考えに自分で笑うだけだ。
「……うん。ありがとう、華凛ちゃん」
この試合が終わって落ち着いたら本人に確認してみよう。そう決心してウォーミングアップへ向かう。ランニング中、グラウンドを見渡すとなんだかいつもより広く感じられた。それからダッシュ、そしてキャッチボールと一定のメニューを終え、ベンチに戻ってきた。
「みんな、集まって」
すかさず捺の号令が掛かる。全員がベンチ前に集合した。
「それじゃ今日のオーダーを発表します。といっても普段と変わりないけどね……まず一番センター、直子。今日も外野の仕切りは宜しくね」
「あいよ」
直子は勢い良く手を挙げて応えた。慧にとっては守備に就いている時、この直子が遠いながら横にいてくれるのがこれ以上なく心強い。特に外野守備のことは直子から多く教わったのだ。この大会でも守備の窮地を何度も救ってくれたことには感謝しかない。
「続いて二番サード、千春。三遊間、締めていきましょう」
「今日も二番ですね。承知しました」
千春は二番を打ったり六番を打ったりしていた。この集大成で二番ということは、捺の中ではこれで固まったのだろう。そして捺の隣にこの千春がいてくれれば部長と副部長のコンビで守備もかなり安定する。
「そして三番ショートは私です」
「今日は勝負されると良いねえ」
照れ臭そうに自ら手を挙げる捺に、すかさず直子が茶々を入れる。捺は「そうね」と苦笑した。この絶対的プレイヤーがいるからこそ周りの皆も安心してプレー出来ているだろう。攻守共に香椎東の最重要人物、それが捺である。
「えー次、四番ファースト、華凛。今日も一発期待してるわ」
捺がニヤリと不敵な笑みを華凛に向ける。
「一発は分かりませんが、頑張ります。宜しくお願いします」
華凛は帽子を取り、一礼した。対戦相手にかつての戦友がいるこの試合、きっと心に期すものがあるだろう。まだ見たことのない規格外のプレーを見られるかも知れない、それもこんなに近くで。慧にはその姿がいつも以上に頼もしく見えた。
「続いて五番、レフト清。私と華凛がランナーを残しちゃった時はあなたに任せるわ」
「おうさ。昨日は疲れちまったが今日はバッチリ元気だからよ。やってやるぜ!」
普段はとてもとても怖い先輩だが、意外に優しい面があることも慧は知っている。それでも怖いものは怖いが、細かいことは気にしない豪快さで、ここぞという場面で頼りになる人だ。
「六番セカンド、文乃。ゲッツー取れるところは全部取るつもりで行くから、お願いね」
「うう、ちょっと緊張してるけど、がんばる……」
普段はオドオドしていて頼りないように見えるかも知れないが、そのプレーぶりは堅実で堂々としたものだ。ライト方面に飛んで来るゴロが緊張を生み、横から現れた文乃が丁寧に捕球することで安心に変わった場面が何度あったか、慧はもはや数えられない。
「七番キャッチャー、豊。梓との認識合わせはしっかりね」
「その辺は問題ないっすよ。なんならバッティングも期待してくれて良いんすけどね」
軽口を叩く豊はいつも通りだ。しかし一度マスクを被れば、きっと慧の頭ではとてもついていけないほど野球のことを細かく考えているに違いない。本人の言う通りバッティングの調子が良ければ、慧の前にランナーとして出塁していることになる。それはそれで緊張するな、と慧は思った。
「八番ピッチャー、梓。あなたには負担を掛けてばっかりだけど、今日も宜しくね」
捺は両手を合わせてお願いのポーズを取る。梓はニコリともせず無言で頷いた。これだけ物静かで大人しい彼女が、マウンドに立つとあれほどまでに大胆な投球を疲れ知らずで続けられる理由が慧にはまだ分からない。なんでも打ち返す捺のバッティングよりも、もしかしたら謎かも知れなかった。
「えー最後、九番、ライト慧」
「はっ、はいっ!」
もう自分しか残っていないのに、自分が呼ばれることを意識から外していた慧は思わず飛び上がるような返事をしてしまった。
「この試合、きっとあなたの力が必要になるわ。その足、見せてね」
慧はつい俯いてしまう。自分の足が、期待されている。こんな素人の、たった一つの能力が。
「……は、はい、がんばり、ます」
辛うじて、慧は決意表明をすることが出来た。この試合果たしてどうなるか、終わりは全く予想出来ない。自分に出来ることはもはや、目の前のプレーを全力で、一つ一つすることだけだった。
こんな体育会系っぽいことを考えてるなんてヘンな自分、と心の中で笑う。しかし、照りつける太陽の下では否が応でもそういう思考にならざるを得なかった。
「さて、整列行きますか!」
捺が全員に呼び掛ける。試合がいよいよ始まるのだ。